テラーノベル
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『あんな豚臭え女抱けるかよ。気持ち悪い』
テーブルの上に置かれたボイスレコーダーから、夫、海斗の冷ややかな声が響く。高杉家の親戚かどうかも分からない大勢に詰められた二間続きの和室の奥。『質実剛健』と書かれた掛け軸だけが、窓から入る風で揺れていた。
『酷いな、一高のマドンナ捕まえといて』
『あー、女子高生の美香は最高だったな。現役女子大生の愛子も最高!』
得意げに私に寝返った愛子は私の親友だ。中高とテニス部ではダブルスを組み、ツーカーの仲だった。浮気の証拠をとってくる代わりに慰謝料を請求しないと約束したから、寝返っただけ。私の夫と結婚前から関係を持って優越感に浸っていたクズ。今更、私の親友ヅラして試合中のようにアイコンタクトをとろうとしてくるから寒気がする。
「こんな音声が何の証拠に?」
私を痛め続けた義母の冷ややかな声。隣にいた私の弁護士である栗山政治が私の震える手にそっと自分の手を乗せた。彼と出会えたのは奇跡だ。この茨城県の小さな村で権力を振るう高杉家と離婚するなど不可能。一日に数えきれない程の親戚やご近所様のもてなし、食べきれないくらいの食事作り。毎日早朝四時起きに深夜を過ぎる労働。
何もかも、初恋の相手、高杉海斗の為なら耐えられた。
私が何より耐えられなかったのは、食べ残しを全て平らげる事を強いられる生活。胃が悲鳴をあげていても、口の中にかき込む食べ物と共に膨らんでいく体。
自分の見た目を醜い豚のようだと感じ始めた時に浴びせられた夫の暴言。
「続きを聞いてください」
静かで低い栗山政治の声は私を落ち着かせた。私の夫と同じ八歳年上の二十八歳。夫、海斗は赤子のように幼く感じることもあるのに、彼はなぜこんなにも素敵な大人なのだろう。
『美香なんて、マジで豚。人間じゃないから抱けないの。その代わりにダブルスパートナーだった愛子が俺の相手してるんでしょ』
『そうだよ。私と美香は二人で一人だもん』
愛子が事あることに私に囁いていた言葉。私たちは家族よりも分かり合える二人で一人のような存在。私たちがダブルスを組んで全国まで行ったのは、息が合っていて彼女のいう通り二人で一人のような存在だからだったと信じていた。
『そうだよ。旦那様を勃たせられなくなった親友の代わりに私が身を捧げてるの』
甘く囁くような愛子の声が電子レコーダーからする。それと同時に愛子は私を上目遣いで見つめてきた。
(気持ち悪い)
「ほら、愛子さんも悪気があった訳じゃなくてご好意でなさった事だ。片親の癖に高杉家の嫁になりながら、一年も家をあけた自分の罪にまずは向き合え!」
私にセクハラまがいの行動を続けた義父が得意げに語ってくる。周りの人間が彼の言葉にコクコクと無表情で頷いているのが気持ち悪い。
私の父は夫、海斗の恩師だった。教育実習生として高校に現れた海斗は同級生とは比べ物にならないくらい大人っぽくて私を夢中にさせた。私は気が付けば彼の女になっていた。教育実習生との禁じられた愛といったメロドラマに使い古された関係性に酔っていたのかもしれない。そうだとしても、海斗は結婚前まで私に優しい理想の男だった。
指の隙間に温かい感触。気が付けば私は栗山さんに指を絡められていた。他の人が見たら変に思うかもしれないと緊張する。栗山さんの瞳をそっと覗き見ると、力強く見つめ返された。その瞬間、私は眼前の夫が過去だと気が付いた。
理想の男だと勘違いしたのは私が未熟だったから。教育実習生が生徒に手を出すなど本来ならあってはならない事だ。
