リビングに視界が霞むほどの霧が蔓延する深夜。
すでに吸い殻で埋め尽くされた灰皿はチヒロがいる時はお目見えしないものだ。
携帯電話を耳に充てたまま、新たな紫煙はことさらゆっくり吐き出される。
「…今のまんまで一緒におるわけにはいかんやろな」
静まり帰った真っ暗な廊下にまで、リビングの照明に照らされて紫煙が浮かび上がる。
ポツポツと電話口の内容に”六平”“妖刀”“チヒロ”という単語が混ざる。相手は秘匿されたチヒロを知るごく一部の人物である薊だろう。
「けじめはつけんと。俺はもう決めとる」
“家族ごっこ”の終わりが近づいている。
チヒロは冷たい廊下で、最後通牒のような会話に聞き耳を立てた。
拠点へ移ったころ、一人真っ暗なリビングで3人が映った携帯の画像を眺めている柴さんを見てしまったことがあった。居た堪れず、その場から逃げ出した。俺だけが生き残ってごめんなさい、と卑屈な贖罪の感情が堰を切って溢れ出しそうで。
研鑽の傍ら、チヒロが食事を作り、柴が食器を洗う、朝はチヒロが柴を起こし、洗濯をして、気が向くと柴が一緒に洗濯物をたたむ日常。
そんな家族ごっこの根底には、神奈備として、国の脅威となる妖刀の命滅契約者を警護、そして契約者が命を落とせば速やかに妖刀を回収する責務がある。
そんな関係。だから一緒にいるだけ。そう言い聞かせる。
終わりが近いとしても、1日でも続くこの日常は愛おしかった。
「柴さん、ごはんできました。」
ソファでうたた寝をしている彼を揺り起こすのも日課になった。
ここ連日帰りが遅く、夕食前に寝落ちすることが増えた。ただでさえチヒロを保護し、心労が絶えないのだ。
膝をついて覗き込むと眉間にシワを寄せた柴がゆっくりと目を開ける。起こす時のささやかな楽しみ。薄暗いリビングでなら目を逸らさずに見ていてもいいだろうかと淡い期待を込めた。
微睡から明けきらない様子で、柴は視界に捉えたチヒロの頬を両手で包み安堵の表情で、ひっそりと額を合わせた。
「六平」
身体から一気に血の気が引く。
柴もそれに気づいたろう。一瞬固まり、不自然にならないよう慎重に距離を置かれた。
(…ここにいるべきは”六平千鉱”ではなかったということ)
「…呆けとった。ごめん。」
柴自身も戸惑った様子で落ち着きなく立ち上がると、暗転した携帯電話が床に滑り落ちる。
落ちた拍子に、画面が息を吹き返す。
「あの日、死んだのが俺だったらよかった」
誰にともなく呟いた。長い間押し殺してきたもの。
父さんの映る画面をこれで見納めとでもいうようにひと撫でしてから、携帯電話を折りたたむ。
静かに差出すも、立ち尽くす柴さんは手を伸ばそうともしない。
唇を引き結んで、こちらを見ている。
自分でも驚くほど、気持ちは凪いでいた。
「神奈備に俺と淵天の存在を明かしてください。」
「…妖刀取り上げられて、保護っちゅう体で監禁されるのがオチやぞ。」
「それでもかまいません。毘灼の情報を得られるかもしれない。いつか奴らを斬れる。」
「子供がどうこうできるところちゃうねん。」
険しい表情で、彼は誰の姿を重ねて見ているんだろう。受け取ってもらえない電話を静かにテーブルに置いた。
「命滅契約で、柴さんを縛る気はなかった。」
今まで、すみませんでした、と消え入るような声で、告げた。
「………それ本気で言うてるか?」
「俺が妖刀の契約者だから、柴さんは神奈備として、」
次の瞬間、驚くほど近くで破裂音が響いた。
火傷したのかと思うくらい頬が熱い、口の中に広がる鉄臭さ、耳鳴りがやまない。衝撃を受けた、左頬を張られたのだ。
「…なんも伝わっとらんかったんか。…報われへんわ。俺らも、君の父さんも。」
静かで震えるようなため息がひとつ。ひどく疲れた声で、そこに激昂はなかった。
「……ホンマにそう思っとるんなら、盛大な独りよがりや。」
セーフハウスの鉄扉は家人の感情と同調するように鋭い音を立てて閉じられてしまった。もう縋るすべはない。
呆然として、自分の輪郭も見えないほど暗くなった頃、ようやく身体を起こし、顔を冷やした。
日付が変わる頃に、重い体を引きずり誰にも食べてもらえないみじめな食事達を葬った。
翌朝、柴さんは戻らなかった。丸一日経ち、二日経ち、空腹はやってこない。多少は眠ったと思う。気絶したというほうが正しい。
時折胎児のように冷たい床にうずくまって、携帯の電源を切っては入れ、切っては入れそのたびに『新しいメッセージはありません』という無機質な現実を突きつけられる
表示された画面を眺めて、ようやく日付を認識した。
今夜は外にでなければいけない。妖術師を複数かかえている下衆共がとある場所で集会を開くらしい。本来なら柴さんも一緒に向うはずだった。戦闘経験のない俺はまだ淵天を使いこなせてはいないから。
しかし遅かれ早かれ、1人で戦わねばならないのだ。それが早まっただけで。
襲撃をかけたはいいものの、護衛の層が厚く本丸にたどり着くには骨が折れた。
死体が積み重なっていく間も、妖術師が現れることもない。
(ハズレだな)
毘灼に繋がる情報は得られないと確信してもなお一心不乱に刀を振り続けた。
頭と思しき男を警護する数人が、連れ立って階上を駆け上がっていく。簡素な扉の向こうに消える男たちを、すぐさまチヒロも追う。
だが踏み込んだ先はーーー
コンクリート造りの無機質な建物からは想像もできない、様相の異なる枯山水庭園。
白い砂砂利を踏む感触が確かにある。思わず目を強く瞑るも目の前の景色は変わらなかった。
(これは妖術だ。あの扉をくぐることが発動条件だったか)
中央に一本の松の木。上部で3幹に分かれている大きな木だ。室内と思しき空間を幹から伸びた枝が覆う。その幹の下、男が悠然と佇んでいる。
長身で黒髪、短髪。顔は見えない。
