テラーノベル
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アシェルが秘密裏に動いている最中、ノアはこれまで以上にダンスの練習に励んだ。
だってアシェルが「頑張れ」って言ってくれたから……そう、自分に言い聞かせて。
雇用主から激励を受けたなら、それに応えるのが被用者の義務である。
だからノアは、グレイアスのお小言を聞き流して、皮がめくれた足の裏の痛みを無視して、必死にダンスのステップを踏む。
あの時──アシェルに耳元で囁かれた「頑張れ」は、特別な響きを持っていた。
そのことを、ノアは身体全部で感じていたが、ずっとずっと気付かないフリをしている。
知っちゃいけないのだ。だって夜会が終わったら、今度こそ自分はアシェルの元を去るのだから。その時、後ろ髪を引かれるようなことがあってはならない。
ノアは身の丈を弁えている。アシェルは仮初めの婚約者という仕事を頑張る自分を大事にしてくれているだけ。
そう自分に言い聞かせて──夜会当日を迎えた。
国王陛下の誕生を祝う夜会は、夕方から開催される。
ノアは朝からメイド達の手によって風呂に放り込まれ、全身を磨かれ、髪に香油を塗られ、頭皮がめくれるのではないかと心配するほど髪を梳かれた。
それから数時間後。陽が西の空に沈みかけた頃、ようやっとノアの身支度が終わった。
今日の為に用意されたノアの衣装は、柔らかいシフォンを幾重にも重ねた桃色のドレス。スカート部分は、ダリアの花を逆さまにしたようなデザインで、歩くたびに裾が揺れる。
肩の出る上半身は一見シンプルに見えるが、小さなビーズが縫い付けられているので光が当たるとキラキラと輝く豪華なもの。しかも絶妙にノアの鎖骨のちょっと下にある雪花の紋章が見える。
少女チック過ぎず、背伸びし過ぎたものでもない。これは誰が見てもノアの為に用意された一級品。
これまでドレスアップなど一度もしたことがないノアが袖を通しても、着られている感は全くない。
「……なんだか自分じゃないみたいだなぁ」
「いえ、ノア様です」
じぃーっと姿見を凝視しているノアに、フレシアはそっけなく答える。
でもフレシアは、不機嫌というわけではない。ノアのレディッシュブラウンの髪に銀細工の簪を刺すのに忙しいだけである。
無論、ノアは誉めてほしいわけではないし、フレシアの邪魔をする気もないので、大人しく姿見と向かい合っている。
そうしてヘアセットも完璧に整え終えた頃、扉がノックされた。
「入るよ、ノア」
フレシアが扉を開ければ、夜会服に身を包んだアシェルが、つまづくことなくノアの前に立つ。
「準備はできたかい?」
「はい!ちょうど終わったところです」
ノアはへへっと、照れ臭そうにアシェルに笑いかける。
彼は盲目だ。この姿を見ることはできない。
でも過去最高に着飾った自分で彼の隣に立つことができるのは、とっても誇らしい。
本音を言えば……こんな機会はもう一生ないから、見てほしかったけど。
そんな風にノアが寂しさを抱いた途端、アシェルはふわっと笑った。
「ノア、可愛い」
「……っ……!!」
本気でびっくりした。彼と出会って一番びっくりした。
その驚きはこれまでにない感覚で、ノアの顔がみるみるうちに赤くなる。
(おかしい。お愛想で可愛いと言われてただけなのにドキッとするなんて!!)
愚かな自分に、ノアは心の中で馬鹿っ!大馬鹿!!を口汚く罵る。
でも頬の熱はいつまで経っても冷めなくて……冷めないまま、ノアはアシェルにエスコートされて会場に向かう羽目になってしまった。
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