「あがぁぁっ――― 」
―――激痛に耐えかね絶叫を上げた……
漸《やっ》との思いで頭を擡《もた》げ、虚ろな眼差しを目の前へ向けると、鼻は拉《ひしゃ》げ、口元は吐血で真っ赤に染まり、片目は晴れ上がった瞼により完全に塞がってしまっている男が、今、必死に自分の脚を何とかしようと藻掻《もが》いている。見間違うはずは無かった、この男は―――
―――俺が殺さなければならない男……
憎悪に押され、一瞬痛みを忘れ殴りかかろうとするも、此処で後ろ手に縛られている事に気付く。男は折れ曲がった脚を容赦なく引っぱり乍らゆっくりと伸ばして行くと、緊張からか、額から流れ伝う汗が血潮と混ざり合い、地表に落ちる頃には真っ赤な雫に為り変わっていた。
「クソッ、止めろ‼ あがぁぁ――― 」
強烈な痛みが意識を揺さぶると、抵抗する気力さえも遮《さえぎ》り、噎《む》せるような鉄の匂いが鼻腔を埋め、傷が致命傷であると己に理解をさせた。負傷した脚から脇腹から、大量の血汐が傾斜を下り戻れない道を描くと、果たせなかった覚悟が諦めと同時に涕に咽《むせ》ぶ。
「や…… めろ、無駄だ。 殺せ――― 」
「ダメだ‼ 止めない」
「―――――⁉ 」
建屋の中は既に大量の煙に包まれ、屋根にまでその悪因《あくいん》を伸ばした焔は勢いを広め、虎視眈々と二人の男の行く末を、今正に飲み込もうとしている。意識が保てず失い掛けると、目の前の男が必死に声を振り絞り、悪態をついて見せた―――
「どうした‼ 僕を殺すんだろ⁉ この程度で諦める気なの? 」
切れかかった意識を罵倒で繋ぐ―――
「クッ――― そお…… お前ッ…… 」
「此処から脱出するんだ、まだ諦めるな。生還しなきゃ友達の仇は取れないぞ、僕は逃げたりしない――― 」
脚に添え木を施し、破いた亜麻の肌着で創傷《そうしょう》部を覆うときつく縛る。後ろ手に縛った縄を解いて、腕を回し肩を支えると男はこう告げた。
「助かったら何時だって君の敵討ちに応えるよ、だから頼むよ時間が無いんだ、今は僕の言う事を聞いてくれ、僕は兵士じゃないんだ、君を殺す道理は無い」
鬼気迫る中、白煙が建屋内部に充満し、視界と呼吸を奪う。肌に触れる室内の温度が残された時間を告げ、屋根から小さな火の粉がゆらゆらと、幻想的でさえとも思わせる姿を曝し命を奪いに入り込んで来た。
僅か数メートルの足元さえも定まらずに、二人は肩を抱き合い出口へとゆっくりと歩み出す。併《しか》し既に奪われた視界により出口が判別出来ない、完全にこの建屋の中で方向を見失ってしまっていた。
「出口はどっちだ――― 誰か、誰か―――‼ 」
カシューは火の粉舞う天を仰ぎ、叫びを上げた―――
少女が祈りを捧げる中、何かが頭を掠めた。音も無く暗闇を切り裂く風切羽が、大切に雛から育てたあの子だと理解するのに時間は掛からなかった。
「クウちゃん―――‼ 」
一羽の梟《フクロウ》が一気に高く上昇し上空を旋回すると、それを目印にナディラの仲間達が息を切らせ現れる―――
「無事かナディラ――― 」
「ザファルさん」
「遅くなってすまん、ハキーム先生の邸宅にも賊が入り込んでな、手古摺《てこず》ってしまった。何があった? 足を痛めてるのか? 」
「大丈夫です。大した事は有りません。今は詳しく説明している暇が無いんです、お願いしますザファルさん、私に力を貸して下さい」
左目の瞼の上に深い剣傷を持つザファルと呼ばれた男が続ける―――
「お前がクウを飛ばす何て事は滅多な事では無いからな、そのつもりで班の半分を引き連れて来た。大丈夫、ハキーム先生にも許可を頂いて居る」
「有難う御座います。私を手助けしてくれた方が、敵と思われる人影と一緒に、あの矢蔵《やぐら》から隣の建屋に転落してしまったんです。急がないと――― 」