淵天を構え涅を顕現させるも、男は慌てる様子もなくゆっくりとチヒロを振り返る。
まるでスローモーション映像のような、そこでは音さえも遠ざかる。
迎撃態勢をとれ、と頭では分かっているのに肝心の身体が動かない。
ーギ、ギギギ。
無風の空間で、場違いな鉄扉を開けるような鈍い金属音を皮切りに、男がこちらを向いた。
樹陰によって表情は伺えない。ただ、男の口が動く。
『 六 平 千 鉱 』
ぐにゃりと視界が、歪む。
天地が逆転する感覚に思わず膝を付けば、目の前は一変する。
室外機が並び、ギラギラと品のない看板の電光装飾に照らされ、目前にはさきほどまで襲撃者に怯えていた男たちが臨戦態勢でお待ちかねだ。
いつの間にか屋外へ放りだされている。
涅の遠撃で頭上の電光装飾を潰し暗闇に紛れて応戦する。
撤退をすべきとわかっている。いつも適切な判断をしてくれる彼はいないのだ。
その結果俺は、まんまと誘い込まれたこの薄暗い路地で、一人雨に打たれている。
寒い。玄力を使ったからだけではなく、脇腹をザックリ斬られた出血と雨によって身体の芯から凍えている。
あのコートさえも重く感じて、軽装で乗り込んだのが失敗だった。防刃素材のコートはチヒロの命を守るものだったのに。
眠い。まずいのはわかってる。携帯、、、は置いてきたな。そもそも充電もしていなかった。かけてくる人ももういないだろうから。
「……ごめん、父さん…。」
力を振り絞って鞘に収めた愛刀をぎゅうっと引き寄せた。息絶えるとき、1番傍にあってほしい。
忙しなく複数人の足音が近づいてくる。
残党が駆けつけたか…いよいよ終わり…だな。
下衆共に殺されるくらいなら淵天で。
鞘から刀身を現し、首筋に刃が滑る。
刃を引く寸前、断末魔がその手を止めた。
瞬く間に長身の男が妖術を行使し、残党を見るも無残な肉塊に変えた。そして悠然とチヒロの前に佇んでいる。
僅かな期待を込めて、目を見開く。どこか彼であってほしいという期待はすぐに立ち消えた。
松の木の麓に悠然と佇んでいたあの男。
逆光で、いつまでたっても顔のない男。
鉄の扉を見ている。辺りは真っ暗なのに、扉だけが鮮明だ。2人の拠点であった場所
いくら走ってもいつまでも辿りつけない。
扉を開けることができたとして、彼になんと言うんだ。
チヒロは足を止めた。拒絶の象徴、これは夢だ。自分に言い聞かせる。浮上しなければ。
目を開けて見た景色は、自分が水中にいるのかと錯覚させた。
大きな目の表面を水の膜が覆っている。
顔を横に向けるとそれは涙となって静かに流れた。
ーーー拘束はない。…ここはどこだ。
柔らかなベッドで眠っている。
無意識に手探りで愛刀をさがす。しかし触れるのはさらさらとした上質な布地だけ。
瞼が重い、身体にも鉛を仕込まれているかのようだ。
ベッドがチヒロ以外のもう一人の体重でもって片側に沈んでいくが、スプリングの軋む音は聞こえず静かなものだった。よけいに夢の中と錯覚しそうになる。
目を開けていないと…抗っているうちに身体を覆う布が剥がされていく。肌が外気に触れる。着衣の合わせをほどかれ思わず反射で飛び起きた。
ーーーつもりだった。
視界を覆っているのは、怜悧な瞳に、妖術師が施す独特な目元の装飾、隙のない整った顔立ち、ぞっとする冷たさを放つ男。
あの妖術の庭園にいた男の全貌が補完されていく。
シィ、と人差し指を唇に押し当てられ、動きを封じられる。下唇をなぞり、掌全体がチヒロの首にかかる。
「大人しくしていろ。傷を見るだけだ。」
朦朧とする意識が、首から鎖骨に降りた手によって覚醒していく。
「玄力による治療を施した。この傷もすぐに消える。」
脇腹の傷を擦られている。縫合すら不要らしい。思い返せば、これほど深い傷を負ったことがなかった。
「….っは」
無理な力はかけられていないはずなのに、息が苦しい。
男はチヒロを見遣ると、玄力の扱いはまだ未熟だな。せいぜい精進しろ。とさほど興味なさげに諭しながら衣服を整えチヒロの上から退いた。
男が退いたことによって格子で覆われた格天井が露わになる。
痛む上体を起こし、得体の知れない男を視界に捉えながら室内を観察する。
寝台は朱塗りの台座により周りよりも一段高く、周囲が難なく見渡せる。
背後に丸窓、三方は襖で囲われる。正面の襖は4枚立、欄間にも細工が施されている。続き間がありそうだ。
こんな状況でも美しいと感じる静謐な空間だが…
(外までの経路が読めない)
「言っておくが、逃げようとしても無駄だぞ。点在する拠点を妖術で繋ぐ回廊…。なおかつ結界で覆っている。干渉はできない。」
「…何が狙いだ。」
声を絞り出すと、塞がりかけた下唇の傷から滲んだ血液で唇が濡れる。
男を正面に見据えるも、寝台の足元だけに誂えられた黒塗りの格子がだまし絵のように角度によって男の姿を隠す。
(こいつは妖術師、あの場にいたということは毘灼と無関係じゃない)
寝台から降りて立ち上がろうとすれば、膝から崩れ落ちる。
「俺の目当ては妖刀じゃない。安心しろ。お前と同様大切に保管してある。」
傍らの椅子に座ってチヒロを値踏みする男を下から睨みつける。
「まだ足元も覚束ない子猫が保護者から見放されて弱っていたようだから、連れ帰った。それだけだ。」
上質なスーツの乱れてもいないネクタイを撫でた黒いグローブで覆われた右手が、流れるような仕草でチヒロの頬を撫でる。
「誰に殴られたんだろうな?」
昨日のケガじゃないだろ。この男はわかっていて尋ねるのだ。
腫れは引いた。唇と内頬が切れただけで、うっすらと痣が残っただけ。彼が手加減せず殴っていたらこんなものではなかった。
保護テープを貼るほどでもなかった。ただ見たくなかった。見限られ、見放されたという事実に身体が芯まで凍えて動けなくなるから。
