テラーノベル
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ねこむすび
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エボXの運転席に座り、エンジンをかける。ブレーキを踏んだままシフトレバーをDへ入れ、パーキングブレーキのボタンを押し込んでレバーを下ろした。誘導の係員の合図を待ってから、車検のテントの方へゆっくり走らせる。テントの手前では、赤いエボIXがちょうど検査を終えてテープの枠を出ていくところだった。大輝はテントの外の待機線で止まる。
赤いエボIXは、鼻先をこちらへ向けて徐行で近づいてきた。C-WESTのフロントバンパーは純正より大きく口を開けていて、その奥にインタークーラーのコアが覗いている。下端からはカーボンのリップが前へ突き出し、両脇の角には小さな羽のようなカナードが付いていた。ボンネットは塗装されておらず、カーボンの織り目がそのまま黒く光っている。中ほどには、熱を抜く小さなダクトが開いていた。鼻先を軽くした分、前を路面へ押さえつける物を付け足した形だった。
IXはそのまま、大輝のエボXの横をすれ違っていった。運転席の窓は閉まっていて、ガラス越しに、前を見たままの横顔が見えた。続いて過ぎていった後ろの窓の向こうには、ロールケージのパイプが見えるだけで、後席の背もたれはなかった。
寮のシミュレーターで組んだ2つのエボIXが、頭の中で少しずつ書き換わっていく。後ろの席を外した分は、ケージのパイプでいくらか戻っているはずで、全体の重さが資料の数字からどれだけ動いたかは、外から見ただけでは分からない。ただ、ボンネットの分だけ、前は軽くなっている。そうなれば、動画のように前輪へ全部預ける乗り方でも、もう少し粘られるかもしれない。IXの性能を素直に使ってくるなら、高い速度域ではウイングの分だけ後ろが落ち着く。
それでも、どちらで来られても、エボXでやることは変わらなかった。エボIXは、乾いた北コースでも雨の北コースでも、自分の手で走らせてある。
テントの脇では、ショップのポロシャツを着た男が2人、さっきまで赤いエボIXの検査を眺めていた。1人が隣の男の肩を指先で叩き、こちらへ顎を向ける。
「あれじゃね、例のエボX」
「羽ねえのな」
係員がクリップボードに書き込みを終え、大輝に手招きした。
エボXをテープの枠の中へ入れ、パーキングブレーキを引いてPへ入れる。エンジンは切るように言われた。
「おはようございます。じゃ、ボンネットとトランク開けてもらっていいですか」
「はい」
大輝はボンネットのオープナーを引き、車を降りてボンネットを持ち上げた。ステーを立てる間に、係員の1人が懐中電灯を持ってエンジンルームを覗き込む。もう1人はクリップボードを手に、前輪の前にしゃがんだ。
しゃがんだ係員は、V107のサイドウォールに顔を近づけ、刻印を指でなぞった。サイズとTREADWEARの数字を読み上げ、手元の用紙へ書き込む。それから掌でトレッドを撫で、溝に目を走らせた。
「タイヤ、新しいですね」
「一昨日、慣らしました」
係員は頷き、ホイールナットへ順にレンチを当てていった。レンチの先がナットに噛むたびに、カチ、と短い音が鳴る。5つ鳴ったところで、次のタイヤへ移った。
エンジンルームを見ていた係員は、懐中電灯の光を、オイルフィラーキャップの周りから、ラジエーターのホースの継ぎ目へ移していく。最後に地面へ膝をつき、フロントの下を覗き込んだ。光がSSTのあたりで少し止まり、それからリアの方へ移っていく。
「下、オイル滲みとかないです。いいですね」
大輝は短く頷いた。
トランクを開けると、ヘルメットバッグとダッフルが、さっき積んだまま並んでいた。左の側壁には、Rockford Fosgateのサブウーファーが収まっている。
テントの外で、さっきの2人が首を伸ばしていた。
「後ろの席、普通に付いてんじゃん」
「ウーハーまで載ってるし。これで赤城とやんの?」
「赤城のやつ、ケージ入ってて後ろ取っ払ってたぞ。ボンネットもカーボンだったし」
「だよな」
大輝は2人の方へは目を向けず、係員の手元を見ていた。
「これ、走る時は降ろします?」
「降ろします」
「了解です。バッテリーとウォッシャーのとこ、中見ますね」