「隣の建屋…… 火薬庫の事か⁉ 何て事だ、もう火の手が上がっているぞ、併《しか》し、あの高さから落ちたとなると、もう既に命は…… 」
「もしかしたら…… 私も、もう駄目なんじゃ無いかって…… でもっ、お願いです。諦めたく無いんです。少しでも可能性があるなら確かめたいんです。カシューさんを巻き込んでしまった私の責任だから」
ザファルは仲間の一人にナディラを背負わせると建屋へと急ぐ、いつ崩れてもおかしくない現状に、最悪の決断が頭を過《よぎ》る。近付く程に地表が熱波で包まれ、進む足取りを掴みに掛かる。引き返せと本能が脳裏に叫び、何時爆発するやも知れぬ状況下に、沸き上がる恐怖が踏み出す一歩を躊躇《ためら》わせた。
「ダメだ矢蔵から燃えた木片が襲ってくる。此処からは危険過ぎる。ナディラを連れて離れてろ、救助は少数で行くぞ」
三人の男達が火薬庫の固く閉じられた扉の前に着くと、太い木製の閂《かんぬき》に手を掛ける。内部の空気が膨張している為か、三人掛りでも閂が外せない。
「くそっ、おい無事なのか? 聞こえたら返事をしろ‼ 」
男達は一斉に扉を叩き内部の反応を手繰り寄せる。
「生きてるなら返事をしろ――― 」
大きな木製の扉の隙間からは白煙が吐き出され、これ以上は危険であると判断を押し迫られる中で、微かな声が奇跡的にザファルの耳に届いた―――
「―――だ…… れか――― 」
「―――――‼ 」
三人同時に行動を起こす。鎚鉾《メイス》で閂を叩き割りに掛かると、手斧で扉を殴り穴を開け、大声を中に向けて投げ掛けた。
「こっちだ――― 出口はこっちだ」
重量の軽い鎚鉾や手斧では事足りず、不義理な成果に倦《あぐ》ねいていると、見かねた状況に仲間達が駆け寄って来る―――
「お前達離れてろって言っただろ」
「ザファル兄ぃ‼ 三人じゃ無理だ。俺達も加勢するぜ、死なば諸共ってやつだ」
中でも大柄で剛毅《ごうき》な男が、巨大な鉾槍《ハルバード》を振り被り、轟音を伴い閂に耐えて見せろと意地と自尊心を叩きつけた。振り下ろされた強烈な圧力に、木の繊維は悲鳴を上げて折れ曲がる。
「もう一発ぶちかますぜ‼ 離れとけ――― 」
「だあぁらあああああ――― 」
続く轟音に到頭《とうとう》閂は耐え兼ね、木っ端微塵に吹き飛ぶと漸くその役割を終えた。男達は力任せに扉を蹴り破ると同時に中へ飛び込み、殆ど視界が利かない内部で声を上げる。
「何処だ‼ 返事をしろ――― 」
ヴェインは自らの大剣で、勝てる見込みの無い巨大な牛を拘束する鎖を全て両断した―――
「へへっ、ヤベーな。こんなに足が震えるのは大熊野郎以来だぜ」
ゆっくりと闇がりから熱息を吐き出すと、赤く染まる空を照り返し、その巨体がノシリと全容を表した。大熊は全高4m超級がゴロゴロしている中で、確かにこの牛は2.5~3mと大熊には及ばないが、通常の熊より幾許《いくばく》か大きく見て取れる。驚きなのはソレが牛であるという事実だった。記憶に有る限りヴェインは、今迄にこんなに大きな牛は見た事も聞いた事も無い。その絶対的な存在感と風格に、気付かぬうちに感動さえ覚え、心踊らされ笑みを溢す。
「よう‼ てめぇ人喰らいなんだってな? 何人殺って来た? 」
血の匂いが入り交じる羴《なまぐさ》い獣臭が鼻腔に届く距離にゆっくりと近づいて来る―――
―――足場は悪くない……
(ヤツの出方を待つか――― それとも…… )
「俺の事も喰らってみろよ‼ 俺ぁてめぇを喰らうつもりだぜ」
巨大な牛はヴェインから目を逸らす事無く、真っ直ぐに歩み寄る―――
「んじゃあ、さっさと始めようぜ‼ 」
打ち鳴らされた警鐘は赤く染まった太河に響く。個々に訪れる星の巡りは、軈て大きな分水嶺を越え、新たな物語を紡ぐ糧となる。まだ見ぬ悲しみの果てに得る物は、神が与えし天啓の兆しか。
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