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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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ドアを開けると、そこには背筋をまっすぐに伸ばした年配の女性が立っていた。
かっちりとしたジャケットに身を包み、白髪交じりの髪を隙なくまとめている。その落ち着いた佇まいからは、長く人に仕えてきた人間らしい品格が感じられた。
「幸人様のご紹介で参りました。橋本一恵でございます。奥様、本日からお世話になります」
深々と頭を下げられ、詩乃は一瞬言葉に詰まった。
“奥様”。
そう呼ばれても、まだ自分のことだとは思えない。
「……お、おはようございます」
果穂の声で発せられる自分の言葉に違和感を覚えながら、どうにか挨拶を返す。
一恵は靴を揃えて家へ上がると、さりげなく室内を見回した。昨日より片付いているとはいえ、そこに漂う荒れた生活の痕跡までは隠しきれない。
「乃亜様は?」
尋ねられ、詩乃が身体を横へずらす。
リビングの奥では、乃亜がソファのそばに立ち、こちらを見つめていた。小さな手には、先ほどの菓子パンの袋が握られたままだ。
一恵の視線が、静かに乃亜へ向けられる。
ほんの一瞬だったが、その目は鋭かった。
「乃亜、お着替えしようか」
詩乃がそばへ行ってしゃがみ込むと、乃亜は少し迷ったあと、小さく頷いた。
怖がらせないよう、詩乃はゆっくりと服へ手をかける。
すると、触れられた瞬間、乃亜の肩がかすかに強張った。
反射的なものだと気づいた詩乃は何も言わず、さらに手の動きを緩める。
その様子を、一恵は少し離れた場所から黙って見ていた。
やがて服が脱がされるにつれ、一恵の視線が乃亜の腕から背中、足へと静かに移っていく。不自然な痣や傷がないか、一つずつ確認しているようだった。
そして詩乃がオムツへ手をかけた時、赤くただれた肌が露わになる。
一恵の目が、わずかに細くなった。
何も言わない。
けれど、その沈黙が何を意味するのか、詩乃にも分かった。
(……やっぱり、ひどいよね)
昨夜見たものは、自分が大袈裟に受け止めただけではなかった。
(ちゃんと病院で診てもらわないと……)
詩乃はできるだけ刺激を与えないよう、新しいオムツへ替えていく。
着替えが終わったところで、一恵が静かに尋ねた。
「朝食のご用意は?」
詩乃の視線が、ソファの片隅に置かれた菓子パンの袋へ向かう。
「……今から、ちゃんと作ろうと思っていて……」
一恵の目がすっと細くなった。
「今から、でございますか」
責めるような声ではない。それでも、詩乃は自分が果穂として見られているのだと痛感した。
一恵はそれ以上追及せず、乃亜の前へ膝をつく。
「乃亜様」
呼びかけられても、乃亜は返事をしない。ただ相手の顔をじっと見つめ、何をされるのか待っている。
その様子を見ただけで、一恵も何かを察したらしい。
「すぐに温かいものをご用意いたします」
一恵は立ち上がると、転がったパン袋へ一度だけ目を落とした。
「小さなお子様の朝食としては、適切とは申せません」
それは叱責ではなく、ただ事実を告げる声だった。
ジャケットを脱いできれいに畳み、バッグから布のエプロンを取り出して腰へ結ぶ。その一連の動作には無駄がなく、まるで仕事のスイッチを入れるようだった。
キッチンへ向かう背中を見ながら、詩乃はそっと拳を握る。
本当のことは言えない。
それでも少なくとも、この人は乃亜の異変に気づいてくれる。
自分以外にも、この子を守ろうとしてくれる大人がいる。
その事実だけで、張り詰めていた心が少しだけ軽くなった。
「すぐ、ごはんできるからね」
詩乃が乃亜のそばへ戻って声をかけると、小さな手が菓子パンの袋をぎゅっと握り締めた。
まるで、奪われることを恐れているかのように。
その仕草を見つめながら、詩乃は改めて思い知らされた。
この子はずっと、空腹と不安を当たり前のものとして生きてきたのだ。
***
一恵が冷蔵庫を開けると、わずかに眉が動いた。
中に詰め込まれていたのは、缶ビールやチューハイ、つまみ用のチーズにコンビニのデザート。その隙間に、しなびかけた野菜が申し訳程度に転がっているだけだった。
