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ねこむすび
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お疲れさま!第21話、イベント前の準備の空気感がめちゃくちゃ細かく描かれてて、車好きにはたまらん回だったわ。係員の丁寧なアテンドとか、車検の流れとか、パドックの賑わいとか、全部が映像で見えてくるみたい。赤城さんと大輝の初対面シーン、カメラ止めさせて腰低く挨拶してきたのが意外でよかった。菅原の「黙っておれ」も相変わらずで笑った。午後の追走、心の目で見るしかないのか…(笑)
係員はクリップボードを胸の前に抱えたまま、開いた窓の高さまで少し腰をかがめた。反射ベストの肩に、細かな水滴がいくつも残っている。
「おはようございます。参加の方ですか」
「はい。庄司です」
係員はクリップボードの紙へ目を落とし、ボールペンの先で名簿を上から順になぞっていった。途中でペン先が止まり、名前の横に小さくチェックが入る。
「庄司大輝さん、エボの」
「そうっす」
「受付と車検、9時までにお願いします。受付は管理棟の窓口で、車検は今日、その手前のテントでやってます。車はパドックの右側、参加者の枠に。中に誘導がいるんで、そっちの指示に従ってください」
係員は窓の隙間から、ラミネートされた札を差し入れた。黒森ステージのロゴの下に、太い字で「参加車両」と印字されている。
「ダッシュの上の、外から見えるとこに置いといてください」
「了解っす」
大輝は札をダッシュボードの助手席側へ立てかけた。陽斗が指先で角を押さえ、フロントガラスの方へ少しずらす。係員はもう次の車の方へ顔を向けていて、後ろのワンボックスへ手を上げていた。
ゲートを抜けると、管理区画へ下っていく短い坂の両脇で、普段は見かけない作業がいくつも同時に動いていた。
坂の途中では、2トンのトラックの荷台から、折り畳んだ金属の柵が1枚ずつ下ろされている。荷台の上の人が柵の端を持ち上げ、下で受けた人がそれを路肩へ立てかけるたびに、金属同士の擦れる乾いた音がした。坂を下りきった先、いつもなら白線しかないパドックの手前側には、カラーコーンが等間隔に並び、その間を黄色と黒のロープが繋いでいる。ロープはまだ地面から浮かず、ところどころで濡れたアスファルトに垂れていた。
「ロープ張ってる」
陽斗が助手席の窓から外を見て言った。
「客、こっから先には入れねえんだろ」
「お前らの車、間近で見れねえじゃん」
「見たいやつは公開パドックの方行くんじゃねぇかな。知らんけど」
大輝は速度を歩くより少し速いくらいまで落とし、管理棟の前を左手に見ながら進んだ。
管理棟の手前に、白い大きなテントが2張り並んでいる。片方の下には何も置かれておらず、もう片方では、反射ベストの係員が長机の上にバインダーを並べていた。その脇に、テープで仕切られた車1台分の枠が引いてある。車検のテントらしい。
さらに奥では、積載車の荷台が斜めに傾けられていた。荷台の先端からワイヤーが伸び、白いクーペがゆっくりと地面へ下ろされていく。ウインチの唸る低い音に混じって、どこかでエアインパクトが短く鳴った。その向こう、ショップのステッカーを貼ったハイエースのスライドドアが開け放され、中から引き出されたタイヤが4本、地面に寝かされている。
黒いワンボックスの横腹に、DRIFT Societyのロゴが入っていた。スライドドアの脇で、三脚を2本まとめて担いだ人が、ケースを抱えたもう1人と何か話している。2人とも、こちらへは目を向けなかった。
パドックの右側へ入ると、蛍光の誘導棒を持った係員が、空いている枠の1つを棒の先で示した。大輝は頷き、エボXの鼻先をゆっくり枠へ入れる。ブレーキを踏んだまま、パーキングブレーキのレバーを引き、シフトレバーをPへ入れた。
