松永賢人はもちろん会社を懲戒免職になった。
松永が逮捕された容疑は、子どもたちの目の前で椅子を振り上げて殺すぞと怒鳴ったことで成立した脅迫罪。松永が依頼した弁護士からその件で示談を求められたが断固拒否した。
松永は微罪逮捕とならず送検されて、さらに二十日間勾留された。杉原弁護士によればこのまま示談に応じなければ起訴は免れないということだった。
さらに松永に対しては不倫の件で一千万の支払いを求める内容証明を送付した。一千万は相場の五倍以上。もちろんそんなに取れるとは思っていない。僕が夢香にレスられていた三年間、彼女を好き放題に抱いていた男への攻撃の手を緩めるつもりは、現在のところ一切ない。
一方、夢香に対しては杉原弁護士を通して、真希と望愛が僕の庇護下にあることを報告させた。
娘たちに逃げられて、夢香は警察に誘拐だと訴えたが、
「子どもが自発的に別の親権者のもとに行っただけだから、警察は動けない。お子さんといっしょにいたいなら、奥さんもご主人と仲直りしたらどうですか?」
と能天気な提案をされて、何も言えずにすごすごと引き下がるしかなかった。運命の恋人ばかりか最愛の二人の娘まで失い、夢香は川崎のマンションを引き払い、失意のうちに横浜の実家に戻った。
夢香に対する最大の制裁は離婚することだ。単独親権制度下では、離婚してなくても同居親は別居親に対して絶対的なアドバンテージを持つ。まして離婚して別居親が親権を失えば子の養育に関わることが事実上不可能になり、せいぜい同居親の慈悲にすがり月に一度二時間の面会を恵んでもらうことくらいしかできなくなる。それさえ同居親の気分と都合で簡単に反故にできる。
夢香は単独親権制度下で同居親が持つアドバンテージを僕に対して最大限に行使した。それを長期間やり返すだけで、夢香の心を折ることができるほどの強力な制裁となったはずだ。
でも僕はそれをしなかった。条件が整えば会いたいときに子どもたちに会わせると弁護士を通して連絡させた。離婚も求めず、子どもたちはこちらにいるが婚費の負担も求めず、もちろんこちら側への接触禁止も求めなかった。
和海も誠也も小麦も僕の両親も当の娘たちまで、誰もが甘すぎると僕を非難した。彼らは知らなかった。僕がただの同情心から夢香に優しくしているわけではなかったことを――
〈条件が整えば〉の条件とは何か? と向こうの弁護士から照会があったから、
〈僕からは指示しません。自分で考えさせて下さい〉
と回答した。
二度と子どもたちに会えないかもしれないと恐怖したからだろう。その後の夢香は潔かった。まず、鷲本弁護士を通じて僕に指示した自分側への接触禁止処置を解除した。また、家を出たとき持ち出した現金も通帳も、住居侵入の示談金三百万円もすべて僕に返却した。
この三年間夢香が僕の願いを素直に聞いてくれたことなど一度もなかった。
〈再構築してくれるならお金を返してもいいけど〉
くらいのいやらしいことは言ってくるだろうなと覚悟していたから正直驚いた。
和海が心配顔で僕に言い聞かせようとする。
「鳥居先生、分かってる? 奥さんが急に態度がよくなったのは、松永と比べて奥さんへの制裁が全然生ぬるいのを見て、離婚しないで再構築してくれそうだって期待してるからだぜ。あんなにひどい目に遭っても、あいつは私から離れられないって今ごろ奥さんほくそ笑んでるんじゃねえの?」
「そうかもね。でもそれならそれでいいんだ。すべてを失って、最後の頼りは僕だけだという形に持っていきたい。だから教員仲間によるこおろぎハウスのボイコットはこれからも続けて、なるべく早く夢香を退職に追い込んでほしい」
「すべてを失って最後の頼りは鳥居先生だけと思わせたところで、一気に梯子を外して悪魔を地獄に突き落とすわけか。それはなかなかエグい復讐だな」
「いや。僕は夢香に鉄砲玉になってもらおうと思ってるんだ。本当の悪魔を倒すための」
「本当の悪魔? 今までの登場人物の中に、松永や先生の奥さん以上の悪魔がいたか?」
「いたよ。安田先生が知らないだけでね」
とりあえず僕が夢香と再構築する気がないと知って安心したようだ。それ以上和海は何も言ってこなかった。
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