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きのこ
14
幸福な時間は、長くは続かなかった。
そもそも最初から、長く続く種類のものではなかったのだろう。
ドラコにはそれが分かっていた。
分かっていたのに、ほんの数日でも穏やかに眠れてしまうと、人は簡単に願ってしまう。
もう少しだけ。
あと少しだけ。
この静けさが続けばいいのに、と。
禁忌の効果は確かだった。
悪夢は完全には消えない。
それでも以前みたいに、眠るたび地獄の底へ引き戻されることはなくなった。
杖を握った瞬間の嫌な発作も、薄い膜一枚ぶんだけ遠くなった。
授業での呪文も、ぎこちなさは残るが、露骨な失敗は減っていた。
その変化を、ハリーは予想以上に素直に喜んだ。
顔を見るたび、少しほっとした顔をする。
「今日はましそうだな」と言う。
夜の教室でも、以前より強く抱きしめてくる。
それがドラコには心地よかった。
心地よかったからこそ、余計にまずかった。
最初の異変は、記憶の抜けだった。
ある朝、ドラコは目を覚ましてしばらく、自分がどうやってベッドへ入ったのか思い出せなかった。
昨夜のことは覚えている。
夜の教室でハリーと会い、遅くまで一緒にいたことも。
そのあと自室へ戻った記憶まではある。
でも、その先が妙に曖昧だった。
ローブを脱いだのか。
窓は閉めたのか。
机の上に開きっぱなしだった本は誰が片づけたのか。
考えれば考えるほど、そこだけが薄く霞む。
寝不足のせいかと思った。
実際、数ヶ月ずっとまともに眠れていなかったのだから、それくらい不思議ではない。
そう自分に言い聞かせて、その日はやり過ごした。
二度目は、もっとはっきりしていた。
午後の授業から戻った時、机の上に置いたはずの杖の位置が変わっていた。
ドラコは部屋へ入った瞬間、すぐにそれに気づいた。
いつもなら机の右端へまっすぐ置く。
今は少し斜めに、しかも机の中央寄りへずれている。
使用人が掃除のために動かしたのかとも思った。
だが、ドラコは杖に関してだけは昔からうるさい。
勝手に触れるなと何度も言ってきた。
屋敷の使用人たちがそれを知らないはずがない。
では誰が。
その問いが、胸の奥に小さく残った。
ただ、それでもこの段階ではまだ、自分の不注意かもしれないと思えた。
思おうとした。
本当にまずかったのは、その日の夜だった。
ハリーと別れたあと、ドラコは久しぶりに少し気分が軽かった。
禁忌の力で輪郭を失っていた恐怖が、その日はさらに遠かった。
呼吸もしやすい。
頭のざわつきも薄い。
部屋へ戻り、扉を閉め、鏡の前を通り過ぎた時だった。
一瞬だけ、鏡の中の自分が遅れて動いた。
ほんの一拍。
たったそれだけ。
でも、たしかに見た。
ドラコは足を止めた。
心臓が強く打つ。
ゆっくり振り返る。
鏡の中には、ちゃんと自分が立っている。
同じ姿勢。
同じ顔。
同じ月明かり。
だが、その目だけが、妙に暗く見えた。
「……くだらない」
自分へ言い聞かせるように呟く。
疲れているだけだ。
少し楽になったからといって、完全に正常へ戻ったわけではない。
幻覚の残り香が、こんなところまで追ってきただけだ。
そう思って、ドラコは鏡から離れた。
でもその夜は、久しぶりに眠りが浅かった。
⸻
ハリーは、ドラコの小さな違和感に気づき始めていた。
良くなったように見える。
実際、以前より穏やかだ。
笑うことも増えたし、夜の時間も前よりやわらかい。
それなのに、時々、妙に遠い瞬間がある。
話しかけた直後、返事が半拍遅れる。
目を見ていたはずなのに、ふっと別の何かへ意識がずれる。
それからすぐ戻る。
戻って、何事もなかった顔をする。
最初のうち、ハリーはそれを疲れだと思った。
でも回数が増えると、さすがに胸がざわつく。
ある夜、教室でドラコが窓辺にもたれている時だった。
ハリーが何気なく「今日はどうだった」と聞く。
ドラコは少し間を置いて、「悪くない」と答えた。
その返事の遅れ方が、妙に冷たかった。
遅れてから言葉を選ぶのではなく、一度どこかへ沈んで、それから浮いてくる感じ。
「ドラコ?」
ハリーが呼ぶと、ドラコはようやくはっきり目を上げた。
「何だ」
「今」
ハリーは少しためらってから言う。
「聞こえてなかった?」
ドラコの眉がわずかに寄る。
「聞こえてた」
「そうじゃなくて」
ハリーは声を落とす。
「少し、変だった」
その一言に、ドラコの空気が変わった。
表情そのものは大きく動かない。
けれど、肩の線が少しだけ強くなる。
「……疲れてるだけだ」
「そう?」
「そうだ」
ドラコは視線を逸らした。
「お前、最近いちいち細かい」
その返答はいつものドラコに近い。
だからハリーはそれ以上追わなかった。
追えばまた閉じる。
それがもう分かっている。
でも、疑いは残った。
何かがある。
まだ小さい。
まだ、今すぐ壊れるようなものではない。
でも、たしかに何かが少しずつおかしくなっている。
ハリーのそういう勘は、戦争のあと、変なふうに鋭くなっていた。
⸻
マルフォイ家の屋敷でも、使用人たちは小さな異変に気づき始めていた。
最初に口にしたのは、年配の屋敷しもべだった。
「坊ちゃまのお部屋の前、夜になると空気が重たいんです」
ナルシッサは最初、それを戦後の神経過敏だろうと受け流した。
屋敷にはまだ、戦争の余韻が残っている。
それに息子の不調も続いていた。
誰かが不安を拾ってしまっているだけだと。
だが、その話は一度では終わらなかった。
