「はぁはぁ。やっぱ、ありゃ人間じゃねぇな。もう消えちまいやがった」
ヴェインは肩で呼吸を整えると大剣を肩に携《たずさ》え、その場で尻餅を突いた。すると年老いた老婆が、ヴェインの元へ血相《けっそう》を変えて走り寄って来るのが視界に入る。その姿にヴェインは、言い知れぬ不穏な空気を感じざるを得なかった。
「ねぇアンタ軍人さんかい? あっあれを見ておくれよ」
「んんっ⁉ なっ、ありゃあ――― 」
「向こうの物見《ものみ》も燃えてるんだよ、あれは兵舎から一番近い矢蔵《やぐら》なんだ、頼むよ詰所《つめしょ》には息子がいるんだ。様子を見に行っておくれよ、アタシじゃ身体がもう動かないんだ」
―――マジかよ……
「ちきしょう、砦まで後少しだっつうのによぉ、また戻んのかよ。仕方ねぇな、おい‼ ババァ‼ 俺様はもう歩けねぇ、どっかに馬はいねぇか? 」
「馬なんかみんな兵隊さんが乗ってっちまったさ、この辺りには牛しか居ないよ」
「牛だぁ⁉ 」
「居たとしてもアンタみたいな大男を乗せられる馬なんて居やしないよ」
―――まぁ確かに……
(前に乗ってた馬っコロも俺を乗せて赱るだけで死にそうだったもんな)
「チッ‼ どいつもこいつも言いたい事言いやがってイライラさせやがる。おいっババァ、仕方ねぇ俺様を牛舎へ案内しやがれ、息子の安否が知りてぇんだろ? 」
「でもアンタ牛舎って真逆《まさか》牛にでも跨《またが》って行くつもりかい? 」
老婆は目を丸くし口を安栗《あんぐり》開け放ち固まってる。
「うるせぇ‼ 汚ねぇ銀歯見せんじゃねぇ‼ 何でもいいからその面白れぇ顔止めろ。干乾《ひから》びてるみてぇだぞ。どうでもいいが、早くしねぇと息子だって無事じゃすまねぇぞ? 」
「何て口の悪い男だろうねアンタは。分かったよ、ついて来な、隣のアブドゥルさんの所に処分される予定の牛がまだ居たはずだよ。体格がいいから畑仕事の為に譲り受けたらしいんだけどね、気性が荒くて言う事を全く聞かないらしいんだ」
全力で赱る老婆に追いつけないヴェインが嘆く―――
「ちくしょう、やっぱ肉の鎧は重てぇぜ。ババァにも追い付けねぇ」
牛舎の中には数頭の牛達が絆《ほだ》されてはいたが、どれも痩せ細り、見るからに小柄で到底ヴェイン程の大柄の男を運べるとは思えなかった。
「何だよ、随分小せぇのしかいねぇな」
「違うよ、アレだよ一番奥のヤツだよ」
管理の行き届いていない牛舎の奥の薄闇に、鋭い眼光が糸を引く。蒸し暑く揺れ動く羴《なまぐさ》い大気が肌を舐《ねぶ》ると、恐怖心が足元に蔓延《はびこ》り纏わり憑く。口からは途切れる事の無い熱息と涎《よだれ》を垂れ流し、月夜を照り返し黒光する傷だらけの隆起した筋肉と、暴力的に張り出した二つの荘厳《そうごん》たる太い角により、その圧倒的な生命力と、凄絶《せいぜつ》なる力を秘めた肉体である事を物語る、一頭の巨大な牛が佇んでいた。
―――でっ、でけぇ……
身長2m超えのヴェインを軽く見下ろす鋭い眼光が、まるで主に相応しき男なのか値踏みしているように伺えた―――
「気を付けなよ、騎馬闘牛士《レホネアドール》を10人以上は殺してる」
「は⁉――― 」
騎馬闘牛《レホネオス》は騎士闘技と呼ばれ、闘技場《コロッセオ》で騎士が馬に乗り、槍を用いて闘牛と対峙する競技であった。騎士闘技は騎士階級の間で、操馬技量や騎乗技術の優秀さを競うものであり、また、その多くは騎士の矜持《きょうじ》を示し、地位や名誉の為に闘ったとされる。
戦術訓練の一環として執り行われていた競技であったが、圧倒的な力を前に臆すること無く立ち向かう勇敢な騎士の姿に、何時しか民衆が沸き立ち、その迫力から大衆娯楽としても絶大な人気を博《はく》した。大勢の勝ち抜き戦で行われ、騎士達は盾や防具に身を包み、騎士の武勇を誇示《こじ》する為に、自らの命を懸け闘牛に立ち向かったとされる。
