最近、同じような夢を見る。
真っ暗な空間に、白のテーブルクロスが掛かった長机。自分は端に着席しているが、反対側の端は何故か見えない。誰かがいるような気配はするが、その姿ははっきりとはわからない。自分の目の前には銀製のナイフとフォーク、皿に盛り付けられた果実のみ存在している。
飾り気のない皿に、放射状につるりと瑞々しい桃の欠片が八つ並んでいる。柔らかな乳白色と淡紅色が愛らしい果肉は、その内に蜜を宿しているのだろう。その甘い香りが鼻腔を擽り、肺まで満たそうとしていた。
その桃の一片を見えざる誰かの手によって食べさせられている。ナイフとフォークで、食べやすい大きさに更に切り分けられた果肉を休みなく口に押し込まれる。無理矢理なのに、何故か身体は抵抗することが出来ない。
柔らかな肉からじゅわっと果汁がしたたり、咽喉の奥を流れていく。口の端からその汁が溢れて雫になっても拭われないーーそれが、完食するまで続けられる。そんな夢。
余り甘味は好きではない。
それは幼い頃から変わらないことだった。
乳脂や砂糖をたっぷり使ったビスケット
丁寧に炊かれた小豆がふっくらとしている大福
父の昔からの友人が、土産に持って来た真っ赤な苺
一度は口に含んでみるが、二口目に進む機会は殆どなかった。欠けてしまったそれらは、酒も嗜む癖にそこそこ甘党な父の胃袋の中に消えていった。大きな職人の掌で頭をガシガシと撫でられながら、それらを食していく父の笑った顔を思い出すと、胸の奥が懐かしさで少しだけ苦しい。
結局、甘味が体質的に受け付けないのか。香りが苦手なのか理由は未だにわからない。
だからこそ、繰り返されるこの夢は自分自身の願望によるものでないことだけはわかる。見てもご褒美のような内容では自分にとってはない。じゃあ、何で同じ夢ばかり?と頭の中で呟いた次の瞬間、千鉱は朝が来ていることを認知するのだった。
「……チヒロ君?」
背後から呼びかけられた柴の声に、はっとする。
ここは、歓楽街の一角にある雑居ビルの7階で、所謂裏稼業の団体の事務所内。父の仇である毘灼に繋がりがある『かもしれない』程度の情報であったが、可能性にかけて訪れ、そして悪人達を切り伏せたところであった。つまり、現実の世界だ。あの香りが満ちる世界ではない。
「……すみません、少し集中が切れていました」
「今日も結局ハズレみたいやったからな、こう続いていたらしゃあないよ」
そう言いながら、乾いた笑いを浮かべ血溜まりを歩き回る柴の姿は、端正な彫刻のような佇まいと光を映さない深淵の瞳のお陰か、平時の千鉱に対する人当たりの良さを忘れさせてしまう。
荒れ果てた空間の中から、蜘蛛の糸レベルの情報だけでもないかと探索し、散らばった書類を確認したが、特に重要そうなものはない。最後に閉じられた小さなキャビネットを残すばかりだ。鍵を探す手間すら焦ったいので、柴が慎重さは残しつつも、無理矢理その扉を開いた。
開いた瞬間、花やぐような瑞々しい香りが溢れ出て、千鉱はぞっとした。それは、連日夢の中で吸っているあの果実の香りと同じだったから。
キャビネットに保管されていたのは、薄桃色をした大量の錠剤だった。組織の資金源だった違法ドラッグだろう。人工的に付けられた甘い香りは、薬に対する敷居を下げる為、罪悪感を無くし快楽を付加する為のもの。主に若者に向けての商材と思われる。
その錠剤が包まれた包装シートを手慰みに弄びながら、柴は千鉱を見上げて「とっとと帰ろか」と低く呟いた。その声がなければ、きっとまたあの夢の世界のことを思ってしまっていただろう。ここは生き死にがある本当の世界だ、夢想する暇なんてない。今日がハズレならば、明日の当たりを引くまで動き続ける。それだけだ。
「今日はもう帰りましょう」
「せやね、帰ったらご飯食べようか」
「……そうですね、拠点の冷蔵庫にある余り物で何か作ります」
「チヒロ君、何でそんなに神童なの?!」
部屋の中にある、傾いた唯一の時計は朝6時を指している。冬の弱い陽光がコンクリートの箱内を淡く満たしていく。差し出された柴の手を取り、彼の妖術で、この場所を一瞬で後にする。あの瞬間嗅いだ人工的な桃の香は、忘れてしまおう。そう、心の奥で千鉱は独りごちた。