見下ろす男から差し伸べられた手をチヒロが拒んでも、苛立つ様子もなく腕を掴みチヒロの身体を寝台へ戻す。
「…お前は誰だ」
着せつけられた白い襦袢が心許なく、思わず自らの身体を抱いてしまう。
「怯えなくていい」
寝台は崖の上と同じだ。後ずされば落ちるだけ。
檻のように、影が落ちチヒロを囲い込む。角度を変え、唇が近づく
「食事の準備が」
襖のむこうから端的に告げる低い声が男の動きを止める。待っていろ、と死角の顎の下を撫でられ、思わず肩が揺れた。
正面の襖を開け放ち、その向こうに消えた男は食事を手に戻ってきた。
「少しは何か口に入れろ」
きらびやかで小ぶりな重箱に、彩華やかな料理が詰められている。椀によそわれているものは粥のようだった。
寝台で食事が出来るよう、甲斐甲斐しく準備を進める姿が滑稽なこと。
「ここ数日食べてないだろ」
「…」(なんでそこまで知ってるんだ)
「身体を清めた。ついでに後ろの洗浄もな」
耳を疑うような所業に、チヒロは固まるしかなかった。
「………は?うしろ…洗った、って………なんで。というか脱がせて風呂まで…なんっ」
「当然だ。お前を抱くん「やめろ。聞きたくない」
すぐさま男から距離を取る。いとも簡単に乱れる襦袢がもどかしい。
膝を抱き、全身で拒絶するも、この男には何の意味もないだろうが、と諦めてもいた。
だが為すすべなく蹂躙されるつもりはない。
男はその様子を一瞥すると、構う様子はなく「まずは食事を」と部屋をあとにした。
気配が消えたあと、拙い足取りで男が出ていった襖を開けるもそこは壁があるだけ。他の襖は一つだけが廊下に面し天井で覆われたささやかな庭と最奥の水廻り以外、見掛け倒しの扉ばかり。
壁伝いにもとの部屋へ戻れば、あの日作った最後の食事とは似ても似つかない食事が変わらずあって、これは現実だと思い知らされる。
呆然としつつ、数日ぶりの食事をほんの少量、恐る恐る口に運んだ。
一人で取る食事、これからは常となる日常。そもそもここから出られるとしたら、だが。
上掛けも何も纏わず、寝台の足元、朱色の絨毯に横たわる。小さく小さく、暗いほうへ。
ただ今は眠りたかった。
襖が開いたのか、目を閉じていても明るさを感じる。
感じるはずもない風が吹いた気がした。
(…かすかな花の香りも。)
人の気配がする。
「よく眠れたか?」
夢であれ。目が覚めて数秒で深いため息が漏れた。
男は先ほどのスーツ姿でなく、着流しだ。夜?それとも朝なのか、時間の感覚がすでに狂う。
そして、床に横たわっていた身体はまたもや寝台に戻ってる。
視線から逃れたくて、子供じみているとわかっていながら上掛けで顔を覆った。
「残念。愛らしい寝顔だったのに」
寝台の端に腰かけ、食事は口に合わなかったか、とことさら優しく聞いてくるかと思えば足首を強引に引き寄せられ、顔を覆った上掛けは簡単に取り去られる。
表情一つ変えることなく襦袢の合わせを左右に開かれ上半身が露わになる。
「!!」
反射的に男の頭部目掛け横蹴りを繰り出すがいとも簡単にいなされ、逆に足を取られる。
そのまま体重をかけられれば、抵抗らしい抵抗は不可能だ。
それでも、と腕を突っ張り、男の身体を押し留める。
「…っさわ…るな!!」
体格差を前に男を拒絶する腕は意味を成さない。
事も無げに口付け、口内を蹂躙する。舌も身体も逃げ場なく追いつめられる。
口を離せと力の限り押し返しても、ビクともしない。
拘束を解こうと足掻いたせいで、足は太腿まで晒すはめになる。
酸欠で生理的な涙まで出てくるわ、極めつけに頬のテープを一気に剥がしていくものだから殺意は倍増する。
「まだ指も挿れてないぞ」
本能的に男の下から逃れようと後ずされば腹這いにされ、余計逃げようがなくなる。
「腰を上げろ」
「やめろ、いっやだ…っ離せ!!!俺に、触るな!!」
抗議をしても手は止まず、首筋を噛みちぎられるのではと思うほど強く肌を吸われる。
シーツをつかむ指先が赤く滲む。逃げようと藻掻いた血痕がそこら中に点在した。対照的なまっさらな男の手が手の甲を覆う。
「千鉱」
こちらを向けとでもいうように、顎を掴まれる。
男の着衣はほとんど乱れていない。右手に嵌めたグローブでさえも。
男はおもむろにグローブの指先を咥えチヒロに見せつけるようにゆっくりと引き抜いていく。
ーお前は誰だと聞いただろ?
シーツを握りしめるチヒロの手に、男の右手が重なる。
「俺は”毘灼”統領」
脳裏に焼き付けて離さなかったもの。奴らの証。一瞬たりとも忘れたことのない父の仇。身体は震え、あらん限りに目を見開き、この炎の紋章を、今一度灼きつける。
「…殺す」
それが合図のように男は人差し指と中指を立てた刀印を結ぶ
「やってみろ」
一瞬にして樹木の幹が出現し四肢を拘束していく。
座位のまま幹に腕を釣り上げられ寝台で膝立ちとなっては
顔を背けることもできない。
「っ….!!」
腕に力を入れれば比例してミシミシと骨が圧迫されていく。
「抵抗すれば指を1本ずつ切り落としていく。必要であれば足の腱も切ろうか。」
対する男は長い足を組んで椅子に腰掛け、悠然と美術品でも見るかのようにチヒロを鑑賞する。
「肝心の刀が握れなくなったら…唯一の目的である復讐も果たせないな?」
刀印を額につきつけ、戦意を削ぐ。
寝台の端で犯されている。まるで崖の上。そこで与えられる接吻は死に相当する恐怖を忘れさせてはくれない。元凶はこの男なのだ。
寝台に片膝だけをついた男が、印を結ぶその長い指でチヒロの後孔を犯す。
腹側にあるしこりを擦られ強制的に絶頂へと導かれる。硬く閉ざされた蕾も押し開かれ水音が絶えず響く。
「んっ、んっ…ん…やっ」
「お前は指も足も美しいからな。どうせなら五体満足で楽しみたい。」
