〜プロローグ〜
夜半を半刻ほど過ぎた頃、俺はとあるビルの前に居た。
冷たい夜風が、ジャケットの裾をかすかに揺らしている。
それを肌で感じながら、ビルの足元から屋上までを隙間なく眺めた。周囲の建物たちはきらびやかなネオンサインを放ち、まるで白昼かのような賑わいを見せているのに対し、それは妙に落ち着き払っている。照明の光はもちろんのこと、物音一つ聞こえない。それに加えて外壁のあちらこちらにはヒビが走っており、お世辞にも魅力的とは言えない外観だった。にもかかわらず、それはどこか荘厳で近寄りがたいものを感じさせた。
ただ、そんなこともお構い無しに、俺はそのエントランスに一切の躊躇なく足を踏み入れた。以前の自分であれば怖気づいていたのだろうか。そんな思考を巡らせながら歩を進め、見えてきたのは二つの人影だった。そのどちらかが、おもむろに口を開く。
「来てくれたんだ。待ってたよ。」
俺はスーツの左内ポケットから一つの手帳を取り出し、それを投げ捨てながら答えた。
「あぁ。…それじゃ、行こうか。」
手帳がフローリングにぶつかる無機質な音が、この異様な空間に響き渡っていく。それに呼応するように、もう一方の男が口を開いた。その声は、すっかり生気が抜けた機械的なもの。何の温度も残っていなかった。…いや、残っているはずがない、と言う方が正しいのかもしれない。
その男は、柔らかく、そして薄気味悪い微笑を浮かべていた。
「…まぁ、もう戻る場所なんてないからね。」
コメント
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うごご、スーツじゃあないですか…!⤴⤴何をするのか気になります…!!続きが楽しみ♪