テラーノベル
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夜の住宅街を、一恵は仕事用のバッグを肩に掛けて歩いていた。
曲がり角へ差しかかる手前で足を止め、スマートフォンを取り出す。連絡先を選んで発信すると、数回のコールのあと、低い男の声が応じた。
『どうでしたか』
幸人の声は、淡々としている。
「まず、事実から申し上げます」
一恵はひと呼吸置いてから続けた。
「乃亜様に、強いおむつかぶれが見られました。皮膚の状態から見ても、一時的なものではなく、長く続いていたものと思われます」
受話器の向こうで、わずかに息を呑む気配がした。
『……そうですか。そんなことだろうとは、思っていました』
驚きはない。
怒るでも、取り乱すでもなく、ただ予想していた事実を確認したような声音だった。
一恵は少し迷ったあと、もう一つの事実を伝える。
「その上で申し上げますが……奥様のご様子は、幸人様から伺っていた印象とは少々異なりました」
『異なる?』
「はい。少なくとも本日は、乃亜様へ食事を与え、声を荒げることもなく、そばで付き添っていらっしゃいました」
しばらく沈黙が続いたあと、幸人が静かに尋ねる。
『……それだけですか』
「本日確認できたのは、そこまででございます」
『なるほど』
幸人は否定も肯定もしなかった。
『人の振る舞いは、状況次第でいくらでも変わります。一日や二日で、本質まで変わるとは……私は思っていません』
その声には怒りさえなかった。
だからこそ、一恵には分かった。
幸人の中では、すでに妻に対する期待そのものが失われているのだと。
『これまでのことがありますから。……引き続き、事実を知らせてください』
「承知しました」
通話が切れ、一恵はスマートフォンを下ろした。
夜道を見つめながら、昼間の乃亜の姿を思い出す。
あの子の状態は、一日や二日で作られたものではない。
長い間、適切に世話をされてこなかったことは間違いないだろう。
けれど今日、怯える乃亜へ「大丈夫」と声をかけ、食事を手伝い、優しく口元を拭っていたのもまた、同じ“母親”だった。
(……一体、何があったのでしょうね)
答えは出ないまま、一恵は再び夜道を歩き始めた。
***
同じ頃——静かな病室には、一定の間隔で機械音が響いていた。
薄暗い室内の中央に置かれたベッド。その上に、一人の若い女性が横たわっている。
閉じられた瞼。血の気の薄い頬。
規則正しく上下する胸元。
その顔は――紛れもなく、楠木詩乃のものだった。
あの夜、車にはねられた詩乃は、死んではいなかった。
事故のあと、ぎりぎりのところで発見され、どうにか一命を取り留めていたのだ。
けれど、意識はいまだ戻らない。
誰もいない病室で、かつて詩乃が生きていた身体は、静かに呼吸を続けている。
詩乃自身が、妹の身体で新たな朝を迎えたことなど知るはずもなく。
その身体が再び目を覚ました時、何が起こるのか。
今はまだ、誰も知らなかった。
コメント
1件
都築七美さんの「4-3」、読み終えたよ〜!📖✨ 今回は一恵さん視点で、現実が静かに重なっていく感じが胸に刺さった…! 幸人さんの「期待そのものが失われている」声のトーンにゾッとしたし、それでいて優しい母親の顔を見せた奥様とのギャップが謎すぎて続きが気になるよ😭💔 そして最後の病室シーン…! 詩乃、死んでなかったんだね!! 意識は戻らないけど、妹の身体で生きる詩乃と、機械音だけが響く元の身体。この二つがどう交わるのか、次の話が待ち遠しすぎるよ…🔥 続き、楽しみにしてるね🌸
#恋愛
坂颯(さか はやて)
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