真っ暗な空間に、真っ白なテーブルクロスが掛かった長机。自分は端に着席しているが、反対側の端は何故か見えない。誰かがいるような気配は確かにするのに、その姿ははっきりとは分からない。
ただ、以前見た夢と同じシチュエーションだが、明確に違う。
自分が座している椅子は、年代物でしっとりとした艶があるオークチェアであり、自分の目の前にある銀製のナイフとフォークには繊細な植物を模したデザインが施されている。そして飾り気のないと思っていた皿には、金色の流線模様があしらわれ、その上に載る桃の果肉は五つ。まるで五芒星を描くように配置されている。今回は、果実の繊維の一つ一つまではっきりと桃であるとわかる姿をしていた。
正直、これが夢だということを疑ってしまう程のリアリティ。
以前まではどこか曖昧だったのに、全ての事象の輪郭がはっきりとしているのだ。大袈裟なくらいに。
千鉱は、椅子から立ち上がろうとしたが、何かに阻まれて出来なかった。身を捩っても身体が何かに絡め取られて動けない。まるで根が生えてしまったように。
ひやり
動かない身体と格闘していたので、急に口元に感じた冷たさに驚いた。その正体は五つに分けられた欠片の一つ。前の夢よりも柔くて滴る果汁をたたえた桃だった。
何だか『それ』を含んでしまうと危険だと、本能が告げている。唇をきつく結んで、それの侵入に抵抗する。
しかし、どこかから伸びてきた指先が、閉じた唇を開きながら口腔に入って来た。
親指で千鉱の下唇をめくる。バラバラに動く複数の指が歯列をなぞり、舌先を突いたりする。口の端から唾液が幾度も滴り落ち、耳を塞ぎたくなるような水音が鳴り響いた。
「……っあ」
咽喉の奥を指が掠めたせいで、軽く嘔吐く。引き抜かれた指先と唇が透明な線で繋がって、ぷつりと切れた。力なく開いたままになった千鉱の口に、5等分の1がねじ込まれる。
些か千鉱の口の容量より大きかったせいか、何とか噛み切った果肉の端が少しだけ溢れ落ち、テーブルクロスに染みを作った。口一杯に詰め込まれた苦手な味を何とか咀嚼し、嚥下する。胃の中に消えていくはずなのに、まだ味の余韻が残る。
ぴちゃ
次の果実が催促するように、頬に押し当てられる。いい加減、見えない相手に好き勝手されるのに腹が立つ方が、全ての感情を上回った。唯一動かすことが出来る首を動かして、フォークに刺さった果実を頬で払い除けた。柔らかい果肉はその勢いで崩れ落ちていった。
「いい加減にしろ!俺の夢の中で何をしているっ」
姿が見えないが、連日嫌がらせをしてくる「誰か」に向けて怒号した。たかが夢だ。千鉱が発したその音は、無意味に散っていくばかりかと思われたがーー
「……ある程度、仕込みは出来ていたと思ったが、まだ理性が残っているのだな。大したものだ」
予想に反して男の声が返って来た。それ程声量がある訳ではないのに、じっとりと耳の奥深く響くような低い声。声がする方を思わず目を凝らして見つめてみるが、姿は見えない。その代わりに、顔に刻まれた傷をゆっくりと撫でられる。わけがわからない、ただ、千鉱は最早ただ見ている夢ではない事実を認識してしまった。
千鉱の困惑を指先を通じて感じとった声の主は、くっくっと笑いながら、言葉を繋ぐ。
「確かにこれは六平千鉱、お前の夢だ」
傷跡とそうではない箇所の境目をなぞるように、男の人差し指が踊る。そのくすぐったさは、現実のよう。
「夢は、ただの脳が見せる幻影なだけでなく、魂の形に触れる手段でもある」
「……?」
「夢を通して、お前に接触し、その魂を『あり方』を改良していた」
「……意味がわからない。わかるように言え」
ゆっくり頬を撫でていた掌は、するすると千鉱の顎に移動し、ぐっと上向きにさせる。それに対して、何もない虚空を千鉱の真紅の双眸がきっと睨みつけた。
「その昔、桃だけを食べさせられる子供がいた。その肉は、食すと不老長寿になると信じられていたそうだ」
男の親指が、千鉱の下唇に触れる。