トランクの奥の壁は、黒い内張りで覆われている。係員はその右側、バッテリーのマークが入った蓋の縁に指を掛けて外した。奥に収まったバッテリーを手で押さえ、固定の金具が動かないのを確かめる。
「これ、いじってないですよね」
「純正っす。固定の位置も変わってないっす」
係員は頷いて蓋をはめ戻し、今度は左側の、ウォッシャーのマークが入った蓋を外した。開いた口の奥に、樹脂のタンクの上の方とキャップが覗いている。係員は懐中電灯を差し入れ、キャップの周りとホースの継ぎ目を照らした。濡れた跡がないのを見てから、蓋を戻した。
「ヘルメットとかの装備、ちょっと見せてもらっていいですか」
ヘルメットバッグのファスナーを開けると、係員はStiloのオープンフェイスを両手で取り出し、内側のラベルを確かめた。それからダッフルの口を少し開いてもらい、OMPのスーツの襟元に縫い付けられたタグと、FHRのストラップを見た。
「はい、大丈夫です。じゃ、牽引のとこ見ますね」
係員はフロントバンパーの前にしゃがみ、純正の牽引フックの位置から垂れた赤いストラップを指で引いた。根元が緩みなく留まっているのを確かめ、手を離す。それからリアへ回り、右のマフラーの内側、同じく純正の位置から垂れた赤いストラップも、引いては戻した。
「最後に音量測ります」
もう1人の係員が、左のマフラーの出口から斜め後ろへ50センチほど離れた位置に、小さな三脚を立てた。騒音計の先を、出口と同じ高さに合わせる。
「エンジンかけて、Nに入れてもらっていいですか。4900回転で止めといて、こっちが手を下ろしたら、パッと離してください。片側2回ずつやります」
大輝は運転席へ戻り、エンジンをかけた。ブレーキを踏んだまま、シフトレバーをPからNへ動かす。パーキングブレーキのレバーは引いたままにしてある。
ドアを開けたまま、アクセルを踏み込んでいく。タコメーターの針が4900の目盛りに乗ったところで、右足を止めた。HKSの太い音がテントの幕に当たって、跳ね返ってくる。数秒そのまま保ったところで、係員が挙げていた片手を振り下ろした。大輝はアクセルから足を一気に抜いた。回転が落ちていく間、係員は騒音計の表示から目を離さなかった。
針がアイドリングの位置で落ち着くと、係員はもう一度片手を挙げた。2回目も4900で保ち、合図で足を抜く。
係員は三脚を右の出口の後ろへ移し、同じことを2回繰り返した。用紙に数字が4つ並んだ。
「左右とも98の下です。Pに戻して、エンジン切ってもらって大丈夫です」
大輝はシフトレバーをPへ戻してエンジンを切り、車を降りた。
クリップボードの用紙にいくつか丸が付き、係員の1人が、小さな四角いステッカーを持ってフロントガラスの方へ回った。助手席側の下の隅に、ステッカーが貼られる。
「車検、OKです。9時から管理棟の前でブリーフィングなんで、参加者は集まってください」
「ありがとうございます」
ボンネットとトランクを閉め、エボXをテントから出す。自動車部のテントの並びの枠へ戻ったところで、管理棟の方からハンドマイク越しの声が聞こえてきた。
『参加ドライバー、関係者の方は、管理棟前にお集まりください。ブリーフィングを始めます』
陽斗はテーブルの脇でパイプ椅子を開いていた。
「行ってくる」
「おー。俺はこっちいるわ」
陽斗は開いたパイプ椅子を1脚ずつテーブルの周りへ並べ、そのうちの1つに腰を下ろした。琴葉がクリップボードを菅原に差し出し、菅原がそれを受け取って、大輝と同じ方向へ歩き出す。
管理棟の前には、もう20人以上が集まっていた。ポロシャツの男たち、ツナギの上半分を腰に巻いた人、自動車部の名前の入ったTシャツを着た学生。輪の前に、伊藤と阿部が立っていた。伊藤はハンドマイクを持ち、もう片方の腕にタブレットを抱えている。阿部はその横で腕を組んでいた。
輪の少し外れたところに、赤城がいた。隣にさっきカメラを構えていた人がいて、今はカメラを下ろし、肩から下げている。
「おはようございます。黒森の伊藤です。今日はよろしくお願いします」
伊藤がハンドマイクで言った。声が管理棟の壁に当たって、少し遅れて返ってくる。
「まず、コースの状況です。朝イチでオフィシャルが全線回ってきました。日向は乾いてきてるんですけど、四段つづらの上の方と、北斜面の林の中、それと黒森複合の木の下は、まだ湿ってます。昼までには変わってくと思うけど、デモ走行の間もこっちで随時見ていくんで、変わったらその都度無線で流します。走る前に、自分の目でも見てください」
