テラーノベル
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初夏の日差しが、眩しくなってきた。
五月も下旬に差し掛かり、新緑の葉がさらさらと揺れる頃。
私と壱月は花斗を連れて、ピアノ教室の体験レッスンへ来ていた。
アップライトピアノの前に座り、足をぶらぶらさせる花斗。
その隣に、女性の先生が座っている。
私と壱月はその様子を、背後から見守っていた。
先生がなにかを言って、花斗が鍵盤に触れる。
ポロンと小さく音がはじけて、「うわぁ!」と花斗は感嘆の声を上げた。
思わずふふっと笑ってしまう。けれど、懐かしい気持ちになる。
――もう、弾けないけれど。
ド、レ、ミ、ファ、ソと花斗が順番に鍵盤を叩いていく。
その度に先生に褒められて、花斗はニコニコとしながら肩をすくめていた。
体験レッスンが終わると、花斗はすぐに壱月に飛びついた。
「パパ、ピアノかって!」
私は思わず「げっ」と声を出してしまう。
ピアノなんて、ぽんっと買えるものじゃない。
「壱月、ピアノなんて高価なもの――」
「入学祝い、ならどうだ?」
壱月は「それならいいだろう?」と言いたげな顔で、私を見た。
いまだに、この金銭感覚の差に慣れない部分がある。
壱月と再会してからずっと、タワーマンションの最上階に、一緒に住んでいるのに。
壱月が花斗におもちゃを大量にお土産に買ってきた時は、イライラして当たってしまった。
けれど、今は。
花斗に、私ひとりだったらできなかったことを、たくさんさせてあげたいとも思う。
「壱月がいいなら、私もいいと思う」
そう言うと、壱月は「小学生になるんだもんな」と花斗の頭をぐしゃぐしゃ撫でていた。
*
それから間もなく。
ついに、我が家にピアノが届いた。
台車に乗せられてエレベーターでやってきた、アップライトピアノ。
部屋に入ってくるなり、花斗が「わぁぁぁ!」と喜びの声をもらす。
「本当によかったのか? グランドピアノじゃなくて」
壱月は私の隣で肩を並べながら、搬入の様子を見守っている。
「うん、私はこっちのほうが好き。私の実家にあるのも、こっちだもん」
壱月は「そうだったな」と、優しく微笑む。
「俺の中では、愛音はグランドピアノ弾いてたからさ」
「それは高校の時の話でしょ!」
話している間に、ピアノの搬入が終わった。
さっそく花斗が駆け寄って、椅子によじ登っている。
壱月が作業員さんの対応をしてくれている間に、私は一度花斗を椅子から下して高さを整えてやった。
「はい、これで座ってごらん?」
言いながら花斗の両脇を持ち上げ、座らせてあげる。
花斗はご満悦のようで、さっそく蓋をパカっと開いた。
えんじ色のキーカバーを取ってやると、花斗の指がさっそく鍵盤に触れる。
ポロンと、優しい音がする。
私も、こんな感じで弾いてたのかな。
懐かしい気持ちになりながら、きらきら輝く瞳で鍵盤を見つめる花斗を横から見守る。
「花斗、ママはピアノがとっても上手だったんだぞ?」
不意に後ろから声がして、ピクリと体が震えた。
壱月の手はそのまま私の肩に触れて、私は抱き寄せられる。それで、ドキリがドキドキへという早い鼓動へと変わった。
「そうなの?」
花斗がこちらに、きらきらの視線を向ける。
「ああ」
「もう昔のことだから!」
慌てて付け加えても、花斗の視線は変わらない。
「ママ、なにかひいてよ!」
そう言って席を譲られてしまい、後に引けなくなってしまう。
「『猫ふんじゃった』でも、いい?」
すると、壱月と花斗は同時にコクリと頷いた。
久しぶりに、鍵盤に手をのせる。
壱月と花斗の、期待の瞳がこちらを見ている。
恥ずかしさと緊張で、肩が吊り上がってしまう。
「本当にに久しぶりだから、指動かないかもしれないし間違えたらごめんね!」
と、保険を掛けてから演奏を始める。
と言っても、ただの高速『猫ふんじゃった』なのだけれど。
「はい、終わり!」
急いで弾き終え、ぱっと鍵盤から手を離し、席を立つ。
けれど、聞こえてきたのは小さな、そして大きな拍手で。
「ぼくにも、おしえて!」
花斗がさっそく椅子に座り、姿勢を正してこちらを見つめる。
だから、私はそっと花斗の小さな手をとり、その運指を教えてやった。
コメント
1件
うわ、めっちゃいいエピソードだった…! 家族の空気感が柔らかくて、読んでてこっちまでほっこりしたわ。特に「猫ふんじゃった」を弾くシーン、愛音さんの照れと、壱月と花斗が同時に頷くところがめちゃくちゃ好き。ピアノを通して三世代がつながる感じ、泣ける。花斗に教えるラストの手の取り方も優しくて、続きが気になる!🔥