「コレア《闘牛》だよ。最大級のブラバ種とキアニーナ種の交配種のトロ《雄牛》だねぇ。無敗の騎士殺しって呼ばれていたみたいだよ、名前はマルチャド」
「うっ、牛って闘牛かよ――― 」
「そうさ、おや? 言って無かったかね? 」
「ババァてめぇ」
「アンタを乗せて走れるのは、このマルチャド位だろうね」
暴れる巨体を抑えるには、既に縄では飽き足らず、四つ足と首から延びる左右の拘束と鼻環《はなかん》に至るまで、その圧倒的な力を分散させる為に太い鎖で厳重に繋がれ、僅かな動きでさえも制限されていた。
「抑々《そもそも》、闘牛が畑なんぞで大人しく手伝いなんかする訳ねぇじゃねぇかよ。人間様をド突いて何ぼの牛だぞ? 此奴の飼い主は頭がイカれてんじゃねぇのか? 」
「マルチャドは強過ぎたらしくてね。殺処分される所をアブドゥルさんが可哀そうだって引き取ったって話さ」
―――成程ねぇ……
(おめぇも行き場がねぇのか)
「良く見るとすげぇ悪党面だな。さっきは少しビビっちまったが、悪くねぇ。ガハハッおめぇの事気に入ったぜ。どうだ? 俺を乗せてくれんなら、その封印解いてやってもいいんだぜ? 」
巨大な牛は凶悪な角を左右に振り、蹄《ひづめ》を地面に立て前掻《まえか》きで答えると、熱息を吐き出しヴェインを睨み返した。その行為は正に威嚇の為と、自らの闘志を奮い立たせる為の本能であった。
「時間がねぇつうのに、力で捻じ伏せてみろってかよ。あぁいいぜ、それでてめぇが手に入るんなら安いもんだぜ」
ヴェインは自らの大剣で、勝てる見込みの無い巨大な牛を拘束する鎖を全て両断した―――
カシューは身体に赱る痛みに目を覚ますと、己の現状を理解するのに時間を要した。奇跡的に無傷である事を確認すると、身体の下に横たわる違和感に、襲って来た男により落下の衝撃が緩和された事を知る。ジンジンと皮膚の各所を針で刺される様な鈍痛に、ムルニの審判以来の激しい火傷の痛みを思い出す。
「う――― ううっ…… 」
横たわり苦しむ男のフードを上げると、幼さ残る青年の顔が痛みに歪んでいた―――
―――何だって?……
(まだ子供じゃないか…… )
建屋《たてや》の屋根を突き破りカシューを抱えたまま落下した。無傷で有る筈がない。足は太腿周辺から、あらぬ方向に折れ曲がり、その脇腹には屋根の木片が深く突き刺さったままである―――
カシューは男の半身を起こすと、朦朧《もうろう》とする青年の両手を後ろ手に縛り、それが当たり前の様に治療を開始する。轟炎《ごうえん》を叫ぶ隣の矢蔵《やぐら》から、建屋の中へと次第に煙が流れ込み、命を飲み込もうと視界を包み意識を奪う。残され生きる為に急がされた時間はそう長くない。何故なら二人が落下したこの場所は、不運にも、今正に大火に包まれようとしている火薬庫であった。
―――急げ……
(慌てずに最短で出来る事をしろ―――)
―――止血は?……
(ダメだ。木片を抜けば傷が口を開き大出血してしまう)
(ならば背負って脱出をするか? )
―――それもダメだ……
(太腿から骨が飛び出している。安易に背負えない)
「最善を探せ――― 」
―――脚の固定をして此処を出るしかない―――
熱を帯びた楔帷子《くさびかたびら》を脱ぐと亜麻《あま》で紡いだ肌着を切り裂き、止血の為、青年の太腿の付け根をきつく縛る。ドガンガガンと建屋に火の付いた木材が降り掛かり、残り時間を急かす中、ゆっくりと慎重に捻《ねじ》れた脚を真っ直ぐに伸ばしてゆくと、激痛に耐えかねた青年が絶叫を上げた―――
迫り来る余地の無い命の選択に、降り掛かる無情な運命の試練は、神が人に与えし采配か。扉を叩く悪魔の来訪は、通り過ぎる事無く、地獄の火炎だけが決断の時を刻々と刻んで行った。
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