髪を振り乱し快楽を逃がす。声を抑えたくて下唇を噛みしめれば、すぐさま”口を開けろ”と唇を舐められ舌が侵入する。
男は決して目を閉じない。チヒロも男を睨みつけ”この行為は合意じゃない”と拒絶し続ける。
舌を吸い上げ、同時に男がナカから指を引き抜けば、太い指の喪失で拡げられた後孔が収縮する。
「んっ…」
思わず身体が仰け反った隙を逃さず、晒された喉仏から鎖骨、胸の飾りまで満遍なく愛撫していく。胸を執拗に嫐りながら片手間のように妖術は消えた。
柔らかい寝台に安堵するも一瞬のこと、天井を見上げる暇も与えずチヒロの視界を塞ぐ。
はだけた襦袢を手繰り寄せたくとも腕の感覚はなく、だらりと頭上に力なく横たわるだけ。
申し訳程度に残っていた腰紐は抜き取られ、自分の下半身の惨状を目の当たりにした。
性器は立ち上がりひくひくと透明な先走りを溢しており、思わず膝を寄せる。
男も暗色の着流しを開け、筋肉質で無駄のない体に見合う、そそり勃った剛直が露わになる。ソレを扱く男の手は、チヒロの性器と同様先走りで濡れている。
顔を顰めるチヒロを一瞥し、なだめるようにキスを落とす。
「初めてか?」
「………………………さぁな」
ないに決まってる。性欲は薄く、自慰もほとんどしたことがない。ましてや男と。どう答えてもこの男を煽ることになるんだろうと諦めた。
「おい、よせ。嫉妬で狂いそうだ。」
すると、解釈違いとでもいうように男は盛大なため息をつく。
お前は俺のなんなんだ。チヒロこそため息をつきたかった。
力の入らないチヒロの利き手を取り、手の甲に恭しく口付けながら、腰を進める。じっとチヒロを観察しながら。
めりめり、とナカに押し進む異物感に冷や汗が止まらない。
「ゔっ….ぐ…」
呼吸も浅くなる、目を逸らすな、と自分を叱責しながら赤い目を見開く。
「脚を閉じるな」
責めるように指を甘噛みされ、指先に感覚が戻ってくる。とっさに手を引こうとするも、逆にもう一方の腕と一緒に男の首筋へ誘導される。
端から見たら男に縋って、まるでチヒロも欲しがっているかのように。
「やっ…いやだ。抜け…っあ!ふっ…」
小刻みに腰を動かす律動が伝わってくる。
この先の衝撃には絶望しかない。
思わず目を瞑ってしまった瞬間、指とは比べものにならない衝撃に貫かれる。
「…っは!!!……!」
思わず縋った首筋に爪を立てる。
肉壁がうねり、男の表情も歪む。
「…っ!よく締まる。いい穴だ」
嘲笑うように、チヒロの身体を作り変える。
男の首筋の体温、重なる胸板、交わる体液。
せめて意識を手放してしまいたいのに突き上げられる衝動でそれも適わない。
肉同士がぶつかる音と連動する嬌声を他人事のように聴きながら、宙で揺れる自分のつま先を見つめるしかなかった。
ーーーあの日死んだのが
一種の試し行動だ。受容の段階には必要な過程、年長者として真っ向に否定し六平千鉱という存在を全肯定さえすれば事は納まった。
取繕える程度の愛情ならよかった。
行き過ぎた愛は、感情のメーターを振り切った。
独りよがりは自分のほうだ。どす黒い感情を隠している。
あの子を守ると誓った。生まれた瞬間から。
あの子を愛している。六平千鉱として。
俺の愛を否定しないでくれ
ーーーあの日、死んだのが俺だったらよかった
「て言われたの?チヒロ君に?」
電話で開口一番「チヒロ君お前んとこおるやろ。おるって言えや。出せ」とヤクザもびっくりな恫喝をされた。
言われるがまま、任務の合間にチヒロが単身で乗り込んだというヤクザのアジトに呼び出された薊は、お前が辞めたせいで僕は過労死寸前なんだがと嫌味のひとつでも言ってやろうとしたその言葉をすぐさま飲み込んだ。
「キッツいわー….頭真っ白になってもうて気づいたら頬張ってた。あの子に声荒げたこともあらへんのに」
さきほどから血痕が残る地面をじっと見つめたまま柴は微動だにしない。
「妖刀の契約者やから護衛として、六平の息子やから一緒におると思てる。」
柴の愛とは形は違えど薊なりにチヒロを愛してきた。
15年以上チヒロを見てきたのだ。
チヒロの傍にいるため神奈備を辞める手筈を整え、国家正規の妖術師としての地位を捨てそれをチヒロが気に病まないようにと隠していたことを知っている。
「あの子がどこにもおらん」
その場にしゃがみ込み地面にそっと触れる。
襲撃した路地に残る微かなチヒロの玄力のなごり。
「僕も神奈備内部を探るし、独自に動くよ。」
雨で流されて掌に収まるほどしか残っていない血痕をまるでそれがチヒロであるかのようにかき集めているようだった。
「…妖刀が出回ったら即座に知れ渡る。妖刀の目撃情報がない限り、チヒロ君は無事だと信じよう。」
それは柴にとって死刑宣告と同義だ。
拠点に戻り、やはりチヒロが戻っていない現実を思い知る。湯に切り替えてもいない水を放出したままバスタブで天井を見上げている。
排水口に流れる水音さえも遠い。
「…あの子があの晩作ってくれたご飯、なんやったっけ……」
誰にとも無く呟いて、感覚の鈍くなった身体を引きずっていく。ほとんど濡れたまま下着だけを身につけて、引き寄せられるようにたどり着いたのは無造作に置かれたあの日のままの黒いコート。
柴が贈って以来、チヒロが愛用していたもの。
彼のなごり。
「ヒナオちゃん…なんか情報はい「ナイ!!!」
開口一番がこれだ。これもう3日連続。
「ないんだけどさ、まあ掛けてよ」
約1週間前の深夜に訪ねてきたと思ったら、あんだけ拒否ってた泊りがけの護衛任務受けるっていうから『チヒロ君どうすんの?』って聞いた時のあの絶望顔。歴代記録更新中。
「柴さん顔ヤッバイよ。鏡見た?」
護衛は3日間で終了。
その間チヒロ君と連絡を絶っていたらしいからびっくり。マゾなの?
