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その夜、舜太がいつものように店の扉を開けると、カウンターの中には見慣れない男が立っていた。
普段この時間帯は、柔太朗が一人で店を任されているはずだった。理由は分からなかったが、こうして深夜の柔太朗の隣に別の人間が立っているのを見るのは、初めてのことだった。
その男は柔太朗よりも上背があり、引き締まった体つきに、クラシカルなバーテンダーの装いがよく似合っている。くっきりとした二重の華やかな顔立ちが、こちらを見て人懐っこく笑った。
「あ、噂の彼氏くん?」
「勇ちゃん」
柔太朗が咎めるような声を上げたが、その口調はどこか気安く、普段の澄ました調子とは違っていた。舜太はその変化に、少しだけ意外なものを見る思いがした。
「勇斗っていいます。ここのリーダー的なポジション、みたいな感じ? まぁ、柔太朗の先輩です」
「舜太です。先輩、なんですね」
「そうそう。こいつがまだひよっこの頃から知ってるからさ」
からかうように肩をつつかれ、柔太朗は小さく溜め息をついた。だが本気で嫌がっている様子はなく、二人の間には、長年培われた気安さがそのまま滲み出ている。舜太はカウンター越しにその光景を眺めながら、いつものように笑顔を浮かべていた。
「柔太朗、指輪なんてつけて。掟は分かってるよな?」
勇斗が柔太朗の左手を軽く持ち上げ、揶揄うように尋ねた。声は明るいが、その一言には、単なる冗談以上の重みも、わずかに滲んでいる。
「分かってますよ。無闇に吸ったりしないし、バレるようなへマもしません」
「まぁ、お前がそう言うなら、いいけどさ」
勇斗はあっさりと引き下がり、それ以上深追いはしなかった。柔太朗の様子から、本気で心配しているわけではなく、あくまで一言添えておくだけ、という程度の軽さが伝わってくる。
「にしても、お前がこんな真剣になるの、珍しいな。いつも余裕ぶってるくせに」
「うるさいですよ」
「照れんなって。まぁ、いいんじゃない。楽しそうで」
勇斗はそう言って、豪快に笑った。素直に相手の幸福を喜べる質らしい。柔太朗が言葉少なに視線を逸らす様子は、舜太がこれまで見たことのない、年下らしいあどけなさを含んでいた。
舜太はその一連のやり取りを、笑顔のまま見つめていた。
──だが、内心では、思いのほか複雑な感情が渦巻いていた。
自分がどれほど言葉を重ね、どれほど時間をかけて崩してきた柔太朗の余裕を、この勇斗という男は、ほんの数分の軽口だけで、いとも簡単に崩している。長年の付き合いという事実が、そこには揺るぎなく横たわっていた。舜太がどれだけ踏み込んでも届かない場所に、既にこの男はいる。
──なんや、これ。
自分でも意外なほど、胸の奥がざらついた。だがそれを表に出すつもりは、舜太にはなかった。
いい歳した大人の処世術で、動揺を綺麗に笑顔の下に隠すことなんてたやすい。
「勇斗さん、柔太朗さんのこと詳しいんですね。俺なんかより、よっぽど」
言葉には、いつもと変わらない、人懐っこい響きを乗せた。だが、その裏にある小さな棘は、当人にしか分からない。
「そりゃ、付き合い長いからね。まぁでも、今のこいつは、俺の知ってる柔太朗と、ちょっと違うけどな」
「そうなんですか?」
「うん。前はもっと、誰に対しても一歩引いてる感じだったから。舜太くんの前だと、なんか、こう、素っぽいっていうか」
その言葉に、舜太は少しだけ救われる思いがした。長年の付き合いという事実には敵わなくても、今、目の前にいる柔太朗の一番柔らかい部分に触れられているのは、自分だけなのかもしれない。そう思うと、先ほどまでの棘の感触が、少しだけ和らいだ。
「まぁ、俺はそろそろ退散するかな。お邪魔虫は長居しないもんだし」
勇斗は快活にそう言って、片手を上げながら店を後にした。残された店内には、柔太朗と舜太、二人分の静けさだけが漂っている。
「勇ちゃん、うるさかったでしょ」
「いや、面白い人やなって思いました。柔太朗さんのこと、大事にしてるんやなって、よう分かったし」
「そうだね。掟のことは煩いけど、悪い人じゃないよ」
柔太朗は穏やかにそう言って、いつものようにグラスを磨き始めた。
その横顔を見つめながら、舜太は先ほど覚えた小さな嫉妬を、静かに胸の奥へとしまい込んだ。
──いつか、この人の中で、俺が一番になれたらええな。
そんな柄にもない願いを抱いていることに、舜太自身、まだ気づいていなかった。
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