--半年後
千紘は困っていた。この上ない程の葛藤に見舞われていた。
「凪、俺今から仕事に……」
「ヤダ」
凪がソファーの上で寝転がり、ギュッと千紘の腰にしがみついたまま離れないのだ。ツンツンツンデレの凪はつい先日からイヤイヤ期に入ってしまった。
「早めに帰ってくるから」
「ヤダ」
「今日は凪の好きなご飯にするから」
「ヤダ」
千紘はくぅーっと愛しさを噛み締める。離そうとしない凪がとてつもなく可愛いのだが、今日は予約がいっぱいで出勤しないわけにもいかない。
本日休みの凪は、昨日から暇を感じていた。
新しく内勤として入ったバイトの女の子がシフトを増やしたいとのことで毎日のように入っているのだ。
貯金もまだあり、生活費も千紘と住むようになってから半分でよくなったこともあって、金銭的に困っているわけではない凪が長時間のシフトを変わってやることもあった。
しかしそれによって家にいる時間が増えた。元々休みなく働いていた千紘は、定休日以外は家にいない。
定休日だってカットの練習をしに店に行くこともある。だから凪はこの所ずっと1人で過ごすことになった。
以前は自分の時間がなく、疲れを感じることも多かったが、千紘と付き合い始めてからは日々充実しているせいか体調もいい。
何でも千紘がやってくれるから、凪がすることもほとんどないし、趣味があるわけでもない凪はとにかく暇なのだ。
そんな時間にもほとほと飽きてしまった。千紘がいない家の中はだだっ広くて、静かでぽっかりとしている。
千紘がいない家はとてもつまらない。今日もそんな日を過ごすのかと思ったら、千紘が仕事に行くのを阻止してやりたくなった。
「凪、嬉しいけどさ。可愛いけど、もう行かないとなんだって」
「……ヤダ」
ギュッと顔を埋める力を強める凪。千紘はキュンキュン痛む胸を押さえながらソファーに腰を下ろして凪の頭を撫でた。
許されるのなら、このまま仕事を休んでしまいたい。こんなに可愛い恋人が行くなと言っているのに、なぜ予約をギッシリ埋めてしまったんだと自分を責めた。
「抱きついてたらキスできない」
千紘がそう言うと、凪は仕方なく腕を解放して上を向いた。それから両腕を千紘の方に差し出して、ハグを求めた。
千紘はぎゅーんっと胸を掴まれて、鼻血が吹き出しそうなのを必死に堪える。
かーわーいー……。俺の凪、可愛い……。
正面から抱きしめ、頬を擦り寄せてから凪の唇にキスをした。じとっと目を細めて千紘を睨む凪。すっかり拗ねているのに千紘のキスはしっかり受け入れるところがまた可愛い。
まだ可愛気のないところも、素直になれないところもあるが、それでも最初の頃に比べたら随分と千紘に懐いたものだ。
千紘が歩けばトコトコと後をついてくるし、出かけると言えば一緒に行くと言う。
何をするにも一緒がいいのは凪も同じなようで、千紘が「一緒に来てよ」と言わなくても自然と隣にいるようになった。
さすがに外で手を繋がせてはくれないが、家の中でベッタリくっついているのはもう抵抗がないのか、腕の中だろうと背中だろうと太腿の上だろうとどんな体勢でも千紘の上に寝転がる。
彼氏というよりもペットに近いような気もするが、千紘にとっては嬉しい変化だった。
「……暇」
「時間できたら電話するよ」
「……うん」
今日は何だかやけにしおらしくて千紘もさすがに心配になってしまう。
「体調悪い?」
「悪くない」
「仕事終わったらすぐ帰るから」
「わかってる」
「うん。凪、好きだよ」
千紘が凪の頬に唇を押し当てた。凪は片目を瞑って軽く顔を押されながら渋々頷いた。
「じゃあ、行ってくるね」
そう言って千紘が立ち上がり、凪に背中を向けた瞬間「俺も……好き」と千紘の耳に届いた。背を向けたまま千紘は目を見開いた。
凪からのちゃんとした好きを聞いたのはこれが初めてだった。
千紘は今すぐ振り向いて抱きしめたい衝動に駆られたが、今度こそ仕事に間に合わなくなりそうなのでこれは今夜に取っておこうとぐっと堪えた。
聞こえないふりをして家を出た千紘の頬が緩みっぱなしだったのは言うまでもない。
1人ぼっちになった凪はコテンとソファーに横たわり「早く帰ってこいよ、バカ千紘。……寂しいじゃんか、バーカ」と呟いた。
フローリングに落ちたクッションを拾って抱きかかえた凪は、「俺のモノなのに」と更に唇を尖らせるのだった。
【完】
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