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幸福な時間は、長くは続かなかった。
そもそも最初から、長く続く種類のものではなかったのだろう。
ドラコにはそれが分かっていた。
分かっていたのに、ほんの数日でも穏やかに眠れてしまうと、人は簡単に願ってしまう。
もう少しだけ。
あと少しだけ。
この静けさが続けばいいのに、と。
禁忌の効果は確かだった。
悪夢は完全には消えない。
それでも以前みたいに、眠るたび地獄の底へ引き戻されることはなくなった。
杖を握った瞬間の嫌な発作も、薄い膜一枚ぶんだけ遠くなった。
授業での呪文も、ぎこちなさは残るが、露骨な失敗は減っていた。
その変化を、ハリーは予想以上に素直に喜んだ。
顔を見るたび、少しほっとした顔をする。
「今日はましそうだな」と言う。
夜の教室でも、以前より強く抱きしめてくる。
それがドラコには心地よかった。
心地よかったからこそ、余計にまずかった。
最初の異変は、記憶の抜けだった。
ある朝、ドラコは目を覚ましてしばらく、自分がどうやってベッドへ入ったのか思い出せなかった。
昨夜のことは覚えている。
夜の教室でハリーと会い、遅くまで一緒にいたことも。
そのあと自室へ戻った記憶まではある。
でも、その先が妙に曖昧だった。
ローブを脱いだのか。
窓は閉めたのか。
机の上に開きっぱなしだった本は誰が片づけたのか。
考えれば考えるほど、そこだけが薄く霞む。
寝不足のせいかと思った。
実際、数ヶ月ずっとまともに眠れていなかったのだから、それくらい不思議ではない。
そう自分に言い聞かせて、その日はやり過ごした。
二度目は、もっとはっきりしていた。
午後の授業から戻った時、机の上に置いたはずの杖の位置が変わっていた。
ドラコは部屋へ入った瞬間、すぐにそれに気づいた。
いつもなら机の右端へまっすぐ置く。
今は少し斜めに、しかも机の中央寄りへずれている。
使用人が掃除のために動かしたのかとも思った。
だが、ドラコは杖に関してだけは昔からうるさい。
勝手に触れるなと何度も言ってきた。
屋敷の使用人たちがそれを知らないはずがない。
では誰が。
その問いが、胸の奥に小さく残った。
ただ、それでもこの段階ではまだ、自分の不注意かもしれないと思えた。
思おうとした。
本当にまずかったのは、その日の夜だった。
ハリーと別れたあと、ドラコは久しぶりに少し気分が軽かった。
禁忌の力で輪郭を失っていた恐怖が、その日はさらに遠かった。
呼吸もしやすい。
頭のざわつきも薄い。
部屋へ戻り、扉を閉め、鏡の前を通り過ぎた時だった。
一瞬だけ、鏡の中の自分が遅れて動いた。
ほんの一拍。
たったそれだけ。
でも、たしかに見た。
ドラコは足を止めた。
心臓が強く打つ。
ゆっくり振り返る。
鏡の中には、ちゃんと自分が立っている。
同じ姿勢。
同じ顔。
同じ月明かり。
だが、その目だけが、妙に暗く見えた。
「……くだらない」
自分へ言い聞かせるように呟く。
疲れているだけだ。
少し楽になったからといって、完全に正常へ戻ったわけではない。
幻覚の残り香が、こんなところまで追ってきただけだ。
そう思って、ドラコは鏡から離れた。
でもその夜は、久しぶりに眠りが浅かった。
⸻
ハリーは、ドラコの小さな違和感に気づき始めていた。
良くなったように見える。
実際、以前より穏やかだ。
笑うことも増えたし、夜の時間も前よりやわらかい。
それなのに、時々、妙に遠い瞬間がある。
話しかけた直後、返事が半拍遅れる。
目を見ていたはずなのに、ふっと別の何かへ意識がずれる。
それからすぐ戻る。
戻って、何事もなかった顔をする。
最初のうち、ハリーはそれを疲れだと思った。
でも回数が増えると、さすがに胸がざわつく。
ある夜、教室でドラコが窓辺にもたれている時だった。
ハリーが何気なく「今日はどうだった」と聞く。
ドラコは少し間を置いて、「悪くない」と答えた。
その返事の遅れ方が、妙に冷たかった。
遅れてから言葉を選ぶのではなく、一度どこかへ沈んで、それから浮いてくる感じ。
「ドラコ?」
ハリーが呼ぶと、ドラコはようやくはっきり目を上げた。
「何だ」
「今」
ハリーは少しためらってから言う。
「聞こえてなかった?」
ドラコの眉がわずかに寄る。
「聞こえてた」
「そうじゃなくて」
ハリーは声を落とす。
「少し、変だった」
その一言に、ドラコの空気が変わった。
表情そのものは大きく動かない。
けれど、肩の線が少しだけ強くなる。
「……疲れてるだけだ」
「そう?」
「そうだ」
ドラコは視線を逸らした。
「お前、最近いちいち細かい」
その返答はいつものドラコに近い。
だからハリーはそれ以上追わなかった。
追えばまた閉じる。
それがもう分かっている。
でも、疑いは残った。
何かがある。
まだ小さい。
まだ、今すぐ壊れるようなものではない。
でも、たしかに何かが少しずつおかしくなっている。
ハリーのそういう勘は、戦争のあと、変なふうに鋭くなっていた。
⸻
マルフォイ家の屋敷でも、使用人たちは小さな異変に気づき始めていた。
最初に口にしたのは、年配の屋敷しもべだった。
「坊ちゃまのお部屋の前、夜になると空気が重たいんです」
ナルシッサは最初、それを戦後の神経過敏だろうと受け流した。
屋敷にはまだ、戦争の余韻が残っている。
それに息子の不調も続いていた。
誰かが不安を拾ってしまっているだけだと。
だが、その話は一度では終わらなかった。
