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その日、夜見森グループ本社ビルは何時もより少し騒がしかった。
その理由はエントランスの真ん中に堂々と置かれたモノにあった。
「みなさんは落ち着いて避難してください。後の処理は警察にお任せします」
自動ドアの前に黒塗りの車が停まり、ドアが開くのとほぼ同時、騒然としたエントランスにあやめの声が響く。社員からの知らせを受けたあやめと鳴華が到着したのだった。
「鳴華はシャッターを閉めてください。野次馬が増えても困ります」
鳴華にそう云い置き、あやめはエントランス中央へ向かう。そこにあったのは芸術的な装飾を施された社員の遺体だった。
「あやめ、これって……?」
シャッターを閉めた鳴華があやめに歩み寄り、問いかける。
「ええ…恐らく、鳴華の予想通りです」
そう云ってあやめが遺体から取り上げたのは一枚の紙だった。
親愛なる夜見森グループ社員諸君、君たちの抱える秘密はばっちりゲットさせてもらったよ!バラされたら困るかな?困るよねぇ? なら、この贈り物が確認できたその日のうちに渋谷にある「サファイア」ってバーにおいで もちろん、夜見森一家の誰かが直接、ね あぁそうだ、贈り物は気に入ってもらえたかな? きちんと存在を確認してもらえるように爆弾を仕込ませてもらったよ! 午前9時きっかりに爆発するようにしてあるから、騒ぎを起こしたくなかったら止めてねぇ! まぁ、エントランスのど真ん中に置いたからどっちみち騒ぎにはなってそうだけど というわけで、待っているよ! チャオ! 野鼠より!
「……相変わらず、虫酸の走る文章」
紙に書かれた文章を見て、鳴華が盛大に顔を顰める。
「それは同感です…それに、爆弾なんて……」
「爆弾は…仕組みさえわかれば一応解除できるけど……」
呟いた鳴華に、あやめは問いかける。
「なら…サファイアには私が行ってくるので、後のことはお願いしても?」
「構わない。偽装もやっとく」
「ありがとうございます。では、行ってきますね」
軽く会釈をして、あやめは裏口から出ていった。時刻は午前8時32分。
「まぁ…お願いされたからには頑張るけど……間に合うかは、微妙…」
鳴華は人知れずため息をつくのだった。
―午前8時43分、都内某所 あやめは「野鼠」に指定されたバー、「サファイア」の近くに来ていた。
「相変わらず治安の良くないところですね…昔住んでいた私が云うことじゃありませんけど」
あちこちにたむろしている孤児、ホームレス、その他のならず者たち…かつてあやめが暮らしていた頃のスラムとなんら変わらない景色が、そこにはあった。
学校も卒業しないまま子を産み、親にも配偶者にも見捨てられた娘が、その娘が抱えた赤ん坊が、今にも息絶えそうな様子で涙を流している。顔に傷のある犯罪者が、それを睨んで唾を吐く。孤児たちは寄り集まって、盗んできた「戦利品」を分け合う。皆一様に、生気のない瞳をしていた。
都市開発に見放されたその場所はしかし、確かに密会には適した場所だった。
そんな中をしばらく歩き、一つの建物の前で足を止める。
「ここ、ですか…」
錆びついた看板に書かれた「サファイア」の文字、割れたガラス窓の向こうに見える陰気臭い店内。そして、中央付近に立っている場違いなピエロ。間違いなく、「野鼠」の指定したバーだった。
あやめが店内に入ると、足元でガラスと地面が擦れる耳障りな音が響く。その音に気付いて、ピエロがあやめの方を向く。
「おや?おやおやおやぁ?本当に来たんだ?来ちゃったんだ!?何要求されるかわかんないのに!」
「夜見森一家の誰かが直接、と仰ったのはそちらでしょう?どこに驚く要素があったんですか?」
からかうような口調で話すピエロに冷静な返答をして、あやめは近くの椅子に腰掛ける。
「それで、要求はなんです?夜見森グループに叶えられることなら、なんでもお聞きしますよ。CEOからもそう指示が出ています」
その様子をつまらなさげに眺め、ピエロもまた近くの椅子に座る。
「野鼠からの要求は簡単さ。君たち夜見森グループの傘下に入れてくれたらそれでいい」
「傘下…ですか。そちらの表企業がどこかによるかと……」
「野鼠の表企業は小鳥遊だよ、小鳥遊印刷。聞いたことくらいあるだろう?」
「…一度帰社して、CEOに確認を取ります。返答は小鳥遊印刷に直接お送りすれば?」
「それで構わない。僕たちとしても争いを起こしたい訳じゃあないからね」
「わかりました。ではそのように。ただし、この後のことはCEOの意向次第です。必ずしもご期待に添えるわけではないことをご理解ください」
定型の挨拶をし、あやめは店の出口へと歩き始める。が、すぐに一度足を止め、ピエロの方を振り返る。
「もし、CEOがそちらの要求を却下した場合ですが…都外へ身を隠すことをおすすめします。要求を却下されるということは、害があると判断された、ということですから」
そう云うと、青い目を細めてニコリと笑い、踵を返して再び歩き出す。白い髪が風に揺れ、着物の裾が翻る。
その後ろ姿に向かって、ピエロが声をかける。
「感謝するよ、夜見森の『暁蝶』さん」
仮面の下でピエロは不気味な笑みを浮かべていた―。