あるヤクザの集会についてはリークしたから妖術で抜けて一緒に襲撃したとばかり。
実際はチヒロ君ひとりで乗り込んだそうだ。全滅してるのは聞いたけど報告こないな、なんて思ってたら柴さんは知らん、って言うし。
直後に顔真っ青で消えたと思ったら拠点はもぬけの殻だったそうな。
コートも携帯も置いたままなんだからすぐ戻るよって言って現在に至る。
チヒロ君は戻らない。
薊さんも仕事そっちのけで行方を探ってる。
見るに見かねて柴さんの拠点に差し入れ持ってったら、
部屋はひどい有様だし、本人ももちろんひどかった。
床はバスルームからびっちゃびちゃだったし、
パンイチでチヒロ君のコート抱きしめて寝てんだもん。
(多分気絶)
ソッコー薊さんにヘルプして介抱してたら、うわ言でもチヒロ君のこと呼んでるし、コートから手は離さないわ。
薊さんも薊さんで相当参ってて、携帯でチヒロ君が入れた留守電メッセージ聞いて涙こぼしてた。人ってあんな静かに泣くんだね。
ほんとに二人して愛してんだな、って思ったよ。
チヒロ君、きみ一体どこにいっちゃったのさ
パチン、パチン…パチン、パキン
意識を浮上させたのは、襖を隔てた向こうで響く軽く、爆ぜるような音。
視界に入るのは、真新しい襦袢と赤く擦り切れた手首。まっさらなシーツにはあれほど掻き乱した赤い爪のあとはどこにもない
恐る恐る起き上がり、足を床に降ろす。膝から崩れ落ちることはないものの関節の違和感は拭えない。
そもそも戦えはしない。妖刀のないチヒロなど、あの男には脅威でもなんでもないのだ。
奇襲をかけたとして…印を結ばせなければどうだろう、拘束、動きを止められれば…丸腰でどうやって?
立ち尽くして自問自答を繰り返す。
「突っ立っていないでこちらに来たらどうだ」
扉越しに刺すような男の声。
「来ないならこちらから行くが?」
こちらの様子はお見通しらしい。
不本意ではあるが部屋を隔てる襖を手荒に開け放つ。
悠然と背を向けて座る男。
広間に目立った調度品はなく、毛足の短い絨毯の上に重厚なローテーブルとビロードの長椅子が2脚が並ぶだけだ。
男の手元には花びらを幾重にも重ねたバラのような花と水盤、剣山には既に数本の花が生けられている。
不満を顔に貼り付けたまま男の向かいに腰掛ける。
「朝からご機嫌がよろしくないようだ」
「朝も夜も知ったことか」
ここでは昼も夜もないのだ。時間の感覚が失われていく。
不機嫌を意に介さず、花鋏は淡々と白い花の枝を落としていく。
「また気絶してる間に、」
「風呂に入れて着替えさせた。今更恥じらうな。精液を掻き出しながらイクお前も愛らしかった。」
「殺してやりたい。いますぐに」
「そうか。残念だ。」
言葉とは裏腹に気にした様子もなく枝を絶ち剣山に花を挿していく。その手つきに淀みはない。
純白の花がすべて水盤に載るさまを見つめるも、視界に捉えているのは今しがたまで男の手に握られていた花鋏…。
「しろすみのくら。」
「…?」
「この花が気に入ったか?白角倉しろすみのくら。この千重咲きの椿のことだ。白澄しらすみともいう」
選んだ甲斐があったな。
「白い椿が表すのは『完全な美しさ』『魅力至上の愛らしさ』」
「…椿。俺の首を落とすって揶揄か?」
「お前は情緒がないな。」
(人を犯しておいて何が”情緒”だ。)
おもむろに剣山に活けられた白椿を抜き去り、チヒロを見つめながら大輪の花びらを1枚1枚むしり取っていく。
「お前のようだと言ったんだ。」
花びらが一枚、また一枚、地に落ちていく。お互いが視線を外さないまま、チヒロは猫のようなしなやかさで、テーブル上を四つん這いのまま男ににじり寄る。
男の視線を意識しながら、手探りで花鋏を死角に手繰り寄せる。
背中は艶めかしいカーブを描き、着せ替えられた襦袢の合わせからはチヒロの薄い胸板に散らばったおびただしい鬱血痕が覗く。
テーブルの端に腰かけ、男の手首ごと、花弁を剥がれた哀れな白椿を引き寄せる。
身を乗り出し、ゆっくりと男の手首を食むようなキスをした。
控えめなリップ音に、一瞬男の目が見開かれる。
手慰みに弄ばれた白椿にチヒロが顔を寄せる。男に見せつけるように花弁を咥え、ゆっくりと口を開き舌をちらつかせば、ひらひらと地に落ちる。
男の視線が花弁を追ったその瞬間、後ろ手に隠し持った花鋏で男の掌を貫いた。
「チッ」
首筋を狙ったのに、と思わず舌打ちする。
拘束していた片手から椿がすべり落ち、すぐさまチヒロの手首を捕らえる。このままでは引き倒される、その前に自重で抑え込もうと男に乗り上げ、鋏の柄にさらに力を込めた。
めり込む肉の感覚はあるのに男はひとつも表情を変えず余裕の笑みを貼り付けている。
「思わず見惚れた。処女だった割になかなか巧みだ。」
「…っだれが処女だ」
ぎりぎりと力比べが続く。利き手ではない右手では分が悪い。
「淵天はどこに…っ!」
掌から刃を引き抜き、瞬時に喉元へ突きつけたと同時に、頬に落ちた血液によって自分が組み敷かれたことに気付く。
刃が薄い皮膚に食い込んだまま組み敷かれる
ポツ、ポツと小量な血液がチヒロの頬を汚していく。
男の喉元に突き付るのは、妖刀には遠く及ばないただの脆弱な花鋏。
それをいとも簡単にチヒロの手から奪い取り形勢は逆転する。
頭上の白椿が、恨めしいほど鮮やかだ。
余所見をするなとばかりに、男の手が水盤を薙ぎ払う。柱に当たった水盤は椿を散らしながら無残に割れた。
「まったく。なぜこうもそそるんだろうな。」
顎を乱暴に掴むと滴下した血液を舐めとり口移しで嚥下させる。
「手首へのキスがどんな意味か教えてやろうか」
「……?」
「ほかでもないお前からのお誘いだ。望み通り抱き潰してやる。」
興奮を隠さず、チヒロの唇を貪りながら、襦袢の裾を割り、下着を身に着けていない下半身に男の手が伸びる。
「んくっ…ち、がっ…そんな、つもりじゃな…!ぁっん、や」
「男に跨ってただで済むと思うな」
非情にも前立てだけを寛げただけの男のペニスがチヒロの中に慣らしもせず挿入ってくる。
「ぅぐ…、痛、、、ッやぁ…むり、やだっ、やっぁ」
「ははっ!”やだ”か。おまえはかわいいな千鉱」
必死で腰の侵入を拒むも、激しいピストンは止まない。後孔が引きつる痛みに涙が滲む。
男を睨みつける気力は既に残ってはいなかった。
「お前自ら脚を開いて抱いてくれと懇願するなら、殊更優しく抱いてやるのに。」
「……死んでも、言わない。」
ただ静かに確固たる意志を持って。
天地すらあやふやになるほど揺さぶられ、目まぐるしく体位は変わる
いやだ、やめろと拒絶すれば余計奥を穿たれ
これに比べれば、これまで”やさしく”抱かれていたのだと思い知った。
背中に当たる木の冷たい感触、全裸のチヒロと対照的に服を纏ったままの男、
既に声も枯れて、吐息で喘いでいる。