別の使用人が、夜中にドラコの部屋の中で誰かの足音がしたと言う。
もう一人は、扉越しに話し声を聞いたと怯えた。
低い声だった、と。
ドラコ様の声ではない、と。
もちろん、ドラコはそんな話を聞いて激しく否定した。
「馬鹿げているな」
平坦に言う。
「誰か一人が怯えれば、屋敷全体が怪談を育てる」
その切り捨て方は、以前のマルフォイに近かった。
だから使用人たちも、それ以上は口を閉ざした。
けれどドラコ自身、その話を聞いた時、背筋の奥がひどく冷えた。
足音。
自分ではない声。
思い当たる節が、ある。
鏡の中の一拍の遅れ。
位置の変わった杖。
記憶の空白。
そして、部屋へ満ちる妙な重さ。
禁忌の記述の一節が、脳裏へよぎる。
魂の欠けたところには、影が寄る。
その“影”が何か、そこには詳しく書かれていなかった。
ただ、空洞は呼ぶ、とだけあった。
ドラコはその一文を思い出し、胃の底が冷たくなるのを感じた。
でも、それでもなお、自分はまだ制御できると思おうとした。
今のところ、何かが実際に起きたわけではない。
死人が出たわけでもない。
部屋の中で暴れた形跡もない。
ただ、自分が少し曖昧で、屋敷の空気が変なだけだ。
それに、ここで認めてしまえば終わる。
禁忌に手を出した自分が、たった数回で制御を失い始めていると。
自分なら扱えると思ったその驕りが、もう崩れかけていると。
そんなこと、認められるはずがなかった。
だからドラコは、何事もないふりをした。
ハリーにも、屋敷にも、誰にも何も言わない。
言えば止められる。
あるいは、もっと悪い。
ハリーが気づけば、またあの目を向ける。
放っておけないという目。
そばにいたいという目。
今のドラコには、それが一番危険だった。
⸻
禁忌は、少しずつドラコを変えていった。
悪夢は前より少ない。
幻覚も薄い。
その代わり、感情の立ち上がりがわずかに鈍る。
以前ならもっと苛立ったはずのことに、反応が少し遅れる。
人の悪意にも、一瞬だけ遠くなる。
自分の怒りや屈辱すら、薄い布越しに感じるみたいだ。
それは穏やかさにも見えた。
実際、ハリーはそう受け取っていた。
「最近、前より落ち着いてる」
ある夜、肩を寄せたままそう言われた時、ドラコは一瞬だけ返答に詰まった。
落ち着いている。
それはたぶん、間違っていない。
でも、それが正常な回復の結果ではないことを、自分だけが知っている。
「そうかもな」
そう答えると、ハリーは少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑顔が、ひどく痛かった。
自分は騙している。
この穏やかさは本物ではない。
借り物だ。
しかも代償つきの。
ハリーはそのことを知らない。
知らないから、安心してしまう。
やっと良くなってきたのだと思ってしまう。
だからこそ、ドラコはハリーと目を合わせるたび、胸の奥に別の冷たさを覚えるようになった。
これはいつか破綻する。
その時、ハリーはどういう顔をするだろう。
その想像ができなくて、ある夜からドラコは少しずつハリーを避け始めた。
昼だけではない。
夜の教室にも、以前ほど早く行かない。
理由をつけて遅れる。
一日おきにする。
時には行かない。
ハリーはすぐ気づいた。
「最近、逃げてるだろ」
言われた時、ドラコは窓の外を見たまま答えた。
「気のせいだ」
「気のせいじゃない」
「お前が気にしすぎなだけだ」
そう返しながら、自分でも分かっていた。
逃げている。
間違いなく。
近づくほど、何かを見抜かれそうで怖い。
穏やかになっているようでいて、その実、自分の輪郭が少しずつ曖昧になっていることを。
時々、鏡の中の自分の目が少し遅れて動くことを。
夜中、扉の向こうに自分以外の気配が立つことを。
ハリーはなおさら距離を詰めようとした。
心配しているから。
最近また不安定だから。
以前より少し遠く感じるから。
その善意が、ドラコにはたまらなく苦しい。
ある夜、ハリーが手を伸ばしてきた時、ドラコはいつもより強くその手を払った。
ハリーがはっきりと目を見開く。
「……何だよ」
その声に傷が混じる。
ドラコは一瞬だけ後悔した。
でも、もう引けなかった。
「今日はやめろ」
「何で」
「気分じゃない」
「昨日は」
ハリーの声が少しだけきつくなる。
「昨日はあんなだったのに」
その一言で、胸の奥にひやりとしたものが走る。
昨日。
たしかに穏やかだった。
でも、どこまでが自分の意思で、どこからが影の静けさだったのか、もう自信がない。
「……帰れ」
ドラコは低く言った。
「またそれかよ」
「帰れ」
「君、最近ほんとにおかしい」
その言葉に、ドラコははっきり表情を変えた。
「お前にだけは言われたくない」
冷たく言い切る。
今までよりも、ずっとはっきりと。
ハリーはその声に一歩引いた。
傷ついたのが分かる。
でも今は、それでよかった。
これ以上近くにいたら、本当にまずい。
ドラコはそう確信し始めていた。
まだ、自分なら制御できる。
まだ手遅れじゃない。
まだ、少し離れれば何とかなる。
その“まだ”だけにすがって、その夜は一人で教室を出た。
でも廊下を歩きながら、ドラコは気づいていた。
手遅れではないと思い込みたいだけで、本当はもう何かが始まっている。
そしてそれは、たぶん自分一人では止めきれない。
それでもなお、誰にも言えなかった。
特にハリーには。
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