別の使用人が、夜中にドラコの部屋の中で誰かの足音がしたと言う。
もう一人は、扉越しに話し声を聞いたと怯えた。
低い声だった、と。
ドラコ様の声ではない、と。
もちろん、ドラコはそんな話を聞いて激しく否定した。
「馬鹿げているな」
平坦に言う。
「誰か一人が怯えれば、屋敷全体が怪談を育てる」
その切り捨て方は、以前のマルフォイに近かった。
だから使用人たちも、それ以上は口を閉ざした。
けれどドラコ自身、その話を聞いた時、背筋の奥がひどく冷えた。
足音。
自分ではない声。
思い当たる節が、ある。
鏡の中の一拍の遅れ。
位置の変わった杖。
記憶の空白。
そして、部屋へ満ちる妙な重さ。
禁忌の記述の一節が、脳裏へよぎる。
魂の欠けたところには、影が寄る。
その“影”が何か、そこには詳しく書かれていなかった。
ただ、空洞は呼ぶ、とだけあった。
ドラコはその一文を思い出し、胃の底が冷たくなるのを感じた。
でも、それでもなお、自分はまだ制御できると思おうとした。
今のところ、何かが実際に起きたわけではない。
死人が出たわけでもない。
部屋の中で暴れた形跡もない。
ただ、自分が少し曖昧で、屋敷の空気が変なだけだ。
それに、ここで認めてしまえば終わる。
禁忌に手を出した自分が、たった数回で制御を失い始めていると。
自分なら扱えると思ったその驕りが、もう崩れかけていると。
そんなこと、認められるはずがなかった。
だからドラコは、何事もないふりをした。
ハリーにも、屋敷にも、誰にも何も言わない。
言えば止められる。
あるいは、もっと悪い。
ハリーが気づけば、またあの目を向ける。
放っておけないという目。
そばにいたいという目。
今のドラコには、それが一番危険だった。
⸻
禁忌は、少しずつドラコを変えていった。
悪夢は前より少ない。
幻覚も薄い。
その代わり、感情の立ち上がりがわずかに鈍る。
以前ならもっと苛立ったはずのことに、反応が少し遅れる。
人の悪意にも、一瞬だけ遠くなる。
自分の怒りや屈辱すら、薄い布越しに感じるみたいだ。
それは穏やかさにも見えた。
実際、ハリーはそう受け取っていた。
「最近、前より落ち着いてる」
ある夜、肩を寄せたままそう言われた時、ドラコは一瞬だけ返答に詰まった。
落ち着いている。
それはたぶん、間違っていない。
でも、それが正常な回復の結果ではないことを、自分だけが知っている。
「そうかもな」
そう答えると、ハリーは少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔が、ひどく痛かった。
自分は騙している。
この穏やかさは本物ではない。
借り物だ。
しかも代償つきの。
ハリーはそのことを知らない。
知らないから、安心してしまう。
やっと良くなってきたのだと思ってしまう。
だからこそ、ドラコはハリーと目を合わせるたび、胸の奥に別の冷たさを覚えるようになった。
これはいつか破綻する。
その時、ハリーはどういう顔をするだろう。
その想像ができなくて、ある夜からドラコは少しずつハリーを避け始めた。
昼だけではない。
夜の教室にも、以前ほど早く行かない。
理由をつけて遅れる。
一日おきにする。
時には行かない。
ハリーはすぐ気づいた。
「最近、逃げてるだろ」
言われた時、ドラコは窓の外を見たまま答えた。
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
「お前が気にしすぎなだけだ」
そう返しながら、自分でも分かっていた。
逃げている。
間違いなく。
近づくほど、何かを見抜かれそうで怖い。
穏やかになっているようでいて、その実、自分の輪郭が少しずつ曖昧になっていることを。
時々、鏡の中の自分の目が少し遅れて動くことを。
夜中、扉の向こうに自分以外の気配が立つことを。
ハリーはなおさら距離を詰めようとした。
心配しているから。
最近また不安定だから。
以前より少し遠く感じるから。
その善意が、ドラコにはたまらなく苦しい。
ある夜、ハリーが手を伸ばしてきた時、ドラコはいつもより強くその手を払った。
ハリーがはっきりと目を見開く。
「……何だよ」
その声に傷が混じる。
ドラコは一瞬だけ後悔した。
でも、もう引けなかった。
「今日はやめろ」
「何で」
「気分じゃない」
「昨日は」
ハリーの声が少しだけきつくなる。
「昨日はあんなだったのに」
その一言で、胸の奥にひやりとしたものが走る。
昨日。
たしかに穏やかだった。
でも、どこまでが自分の意思で、どこからが影の静けさだったのか、もう自信がない。
「……帰れ」
ドラコは低く言った。
「またそれかよ」
「帰れ」
「君、最近ほんとにおかしい」
その言葉に、ドラコははっきり表情を変えた。
「お前にだけは言われたくない」
冷たく言い切る。
今までよりも、ずっとはっきりと。
ハリーはその声に一歩引いた。
傷ついたのが分かる。
でも今は、それでよかった。
これ以上近くにいたら、本当にまずい。
ドラコはそう確信し始めていた。
まだ、自分なら制御できる。
まだ手遅れじゃない。
まだ、少し離れれば何とかなる。
その“まだ”だけにすがって、その夜は一人で教室を出た。
でも廊下を歩きながら、ドラコは気づいていた。
手遅れではないと思い込みたいだけで、本当はもう何かが始まっている。
そしてそれは、たぶん自分一人では止めきれない。
それでもなお、誰にも言えなかった。
特にハリーには。
⸻