抵抗を諦めた掌が縋るのは白い椿だ。
それさえも男は許さず、絶え絶えの吐息さえも独占する。
視界の端で男に力を込められ、落ちる椿の首をみた。
あたりには数本の椿が踏み荒らされたかのように散乱し自分の末路を重ね、チヒロは小さく絶望した。
寝台が揺れている。
自分の身体も、寝具の感触が全身を包み、衣擦れの音がする。
うつ伏せで肺が圧迫され、息苦しい。
上から伸し掛かられている。
「………あ?」
意識が覚醒すれば、肌同士を打ち付ける音が鮮明に鼓膜を震わす。
反射で起き上がろうとする身体を、大きな手が腰をつかみ引き戻される。
「起きたか」
「っひゃう…っ」
チヒロに起きがけから覆いかぶさっていた男は意地悪く
腰をグラインドさせチヒロを喘がせる。
挿入したまま横向きになると、チヒロの片足を持ち上げながらナカを穿ち続ける。
何が起きているのかわからぬまま、チヒロはただ揺さぶられた。
「まっ…待って、やっ…ぬ、抜け…抜いて…っ…!!」
キスの嵐のせいで、まともに発語することもできない。
「お、奥はいって、んっやぁ…イくっ」
胸の飾りを爪ではじいては吸いつき、絶えず絶頂の波が訪れる。
「おい。お前ばかり気持ちよくなってどうする」
「おまえがっ、いちいちっ変な、触り方をするから…あんっ」
チヒロの性器を握りながら、後ろの抽挿は余計激しくなる。
うなじ、首筋に噛み跡が増えていく。
手荒く仰向けに転がすと、男は腹に跨り呆然としているチヒロにむけて白濁を放つ。
性器を扱く男を見て、こいつも服を脱ぐんだな、なんて呑気なことを考えた。
胸に放たれた白濁を目にして、思わず舌打ちをする。
舌打ちを聞いた男は可笑しそうに、ご丁寧に放った白濁をチヒロの乳首に塗り込んでいった。
再び芯を持ち始めたペニスで、乳首を潰すように上下させる。
「…んっ」
「勃たせたら、口で奉仕させるぞ。」
暗に喘ぎ声で男を”その気”にさせるな、ということだ。
非難の目で睨みつけると、着流しをさらりと羽織った男は流れるようにこめかみに触れるだけのキスをする。
「食事を用意する。その間に風呂を使え。」
寝起きを襲ったとは思えないほど、男は軽やかに部屋をあとにした。
手の込んだ鮮やかな料理を前にして、場違いとわかっていながら後悔の念に苛まれている。
柴さんもこういうの食べたかったかな。角をきれいに整えられた煮物、飾り切りされた食材
透き通った出汁の上品なお吸いもの、
父さんに作っていたものばかりだったから柴さんの好みじゃなかったかも。
彩りももっと気にして…
「箸が進んでないな」
「……うるさい。」
そもそも、お前も一緒に食べるのか。
襖を開け、どこにもつながらない廊下に面しているのは
松の木が中央に鎮座した小さな庭。
出口を探した際には気が付かなかったが、そこには小さなため池があった。
そこで泳ぐのは、一匹の立派な鯉と金魚が数匹。
自分の金魚たちを思い出す。
しゃがんで水面をのぞき込んだ。金魚鉢で泳いでいたあの子たち、あの子たちの最期、水面に映る頬の傷。
「金魚が好きなのか」
あとで餌を用意しよう。と遥か頭上から男の声。突然現れようともう驚きもしない。
さきほどとは打って変わってかっちりとスーツを着込んでチヒロを見下ろしたと思ったら、視線はチヒロの足元に注がれている。
「履物はどうした」
「そんなものどこにある」
まったく、とあきれた声を出した男はすぐさまチヒロを抱き上げ縁側に座らせる。
甲斐甲斐しく、白砂砂利の庭を歩いた足を男自ら清めている。
たった数日のことなのに筋肉が落ちた気がする。自分の白い足を眺めて呑気にそんなことを思った。
足元で片膝を立てて跪いている男を見て、悪戯心が湧いた。清められた足の親指で男の首筋をことさらゆっくりとなぞっていく。
それでも余裕の笑みを貼り付けている男が疎ましく、足先で顎を上向かせた。
「絶景だな」
男が傅き、恍惚とした表情で恭しく足の甲にキスを落とす。その優越感で、思わず身体が震えた。
もっとも、そこには敬愛なんてものが微塵もない、性的な愛撫が始まる合図でしかない。
「脚も感じるのか?淫乱め」
男の舌は皮膚の柔らかい場所を進み、襦袢を乱していく。
「柴登吾も誑し込んだか」
「…柴さんをお前と一緒にするな」
「一緒さ。あの男は理性でなんとか一線を保っているだけだ。」
腰紐を解き、太腿の奥へ進もうとす不埒な手を思わず掴む。
「…この手は?」
「いやだ。朝もヤっ…ただろ。今日…は、したくない。…無理だ」
考える仕草をしたあと、男はあっという間に縁側に乗り上げ、長い腕がチヒロを囲い込む。倒れ込みながらも肘を付き、男から身体を隠すように身を縮ませた。
「無理矢理がお望みか?そうか」
甘やかなモードから一変し、チヒロの足首を引き、下半身を密着させる。
無駄だとわかっていながらも、乱れた襦袢をかき集め男の残す跡だらけの身体を隠すチヒロに男は欲情するのだ。
「くち、口でする、から」
「…必要ない。今、淫らな誘いをしたお前を見て勃った。」
「そんなことしてないだろ…!」
分からせるように下半身を押し付け、尻臀を左右に揉みしだく。
「ナカでしゃぶれ。」
廊下の冷たい木の質感、骨ばったチヒロの身体は痣だらけになることだろう。
揺さぶられていくうち、せめて布団がいいのにと思えるくらい、諦めと、この異常な事態に対して適応してしまった自分に気付いた。
もう戻れないのかもしれない。
父を失って柴や薊が支えてくれた日々、頬を張られた痛みは今も鮮明なのに男の与える暴力的な快感が上書きをしていくようで。
身体が辛いだろうから、とベッドで食事をさせられる。
ほかに気遣うことがあるだろうに、呆れかえって言われるがまま受入れてしまった。
男はベッドサイドの椅子で食事をしている。
綺麗な箸使い、椀を持つ手も粗雑なものを感じさせない。所作が洗練された男。
”毘灼”という組織についての情報を得られない今、この男が統率する組織である以上底の知れない不気味な存在に思えてくる。
妖術で形成されたこの”回廊”の屋敷に今も構成員がいる可能性もある。
考え事をしながらだが、チヒロの食は進んだ。
「口に合ったようでなにより。」
男はきっちりとスーツを着込んでいる。
既に食事を終え、チヒロが食べているのを満足そうに眺めている。
「…見るな。食べづらい。」
「つれないことを言うなよ。時間が限られているんだ。…時間が許す限り見ていたい。」
「…殺すか、解放する気になったのか。」
「いや?どちらでもないさ。ただしすべては有限だ。」
グラスの中身を揺らしながら、珍しく感傷的な物言いをした。
「お前はあの男に搔っ攫われてしまうしな。」
「…あの男?」
「柴登吾。”元”神奈備で、あの妖術はやっかいだ。」
ーーー”元”?元って言ったか?