冷凍庫にも氷やアイス、冷凍枝豆くらいしかなく、“食事”と呼べるものはほとんど見当たらない。
「……やはり、聞いていた通りですね」
一恵が低く呟く。
詩乃の胸がきゅっと縮んだ。
何を聞いていたのか、わざわざ尋ねる必要はなかった。
一恵は自分のバッグから、牛乳や卵、食パン、バター、カット野菜を取り出していく。
(……最初から、買ってきてくれてたんだ)
この家にはまともな食材がないと、幸人から聞いていたのだろう。
やがてフライパンの上でバターが溶け始め、温かな匂いがリビングまで漂ってきた。
「……いい匂いしてきたね」
詩乃が隣に座ると、乃亜は答えなかったものの、わずかに鼻をひくつかせた。菓子パンを握り締めていた指からも、少しだけ力が抜ける。
しばらくして、一恵が小さなトレーを運んできた。
ふわふわのスクランブルエッグに、小さく切ったトースト、温めた牛乳。特別な料理ではない。それでもこの家で乃亜が普段口にしていたものと比べれば、まるで違う食卓だった。
「まずは、これくらいにいたしましょう」
乃亜の前へそっとトレーを置き、一恵は目線を合わせるようにしゃがむ。
「無理に食べなくても大丈夫ですよ」
乃亜はしばらく料理を見つめていたが、やがておそるおそるトーストへ手を伸ばした。
小さな指でつまみ、口へ運ぶ。
ひと口噛んだところで動きが止まり、目がわずかに見開かれた。
それからもう一度、トーストへ手を伸ばす。
その様子を見守っていた詩乃は、ほっと息を吐いた。
けれど、一恵は別のところを見ていた。
乃亜は食べながらも、何度も詩乃と一恵の顔を窺っている。まるで、これを食べてもいいのか、あとから怒られないかと確認しているようだった。
幸人から聞かされた言葉が、一恵の脳裏をよぎる。
『妻は、育児なんてしていない』
三歳と聞いている年齢に比べ、明らかに小さな身体。そしてほとんど言葉を発さない様子。
一恵が静かに観察していると、乃亜がスクランブルエッグへ直接手を伸ばそうとした。
「乃亜、スプーン使ってみようか?」
詩乃が穏やかに声をかけ、スプーンを差し出す。
乃亜はきょとんと瞬きをしたあと、おずおずとそれを受け取った。
上から握り込むように持ち、スクランブルエッグを掬おうとする。けれどほとんどが滑り落ち、どうにか残ったひとかけらを口へ運ぼうとして――ぽろりとテーブルへ落とした。
その瞬間、乃亜の身体がびくりと跳ねた。
叱られると思ったのだろう。
大きく見開いた目が、怯えるように詩乃を見上げている。
詩乃は何も責めず、落ちた卵をティッシュで拭き取った。
「大丈夫だよ。そのまま、ぎゅって持っててね」
乃亜が握ったスプーンへそっと自分の手を重ねる。
「こうやってすくって……お口まで運ぶの」
一緒にスプーンを動かすと、今度はふわりとした黄色い卵がこぼれずに乗った。
「あーん」
口元へ運んでやると、乃亜は詩乃の顔を見つめながら、恐る恐る口を開ける。
卵を飲み込んだのを確認して、詩乃はやわらかく微笑んだ。
「できたね。上手」
大袈裟に褒めるのではなく、できたことを当たり前のように認める。
すると、乃亜の肩から少しだけ力が抜けた。
もう一口とスプーンを近づけると、今度は乃亜の方からほんの少しだけ身を乗り出す。
口元についた卵を詩乃が親指で拭っても、驚いたように瞬きをするだけで、もう逃げようとはしなかった。
その一部始終を、一恵は洗い物をしながら静かに見つめていた。
(……聞いていた話とは、違う)
けれど、すぐに判断するつもりはない。
取り繕っているだけかもしれない。
人間は、一日くらいならいくらでも違う顔を見せられる。
それでも――。
詩乃にスプーンを支えてもらいながら、乃亜がもう一口、卵を食べる。
少なくとも今、この子は怯えずに食事をしている。
その事実だけは、一恵にも否定できなかった。
コメント
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すごく温かい気持ちになりました。家政婦の一恵さんの観察眼の鋭さと、詩乃が乃亜に寄り添う優しい手つきの対比が印象的です。特に、スプーンを一緒に持って「ぎゅって」と教える場面と、乃亜が食べ終わってほっと肩の力が抜ける瞬間が胸に沁みました。菓子パンを握りしめる小さな指から、これまでの空腹と不安がにじみ出ていて切なかったです。一恵さんが「聞いていた話とは違う」とすぐに判断しない姿勢もリアルで、今後の変化が楽しみです。