助手席側の3連メーターでは、水温も油温も落ち着いたところで止まっている。大輝はしばらくアイドリングのまま回し、ターボの熱が少し抜けるのを待ってから、イグニッションを戻した。エンジンが止まると、外の音が一度に近くなった。
どこかで杭を打つハンマーの音がして、その合間に、誰かが誰かを呼ぶ声と、タイヤを転がすゴムの擦れる音が混じっていた。
「あれ、啓司じゃね」
陽斗がフロントガラス越しに顎をしゃくった。
2つ隣の枠に、黒いGRBが止まっていた。オブシディアンブラック・パールの5ドアで、曇り空の鈍い光の下でも、ボンネットの面にだけ細かなパールの粒が浮いている。前後のフェンダーは外へ張り出しているのに、リアのオーバーハングは短く切り詰められていて、ルーフの後端には純正のスポイラーが載っていた。ダークシルバーの18インチのスポークの奥に赤いブレンボのキャリパーが覗き、ホイールナットも同じ赤で揃えてある。フロントバンパーの下からは、赤い牽引ストラップが垂れていた。バンパーの表面には飛び石の小さな欠けがいくつか残っているが、塗装には水垢ひとつ浮いていない。
GRBの横では、簡易テントの脚が半分だけ伸びていた。テントの天幕の下には、折り畳みのテーブルが畳まれたまま立てかけられ、工具箱と、ビニールに包まれたタイヤが4本、その足元に置かれていた。
テントの脚の1本を両手で支えながら、菅原が別の部員へ何か言っていた。黒に近い髪を額の上で軽く払い、背筋を伸ばしたまま、テントの反対側を指さしている。
「重りは風上の脚から付けてくれ。天幕を張るのはその後でよい」
言われた部員が、砂を詰めた重りを抱えて反対側の脚へ回った。
大輝は開けたままの窓から声を投げた。
「来てんじゃん」
菅原がこちらを振り向いた。支えていた脚から片手を離し、エボXのボンネットから運転席の大輝へ、ゆっくり視線を移す。
「来ておる」
「矢文来てねえから、来ねえのかと思った」
「矢文は送らぬ。LINEを使う」
「矢文と書いてLINEって読んでくれよ」
「部の連絡で手一杯であった。朝から部のグループの通知が鳴りやまぬ」
大輝はドアを開けて降りた。湿った空気が、さっきより少し冷たく顔に当たる。助手席側のドアが閉まる音がして、陽斗も車の後ろを回ってきた。
菅原は陽斗の方へ顔を向け、わずかに眉を上げた。
「千葉殿も参ったのか」
「伊達武将隊しか聞かないんよ、その言い方」
大輝が先に返した。
「あのラジオね」
陽斗が笑いながら、パーカーのポケットに両手を入れた。
「あのラジオは某も必ず耳にしておる。伊達政宗公と片倉小十郎景綱殿のありがたい話も聞ける」
「あのさ。尊敬の念は分かるんだけど、どっちも本物じゃねえからね」
菅原は答えず、テントの脚を支え直した。脚の内側に通された留め具が、カチリと音を立てて1段上で止まる。
テントの奥、畳んだテーブルの陰から、段ボール箱を抱えた琴葉が出てきた。髪を後ろで1つに結び、首にタオルを掛けている。段ボールの上には、クリップボードとペンが載っていた。
「あ、来た」
琴葉は段ボールを抱えたまま、顎で大輝たちを指した。
「おはよ」
「おはよ。陽斗くんも」
「うす。何か手伝う?」
陽斗が言うと、琴葉は段ボールをテーブルの脇へ下ろし、腰に手を当ててテントの下を見回した。
「そうだね〜。啓司に手伝わせると、何かと手間が増えるのよね。何故か」
「某は決して不器用な人間ではない」
「この口調で器用アピールされても誰も響かんよ。むしろ不器用でいてくれ」
琴葉が吹き出した。重りを付けていた部員まで、しゃがんだまま肩を揺らしている。菅原は顎を引き、何か言いかけたが、そのままテントの脚を最後の段まで伸ばした。
「じゃあ陽斗くん、そのテーブル開いて、ここに置いてくれる? 脚、片っぽ固いから気をつけて」
「了解」