「お前の存在はトップシークレットだとしても、あの男の過保護さといったら…。お前を一瞬でも手放したのが運の尽きだな」
ーーー『俺が妖刀の契約者だから、柴さんは神奈備として、』
「ようやく念願のお前を…「六平国重の息子だからか?」
「俺が六平国重の息子だからか抱くのか?」
こいつも俺を通して”六平国重”を見るのか。
お前たち毘灼が奪った父を。
「残念だったな。俺に、父ほどの価値はない。新たな妖刀は生まれない。」
「…不可解だな。なぜお前の父親が出てくる」
男は心底理解できない様子でチヒロを微動だにせず見つめている。
「自分の価値を知れ。でなければ”六平千鉱”として生まれた意味がない。」
(なんで父と同じことを言うんだ。)
(なんで俺がほしい言葉を、よりによってお前が言うんだ)
赤い瞳からは処理できない感情が堰を切ったように涙が流れた。涙を見られたのが悔しくて即座に拭い食事を再開した。
男は揶揄うこともなく、ただ静かにチヒロを見つめていた。
その夜は、珍しく抱かれることはなく、ただ、互いに一糸まとわぬ姿で一緒のベッドで眠った。
せめて下着をよこせと言ったら鼻で笑われ、まったく取り合ってはもらえなかったが。
ーーー寝首をかかれる心配もしてないってことだな。
チヒロを雁字搦めに抱きしめる男の手の甲には、チヒロが刺し貫いた傷は跡形もない。
ここに連れて来られてからというもの、抱かれたあとは気を失うため、男と共寝をしていたかさえ定かではない。
後ろから男に抱きしめられて体温が伝わってくる。
意外なほどに穏やかなこの男の心音も。
この状況でも安心してしまう自分に困惑しながらも睡魔は規則的に降りてくるのだ。
襖の向こうで、男が誰かから報告を受けている。
「そうか。そろそろ潮時だな。…柴登吾は鼻が利くようだ。こと千鉱のことに関しては。」
襖を開けて、男が寝台に戻ってくる。手にはチヒロの希求していた淵天を携えて。
父が殺されてからこれほど離れていたこともなかった形見であり分身。形を確かめるように無意識に鞘を撫でる。
「千鉱」
むき出しの華奢な肩にキスを落とす。肩をすくめるのはチヒロのクセだ。
まだ微睡から覚めていないのに、しっかりと愛刀を抱いている。
ーーー瞼が重い。淵天を抱いている。俺のもとに戻ってきた。これでようやく戦えるのに。…鯉口を切れないでいるのは?
男は耳朶を食み、キスをして耳元で囁く。
「時間だ」
「…?」
身体が浮き上がって、男の膝に向かい合わせで座らされる。
人を裸に剥いたくせに、この男がいつの間にか浴衣を身につけているのが無性に気に食わなかった。
男の衣紋に指をかけぐい、と後ろへ引いて、現れた傷ひとつない肌に噛みついた。
シワひとつない男の浴衣をくしゃくしゃにして、癇癪をおこす子どものように、言葉でなくこちらの要求を汲んで欲しかった。
「わかっている、千鉱。」
あやすようなキスのあとに、気に食わない浴衣はすぐさま男の肌を離れ、腰回りで無造作に丸まっている。
(なぜこんなことをしているんだろう。)
は、と息を吐いたと同時に与えられる口付けでチヒロの尻を不埒に撫でる手から意識が反れる。
唇が離れるのを惜しむように、浅く、深くを繰り返す。
男の膝に跨り、キスと愛撫を受け入れてはいても、チヒロの手には淵天が握られている。
愛すのか、殺すのか異様で滑稽な繋がりでしかない。
潤滑剤と一緒に指が入ってくる。きっと難なく挿入ってしまう。すっかり肚のナカは男の形を覚えさせられてしまった。
身体を押し開く刺激で、意識が明瞭になる。
「….んっ!!」
こうなれば身体を丸めて内壁に擦り込まれる予備動作のない強制的な快感に悶えるしかない。
「おれを…殺す…のか…?」
まるで見当違いなことを舌足らずで聞いてくるチヒロの口を塞ぎ、挿入したまま体位を変える。
膝頭にキスをして身体を進めた。
「お前を還す。」
投げ出されたままの手首をすくい揚げ、内側に吸い付く。
身体に残す、唯一の男の痕跡。
「妖刀が目的ではないと言ったろ
まずは千鉱おまえを食べたかったんだ。」
あの男に食われる前にな
妖刀だけが目的であれば、チヒロの死体は見つかるはず。
命滅契約者を殺害すれば事足りるからだ。
それすらも見つからないのであれば、拉致されたと考えるべきだ。
結界術に長けた妖術師の介入、長期に拘束するのであれば現実に存在する空間を何らかの条件で繋げている。
「入口は必ずある。」
「やっぱここしか考えられへんねやろ。」
チヒロが消えてから何度も訪れたヤクザのアジトを、柴と薊が見上げている。
襲撃したときと類似した状況下であれば結界の歪を突いてチヒロが拉致されているであろう空間をこじ開けられるのでは、という結論に至ったのだ。
「発動の条件がチヒロ君自身でなければ、だよな。」
「とすれば、相手は間違いなく毘灼やろな。」
柴の脳裏には、あの日倒れた六平の傍に寄り添い、淵天を握りしめる幼さの残るチヒロが昨日のことのように鮮明に焼き付いている。
殺気を纏いながら、チヒロの襲撃のルートを辿る。
涅を発現させて斬りこんでいく。背後を涅でカバーし、先手を打つよう教えたのは柴だ。
あの子の闘い方が手に取るようにわかる。
襲撃後の室内は夥しい血痕にまみれている。
玄力の残渣を追いつつ、彼のブーツの跡を追う。
複数の血痕つきの足跡、それを追うチヒロ、その先にあったのは
ーーーギギギギ
鉄扉が、錆びた鉄特有の金属音を纏って開かれる。
「…チヒロ、君」
階段を駆け上る自分の足音は全く耳に入らなかった。
探し求めた彼から一瞬でも目を離すものかと。
ーーーこの焦りはなんなんや。
「…柴さん」
チヒロも困惑している。自身に起こった事象についてなのか、目の前の柴に対してなのか。