「金魚をより美しく、希少価値を上げるには品種改良がつきものだ。少しずつ、その存在が良くなっていくように様々な要素を与えていくーー」
徐々に、自分自身の体温が引いていくのを千鉱は感じている。冷や汗が一筋、背中を流れていく。
「俺はお前に、呪いをかけていた。いつか現実の世界でお前に植え付けた憎しみの種が芽吹いて、花開く瞬間をより楽しむ為に」
「呪いだと?」
「桃の形にしてみたが、俺の玄力の一部だ。これを少しずつ、お前の魂に干渉させていた。俺に従属する、より強く全てを壊してまわる、妖刀の奴隷になったお前を手にする為に」
今、男の姿がはっきりと見えた。
年齢不詳の西洋人形のようだった。
長身に漆黒のスーツ
揺れる長い耳飾り
貌に施された刺青のような不思議な紋様
目を惹くのは、三千世界を見通しているような、感情の読めない瞳。そして、手の甲に刻まれた父の仇と同じ炎のーー
「……お前はまさかっ?!」
言葉の続きは、男が押し付けてきた唇のせいで、霧散してしまった。角度を何度か変えたのち、それは離れていく。たった数秒の出来事だったはずだか、千鉱にとっては永遠に終わらないのではと錯覚させそうな刹那だった。
「後少しで、完全な術になっていたが……その理性と精神では、続きは難しそうだ。残念だが、ここで打ち止めだな」
耳元で、そう囁かれる。耳朶に触れるか触れないかギリギリの境界で、睦言のような響きで。男はもう一度、千鉱の顔に刻まれた傷を撫でながら、「ああそうだ」と呟いた。
「……術の形をあの果実にしたのは、いずれお前を抱くときに、姿が美しいだけでなく、全ての体液が甘味なのも一興かと思ってな」
その言葉を最後に、千鉱は夢から醒めていく感覚を覚える。暗い部屋も、遠くなっていく。
「ーー全ての準備が整ったら、また会おう。そのときに咲かせた絶望の色を楽しみにしている」
まだ夜が明けきらない、深夜3:00ちょうど。
はっと目覚めた千鉱は、枕元に置いた携帯電話の表示を確認する。入眠してから意外にも時が経っていない。あのまま、夢の中での行為が続いていたとしたら、自分はどうなっていたのだろう。たらればの話を頭の中で巡らせるが、答えを見出すことにそれ程価値はないだろう。
ベッドの横に立てかけた相棒である妖刀、淵天を軽く撫でる。側にあるだけで、心が僅かに落ち着く。今日もきっと忙しない日になるだろうから、少しでも身体を休めるべく横になった。欠伸が溢れた反動で、涙が一粒出てきた。好奇心で指先で掬い上げ、舐めとってみる。
「……よかった、甘くない」
次に目覚めたときに、夢の出来事は何故か思い出せなくなることは、千鉱はまだ知らなかった。
「おはよう、チヒロ君」
「おはよございます、柴さん」
拠点にて、柴と生活を共にするようになってからも、自然と食事を準備するのは千鉱の仕事になっていた。家事関連、特に料理をすることは日々の思考をクリアにすることに繋がっているようで、副次的な効果を自身に与えていた。
背後から、人の体温と爽やかなオレンジの整髪料の香りがする。自分の保護者代わりの柴が腹を空かせたのが、子供のようにひっついてきた。
「……火をつかっているので、危ないです」
「わかってるんやけど、空腹やもん……朝ご飯なにぃ?」
ときどき、父と同年代の年上とは思えないような振る舞いをする。まぁ、父もお世話しないといけない性質の人だったから、特に気にならないし、可愛らしいなと思う程度である。
「今日は、ご飯に大根と人参の味噌汁、法蓮草の胡麻和えと昨日の余りの白菜と豚肉の煮物に……柴さんが好きなだし巻き玉子ですよ。そう言えば、さっき割った玉子は卵黄が2つの双子でした。」
「――本当に、チヒロ君。君って子は……柴さん、本気で嫁に来てほしいわ」
また、冗談を言っている。この人は。若干呆れつつ、危ないからそろそろ背後を空けて欲しいなと思っていると、柴が千鉱の旋毛あたりに鼻を寄せた。
「なぁ、今日のチヒロ君、めっちゃ甘い香りするわ。桃みたいな」
何故か1番聞きたくない台詞だった。
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