陽斗は立てかけてあった折り畳みテーブルを寝かせ、脚の留め具を指で押し込んだ。1本目はすぐに開いたが、2本目は途中で引っかかり、陽斗が膝で天板を押さえながら脚を引き起こす。琴葉はその横で段ボールの蓋を開け、中の結束バンドや養生テープを数えながら、クリップボードの紙に印を付けていった。
「時に大輝」
菅原が天幕のロープを手に取りながら言った。
「赤城殿の今朝の投稿、見たか」
「陽斗が見てたね」
「その返信に、そなたの愛機をATと呼ぶ者がまだおったな」
「自動変速機な」
「そなたの変速機はDCTである。某は分かっておる」
「うん。分かってくれるのはありがたいんだけど、すゑひろがりずみたいにブレずに和で攻めてくんねえかな」
「啓司、それ朝からグループに貼って、『浅学なり』って書いてたよ」
琴葉がクリップボードから顔を上げずに言った。
「部員の見識を養うための共有である」
「養われてる人、みんな既読スルーだったけど」
「黙っておれ」
陽斗がテーブルを立て、天板を軽く叩いて揺れないのを確かめてから笑った。
「中学ん時からそれ言ってるよな、黙っておれって」
「千葉殿は相変わらず記憶力がよすぎる」
大輝はポケットからスマートフォンを出した。画面の時計は8時34分だった。
「受付行ってくるわ。車検もあるし」
「おー」
陽斗はテーブルの脚の具合をもう一度確かめながら、片手だけ上げた。
「午後の追走、某もここから見物させてもらう」
菅原がロープの端を杭へ結びながら言った。
「ここから見えなくね?」
「心の目で見る」
「頼むから配信で見てくれよ」
背中で琴葉の笑い声を聞きながら、大輝は管理棟の方へ歩き出した。
パドックの中を通る間にも、車が1台、また1台と動いていた。ゆっくりと枠に入っていく車の後ろで、係員が誘導棒を左右に振っている。濡れた路面の、植え込みの際だけが黒く残っていて、その上をタイヤが通るたびに、ほんのかすかに水を押す音がした。
管理棟の窓口の前には、4、5人が並んでいた。前の男は、ショップの名前が胸に入ったポロシャツを着ていて、片手に書類の束を持ったまま、もう片方の手でスマートフォンを耳に当てていた。
『だから、テントの重りは2個じゃ足んないって。4つ。そう、4つ』
電話の向こうの声は聞こえない。男は通話を切ると、窓口に書類を差し出し、係の人と短く言葉を交わして列を離れていった。
大輝の番が来た。
「庄司です。参加で」
「はい、庄司さん。JAFの会員証、見せてもらえますか」
スマートフォンでアプリの会員証を開き、窓口の向こうへ向ける。係の人は画面と手元の名簿を見比べ、頷いた。
「ありがとうございます。じゃあ、今日の誓約書にサインだけお願いします。それと、これ、参加者用のリストバンドと、走行許可票。計時器は確認走行の前に出しますんで、時間になったらまたこちらに」
紙にボールペンで名前を書き、日付の欄に7月4日と入れる。差し出されたリストバンドを左手首に巻くと、薄いプラスチックの留め具が、手首の内側で小さく鳴った。
「車検、テントの方で順番に呼びますんで。並んでもらえれば大丈夫です」
「了解っす」
窓口を離れ、管理棟の角を回ると、さっきの白いテントの下に、赤いエボIXが尻をこちらへ向けて入っていた。
最初に目に入ったのは、トランクの上に2本の支柱で持ち上げられた大型のリアウイングだった。黒い翼の両端の板にはC-WESTのロゴが入っていて、テントの天幕のすぐ下まで届きそうになっている。
大輝はテープの枠の外を、車の右後ろへ回り込むように歩いた。リアドアの窓の後ろの隅に、HKSのステッカーが1枚貼ってある。サイドステップの下端からは、カーボンのサイドウイングレットが前から後ろまで薄く張り出していて、車体全体が地面へ低く張り付いて見えた。足元はブロンズの細いスポークの18インチで、スポークの隙間から赤いキャリパーが覗いている。タイヤのサイドウォールには、ADVAN APEXの文字が白く浮いていた。フロントドアの前寄りには、ADVAN、Project μ、RAYS、BRIDE、OGURA CLUTCHのステッカーが縦に並んでいる。