手を伸ばし、チヒロの腕を引いた。しっかりと腕の中に納め、力の限り抱きしめた。
「ごめん、飛ぶ。」
「おい!柴!!!」
―――一瞬でも手ぇ離したら、また掻っ攫われてまうやろが。
とにかく、二人の安全な家に連れ帰りたい。すべてはそれからだ。柴にはそれしかなかった。
勢いよく飛びすぎた。
拠点のリビングのど真ん中で、柴はチヒロをがっちりホールドしながら覆いかぶさるような形で着地をした。
着地をしくじったのなんて、妖術を覚えたてのガキの頃以来だった。
チヒロは大きな目を瞬かせながら困惑しっぱなしだ。
「…ごめん。失敗した!ケガあらへん?」
「はい、大丈夫です。…あの、柴さん」
「うん。ちょいこのままな。」
着地した態勢で上から退いたものの、胡坐をかきその中にチヒロを閉じ込めたまま、柴が動く気配はない。
君、5日間行方知れずやったんやで、と伝えるも、チヒロはその実感がないようだった。
「今まで、どこにおったかわかる?」
「…覚えてないんです。アジトを襲撃して、あの扉をくぐって…直後に路地に飛ばされたと思います。」
「そこで妖術師と会うた?」
「いや…そこでケガを負って、」
自分のものではないハイネックの上着に、白いインナー、チヒロも身に覚えのない痕跡に言葉が止まる。
「斬られた?見して」
チヒロが無防備にも顎をくん、と上に上げる。ファスナーを下げて、という意味だ。
柴はなんとも言えない気分だった。数日会えなかっただけて、すべての所作に胸が締め付けられる。
ゆっくりとファスナーに手をかけ、下げていく。
インナーのカットソーを持ち上げても目立った傷はない。
「確かに脇腹あたりを…それで、」
「…記憶いじられたかな、すぐに思い出そうと無理せんでええよ。脳への負担が大きいから」
「治療…されたんですかね。」
チヒロは自分の薄い腹をまじまじと覗きこんでいる。
「せやね…。玄力による治癒は高度やし、そこらの術師には出来へん芸当なんやけど…」
ーーーやっぱり毘灼で決まりやろな。けどなんのために?一人になるんを狙って、窮地を救って、治療までして、なおかつ妖刀には手を付けずや。けど…なにより
「君が戻ってよかった…」
深い深い安堵のため息が漏れた。ようやく息が出来たような気さえする。
確かにチヒロが腕の中にいる。ここからなら誰も攫うことはできない。安全領域だ。
「打ってごめん。痛かったな」
すりすりと左頬をさすると、チヒロの目が泳ぎ、落ち着きがなくなる。
柴は急かさず、言葉を待つ。
「…父さんが守ってくれた命を軽んじるようなことを言いました。」
ぎゅう、と柴よりも小さな拳を膝の上で力いっぱい握っている。
その様子が痛々しくて思わず掌を開かせた。
「…あの日、死んだんが君やったとしたら、俺は生きとらんやろ。君の父さんも。結果、ここには誰もおらんようになる」
白い掌に食い込んだ爪の跡に、思わず口付ける。何度も、何度も。
「俺は君を失うんが怖い。」
柴と重なる自分の手をじっと見つめる。
「…俺は父さんの代わりにはなれないです」
「そらそうや。君は”六平千鉱”なんやから。君の父さんは親友、いなくなって悔しいし、そら寂しいよ。でもな、そもそも六平の息子やからって理由で君の傍にいたいわけやないの。」
こつんと額が重なる。
「……まだ神奈備の保護下に行くつもりなん?」
「…柴さんとは…一緒にはいられないんですよね。薊さん?と電話で…」
「…?あー…あれ、神奈備のまんまやと公に君の傍に居られへんのやったら辞めたるわ!って言ってた電話やったと思うんやけど、それかな。」
たぶん、という意味をこめて額をくっつけたままチヒロは瞬きで答えた。
「“自分のせいで”て思われたくなくて伏せとった。完全に俺の、君の傍にいたい、いう独断やから。他の奴が四六時中君にべったり、とか考えただけでも嫌やってん。わかる?」
「…そうなんですね」
「もーーーーわかってないやろ!その目はわかってへん目や。…てか、さっき、普通に君の手にちゅーしたな。ごめん。ただ俺の理性を褒めてほしいくらいで…」
がっくりうなだれる柴に寄り添うように、頬を擦り付けた。柴の動きが一瞬固まる。
「手、だけなんですか?」
「…煽らんといてよ。」
「お願いすればしてくれますか?1回だけ…。で…いい…の…で」
ただでさえ小さな小さな声が、もっと小さくなってしまった。
「…1回だけで済まんから、我慢しとるんよ?」
「じゃあ二人で…我慢しましょう。」
目線が合って、どちらかともなく唇を合わせた。”今日のところは”という注釈つきのキス。
触れるだけのキスから、口を開けてとねだって、長い長い一回のキス。彼のを舌吸い上げて貴重な1回のキスを長引かせたかった。唇が離れなければカウントは1回だ。
「…「ただいま」って言うてくれる?おかえり、て言いたいから。」
名残惜しいキスのあとは、今はまだ親愛と情愛のハグのはざまで、「ただいま」「おかえり」が成立した。
柴の心音を聞きながらシャツに顔を埋める。しかしそれは、だんだんと身に覚えのない記憶に侵食されていく。
背中で心音を感じている。
この布1枚が肌を隔てるのが無性に気に食わなかった、取り払いたくて、男の肌を噛んで…
待て。いつそんなことが起きた?
『わかっている、千鉱。』
違和感の原因。
ちりちりと痛む、そこに触れた唇の感触を知っている。
手首に残る鬱血痕。
『手首へのキスがどんな意味か教えてやろうか』
(お前は誰だ)
呼吸はいつまでも整わない。脈動が早まり、こめかみの傷が熱を持つ。
身体から消された痕跡とは対照的な体の違和感が記憶をおぼろげに補足していく。
自らの上で腰を振る顔のない男を。
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