テラーノベル
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その晩、花斗を寝かしつけた私は、懐かしくなってピアノの前に座っていた。
壱月はいつものように大窓のソファに腰かけている。
ピアノは大窓横の壁側に設置してもらったから、壱月には背を向ける格好だ。
もちろん、夜なのでピアノは弾けない。
それでも、蓋を開いて鍵盤を見ていると、思い出が蘇る。
高校時代、休み時間に音楽室でよくピアノを弾いていた。
仲のいい友達と交代で弾いていたのだけれど、壱月はその友達の彼氏と一緒に、よく音楽室でふざけていた。
その様子を、よく見ていた。
視界の端で「男子は馬鹿だな」なんて思いながら、時々友人が恋人と目配せをして頬を赤らめるのをうらやましいな、なんて思いながら。
「なあ、あれまだ弾けるのか?」
不意に壱月に肩を叩かれる。
振り返ると、壱月はすぐそばまで来ていて、ニカっと笑った。
「『子犬のワルツ』」
私の好きだった曲のタイトルを、覚えていてくれることが嬉しい。
「あの曲、好きなんだよな。愛音みたいで」
「私みたいって、どういうこと?」
そう聞くと、壱月はケラケラ笑う。
「そのままの意味。愛音、子犬みたいだった。あの頃から」
壱月は言いながら、窓の外を眺める。
旅客機が一機、羽田空港から飛び立つところだった。
壱月も私と同じように、あの頃のことを思い出しているのかもしれない。
「懐かしいな」
「うん……」
高校の頃、彼がそうしていたように、壱月がピアノ椅子に座った私にわざと寄りかかってくる。
「やめてよ、重い」
「それも、あの時から変わんない」
壱月が言って、そういえば当時も同じことを言っていたような気がするなと思い出す。
「でも壱月、言っても全然止めてくれなくて――」
今もまだもたれかかってくる壱月にそう言うと、それは突然バックハグに変わる。
背中から感じる壱月のぬくもりに、ドキドキと胸が鳴りだした。
「仕方ないだろう、好きな女とくっつける、唯一のチャンスだったんだから」
耳元で囁かれ、ぽっと頬が熱くなる。
当時はいられなかった距離に、今は壱月がいる。
壱月の温もりに閉じ込められた中で、不意に愛しさがこみ上げた。
「私も、本当は嬉しかったんだけどね」
そう言うと、こめかみに優しいキスが降ってくる。
「だったら言ってくれて、よかったのに」
「言えるわけないでしょ」
「まあ、……そうだよな」
壱月がふっとこぼした自嘲のため息が、耳にかかった。
高校時代の思い出。それは、私にとっては、甘いものじゃなくて、苦いもの。
『キスだけならしてやるよ』
そう言って、私の一世一代の愛の告白を無下にした最低な男、壱月。
けれど、あのことがなければ、今の私たちはいなかったかもしれない。
嫌な思い出も、今ここにある幸せが全部、素敵な思い出に塗り替えてくれる。
だから、やっぱり壱月との巡り合わせは運命だったのだと思う。
「なに、考えてるんだ?」
黙ったまま頬が緩んでしまった私に、壱月が問いかける。
「幸せだなあと、思いまして」
言いながら振り返り、彼の頬にちゅっとキスをした。
「さて、寝ますか! 明日も早いし!」
言うと、壱月は少しだけ残念そうな顔をする。
けれど私はふふっと笑って、壱月の手を引き寝室へ向かうのだった。
コメント
1件
うわあ…めっちゃ好きな回でした🥀✨ 壱月が「子犬のワルツ」覚えててくれたの、愛音のことちゃんと見てたんだなって伝わってきて泣ける。昔は告白を流された苦い思い出も、今の距離があるから「運命だった」って思えるの、すごくわかる気がする…。背中から包み込むようなバックハグと、耳元の囁き、愛しさで胸いっぱいになりました。幸せそうで良かった…🌙