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放課後。
机がいくつか、後方に押しやられている。
床にはプリントの切れ端、割れたシャーペンの芯、誰かのスニーカーの跡。
だが、教室は静かだった。
日下部は、扉の外で息を殺していた。
聞こえるのは、わずかな水音と、布の擦れる音。
それから──「笑い声」。
──遥の、だった。
笑っていた。
あの、わざとらしく抑揚をつけた、「平気そうな声」で。
少しだけ裏返った、いつもの、あれだ。
「……ねぇ、そこ。ちゃんと見てる?」
笑うように、誰かに問いかけていた。
けれど、それはもう“命令されたから”ではなかった。
遥は、自分からやっていた。
「だって、……楽しい方が、いいでしょ?」
その声に、教室の奥でまた誰かが笑う。
もう、その場に教師はいない。
でも、生徒たちは残っていた。
理由もなく。
ただ、“それ”を楽しみに。
日下部は扉を開けることができなかった。
それでも、わずかに覗いた隙間から、遥の姿が見えた。
床に座り込んだまま、誰かの靴を拾っていた。
そして、それをわざとらしく掲げながら──
「はーい、落とし物。……ほら、返してあげよっか? それとも、もっと踏む?」
声色は軽い。
けれど、その目は笑っていなかった。
遥は、“差し出す”ことを完全に掌握していた。
もはや「やらされている」ではなかった。
「やっているふり」を、「やらされているふり」ごと演出していた。
命令の一手前で動き、相手の望みを、言葉になる前に掬い上げる。
まるで──自分の意思で喜んでいるように。
「ねえ、ちゃんと撮ってる? 今日の分、素材になるでしょ」
そう言って振り返った遥が、
ほんの一瞬──扉の外にいる日下部と目を合わせた。
その目だけが、笑っていなかった。
虚無でもなかった。
悲しみでもなかった。
──あれは、「あきらめ」だった。
ほんの、ひと欠片の“まだ残っている自分”を、
誰にも気づかれないように、静かに晒した視線。
だが、すぐに逸らされた。
遥は笑って、再び差し出す。
「ねぇ、次は何する? まだ、終わんないんでしょ?」
彼の声に、また誰かが笑い、また誰かが携帯を構える。
そして教室は、静かに閉じていった。
日下部は、扉を閉めることすらできなかった。
ただその場に、立ち尽くしていた。
その指先が、かすかに震えていた。
──「俺は、また……見てるだけだ」
静かに、自分を責める言葉だけが、
胸の奥でゆっくり、沈んでいった。