大輝は輪の後ろの方から、伊藤の口元の辺りを見ていた。
「旗とシグナルは普段通りです。ただ、今日はお客さんがいるんで、黄旗の区間で速度を落とさなかったら、その場で走行終了にします。何かあって止まったら、車から出てガードレールの外へ。車を自分で押して動かさないで、オフィシャルが行くまで待っててください」
伊藤がタブレットの画面を親指で送った。
「パドックの中は、今日は人が歩いてます。9時半からお客さんも入るんで、歩くより速くは走らせないでください。それと、ロープの向こうは観客区域です。車を寄せたり、荷物を置いたりしないように。一般の連絡は以上です。続けて、デモ走行の順番」
伊藤がタブレットを見ながら、デモ走行の順番と、それぞれの集合時刻を読み上げていった。ショップの名前、自動車部、招待車両。菅原が手元の紙に何か書き込み、隣の部員へ見せている。
「最後に、14時の追走の2人、庄司くんと赤城さんだけ、ちょっと残ってください。他の方は解散で。お疲れさまです」
輪がほどけ、人がそれぞれの方向へ歩き出す。ポロシャツの男たちが、さっきの順番を確かめ合う声が背中の方へ遠ざかっていった。
伊藤の前に、大輝と赤城が並ぶ形になった。阿部も組んでいた腕を解き、伊藤の隣へ寄ってくる。
赤城はこちらを見ると、さっきと同じように深めに頭を下げた。大輝も頭を下げる。赤城はすぐに伊藤の方へ顔を戻した。
「前に話した通りです」
伊藤はハンドマイクを下ろし、普段の声で言った。
「接触したら、その場で終わり。追い越しは決めてある区間だけ。1本目は庄司くんが前、2本目は入れ替え。1本目が終わったら管理区画に戻して、車を見てから2本目。ここまでで質問ある?」
「ないです」
赤城が先に言った。
「ないっす」
「それと、この前お願いした一筆。ここにサインもらえる?」
伊藤がタブレットの画面を2人の方へ向けた。画面には文面が表示されていて、その下に署名の欄が2つ並んでいる。赤城は付属のペンを受け取ると、文面を指で1行ずつ送りながら、最後まで読んでいった。それから自分の欄に名前を書いた。ペンが大輝へ回ってくる。
大輝は文面に一度目を通した。学校で阿部から聞いた通りのことが、聞いた通りの順番で書いてある。自分の欄に名前を書き、ペンを伊藤へ返した。
「ありがと。2人とも、確認走行は11時10分から。それまでに準備しといてね」
「はい。よろしくお願いします」
赤城はそう言って、肩からカメラを下げた人の方へ歩いていった。2人で何か話しながら、DRIFT Societyのワンボックスの方へ遠ざかっていく。高い位置で結んだ髪が、歩くたびに背中で揺れていた。
「お前もなんかあったら、今のうちに言っとけよ」
阿部が大輝を見た。
「今んとこ、ないっす」
「そうか」
阿部は短く頷き、管理棟の中へ入っていった。伊藤もタブレットを抱え直し、その後に続いた。
管理棟の向こう側、坂の上の一般観覧ゲートの方から、ざわめきが流れてきた。
大輝が管理棟の角まで歩いていくと、坂の上のゲートの前に、人の列ができていた。朝に通った参加者用のゲートとは別の、柵で仕切られた入口だった。反射ベストの係員が3人並び、先頭の人から順に、スマートフォンの画面を確かめては、手首にリストバンドを巻いていく。
巻き終えた人から、1人、2人と坂を下りてきた。リュックを背負った2人組の男。首からカメラを提げた、50代くらいの夫婦。父親の肩に乗った小さな男の子が、パドックに並んだ車の方を指さして、何か大きな声で言っている。
さっき張られていたロープの向こう側に、少しずつ人が溜まり始めていた。係員が誘導棒で展示区域の方を示し、坂を下りてきた人たちを、そちらへ流していく。どこかのショップのテントから、音楽が鳴り始めた。
大輝はしばらくその様子を眺めてから、人の流れを横切って、自動車部のテントの方へ歩いた。
テントの下では、陽斗がパイプ椅子に座ったまま、琴葉から渡されたらしい缶コーヒーを開けていた。大輝に気づくと、もう1本をテーブルの上から取って、こちらへ掲げて見せた。
コメント
1件
うわあ、第21話めっちゃ良かった…!車検の手続きがこんなに細かく描かれてるの、逆に新鮮でグッときた。エボXの整備士さんとのやり取りがめちゃリアルで、大輝くんの落ち着いた対応がカッコよかった。赤城くんとの差がはっきり出てるし、あの一筆のサインのシーン、二人が同じ書類に書くってだけで緊張感が走ったわ。次、ついに追走走行か…マジで楽しみすぎる🔥