運転席のドアが開いていて、係員の1人が車内のシートベルトの付け根を手で引いていた。車内には青く塗られたロールケージが張り巡らされていて、ドアの開口のすぐ内側を、パイプが斜めに横切っている。ダッシュボードの上には、メーターが4つ横一列に並んでいた。運転席は黒いRECAROのフルバケットで、背もたれに赤い糸でロゴが縫い取られている。肩と腰からはハーネスのベルトが座面に垂れていた。センターコンソールからは、丸いノブの付いたシフトレバーが真っ直ぐに立っている。もう1人の係員は前輪の脇にしゃがみ込み、懐中電灯でホイールの内側を照らしていた。
車の脇に、高い位置で髪を結んだ女性が立っていた。赤みを含んだ茶色の髪の束が、首を傾けるたびに揺れる。片手にスマートフォンを持ち、係員に何か訊かれると、ボンネットの方を指さして短く答えていた。少し離れたところで、カメラを構えた人が、テントの外から赤いエボIXの後ろ姿を撮っている。
赤城夏帆だった。
係員がしゃがんでいた前輪の脇から立ち上がり、クリップボードに何か書き込み始めた。赤城の手元のスマートフォンが下がる。
大輝はテープの枠の外で足を止め、係員の邪魔にならない位置から声をかけた。
「おはようございます。赤城さんっすよね」
赤城が振り向いた。濃いブラウンの目が、大輝の顔から左手首のリストバンドへ下り、また顔へ戻ってくる。
「そうですけど」
「庄司です。今日の午後、一緒に走らせてもらう」
赤城の手の中で、スマートフォンの画面が消えた。
「あ、庄司さん」
口元だけが笑う形になった。
「羽のない……あ、エボXの」
「そうっす。今日はよろしくお願いします」
大輝が頭を下げると、赤城は結んだ髪が肩から前へ落ちるほど、深く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
テントの外でカメラを構えていた人が、レンズをこちらへ振りかけた。赤城がそちらへ顔を向けて小さく首を振ると、その人はカメラを下ろし、レンズにキャップをはめた。
「あの、車検、まだですか」
「これからっす。受付だけ先に済ませてきたんで」
「そうですか。じゃあ、また、ブリーフィングで」
赤城はそれだけ言うと、自分から係員の方へ向き直った。係員はまだ、クリップボードに書き込んでいる途中だった。大輝はテントを離れ、パドックの奥へ歩き出した。
自動車部のテントに戻ると、もう天幕が張られていた。陽斗がテーブルの上に段ボールを2つ並べ、琴葉がその中身を出して並べている。菅原はGRBの横で、別の部員と一緒にタイヤの空気圧を見ているところだった。
「受付終わった?」
陽斗が顔を上げた。
「終わった。ついでに赤城さんに挨拶してきた」
「マジか」
陽斗が車検のテントの方へ首を伸ばした。琴葉も段ボールから手を止めて、同じ方を見る。
「どうだった?」
「なんか、めっちゃ丁寧だった。カメラも止めさせてたし」
「はえー。結構しっかりしてる人なんだな」
「やっぱりカメラ前とプライベートで顔違うんじゃない? 腰も低かったし」
「そうなんだ。芸人さんとかだとそういうパターンよくあるよね」
琴葉が段ボールの中身へ目を戻しながら言った。GRBの横で、菅原がエアゲージをタイヤのバルブから外し、顔だけこちらへ向けた。
「先に礼を尽くしに参ったか。殊勝である」
「お前に褒められても嬉しくねえんだよな」
「何ゆえか」
大輝は答えずに、ポケットからエボXの鍵を出した。
「車検並んでくるわ」
「おー。いってらー」
陽斗はそれだけ言って、また段ボールの方へ向き直った。大輝はエボXの運転席のドアを開けた。