「神奈川まで迎えに行った時も思ったけど、本当に綺麗になったな。美香、出会った頃の君を思い出すよ。君が美しいままなら俺は間違いを犯さなかった。全ては美香⋯⋯君のせいなんだ」
海斗が悪びれもせず長過ぎる前髪をかきあげながら言った言葉に私は反論したかった。しかし、ショックのあまり口を開けても声が音にならない。
私は高杉海斗が心から好きだった。教育実習生として現れた彼は周りの男より何段も上の男に見えた。高校生の私は彼を思うしかできなかったけれど、実習の最終日に彼から気持ちを告白された時は心が震えた。それからは、私は彼の信者のようだ。こっそり付き合ってた時間は親への罪悪感で締め殺されそうにもなった。誰にも言えない関係を親友の愛子だけには伝えていた。その愛子が私を裏切っていて、海斗と一緒に嘲笑っているなど思いも寄らなかった。
「無理矢理、食べさせられて⋯⋯」
やっとの想いで紡いだ声が宙を舞う。私は毎日のように食べさせられた。朝食、昼食、夕食は時を同じくして家族と食する権利を得なかった。高杉家の嫁は残飯処理班。毎日のように施錠もしていない扉を開けて親族と名乗る人や、近所の人が押し寄せた。ビュッフェのように多種多様の食事でもてなし、食べ残しは全て私が食べ尽くすように言われた。お腹が痛くて吐きそうになりながら、私は豚のように食事を食べ尽くした。『お米の一粒には神様が宿っている』その言葉を呪いのように義母に浴びせられながら食べた。
ふと気が付くと見下すような私に向けられた無数の視線。まるで、残飯処理は私の仕事で疑義を申し立てるのがおかしいと言った空気。私はその空気に耐えきれず胸が詰まるように息苦しくなった。
(私が間違ってた? 高杉家の嫁としては当たり前の事だった? 違うよね⋯⋯違うって言ってくれたよね慎也さんは⋯⋯)
「もう、いいよ。美香さん」
我慢できないというように私を骨が折れそうなくらい抱きしめてくる栗山政治。絶望している時に優しくされても、全くときめかない私は既に女としての時を止めていると思っていた。
そんな私の心を動かしてしまう王子、芹沢慎也を突き放したのは正解だ。
私はもう誰とも恋をしたくない。
「なんだよ。お前も浮気していたのか!? その距離感おかしいだろ」
私を罵倒する海斗を私はじっと見つめる。十五歳の時に彼に恋をして十八歳で結婚。恋は盲目とは本当だ。私は彼にゾッコンだった。結婚生活は一年で私は悲鳴をあげた。どれだけ自分を誤魔化し続けても耐えられなかった。
私は確かに彼の愛する恋人だった。結婚して愛する妻になれると思っていたのは勘違い。私は彼の所有物になっただけ。私は結婚の地獄を知った。所有物になった途端、彼の私への興味はゴミクズレベルに失せて親族は私を召使いにした。茨城県の小さな町でも、代々、力を持つ高杉家に嫁げた事で周りは私を羨んだ。父を失って以来は可哀想な子として育った私にとって、それは堪らなく嬉しい事だった。
「不倫なんてしてない⋯⋯。あんたら、みたいなクズと一緒にしないで」
驚く程にドスの効いた声が自分から漏れる。私の言葉に親友を名乗る愛子が震えたのが分かった。
もう何年も私を裏切ってきた女はもう親友でも何でもない。
コメント
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第1話、一気に読んじゃいました。冒頭のボイスレコーダーのシーンからもう衝撃的で、夫や親友、義家族の冷たさに胸が締め付けられました。特に「残飯処理班」として見なされる日々の描写は生々しくて、美香さんがどれだけ耐えてきたか伝わってきます。栗山弁護士の優しさが、かすかな希望のように思えて。人間関係の裏切りと再生の予感に引き込まれました。続きが気になります!