私は、グレンに支えながら屋敷に入った。
メイドたちが心配そうな顔をしている。
私の様子を案じているようだった。
「お帰りなさいませ、ロザリーさま」
「……ただいま」
メイドの出迎えなど、いつもの出来事だというのに涙が出そうになる。
私は泣きそうになるのを堪えながら、彼女たちに伝える。
「まずはお召し物を変えましょうか」
「お願いします」
「俺は演奏室でピアノ弾いて待ってるよ」
「うん、着替えたら行く」
メイドの提案で、私はドレスから私服へ着替えることにした。グレンが指示していたから、こうなることは予想通りだ。
グレンは行き先を伝え、演奏室に向かった。
このドレスは一人では脱げないから、誰かの手伝いがいる。
「ロザリーさま、このドレスは脱いだら如何いたしますか?」
「保管してちょうだい。屋敷を出る際にまた着るから」
「かしこまりました」
メイドの一人が、ドレスのことについて触れる。
これは屋敷で作ったものではないというのは、分かりきったこと。
すべてが高級品で子爵貴族でも手が届かない高価な生地で作られている。デザイン料を抜きにしても相当な金額が必要だ。
このドレスを処分してしまいたかったが、フォルテウス城へ帰るときに再び着る事になるから取っておかないといけない。
私の部屋に向かう途中、私はメイドにそう指示をした。
「本日のお召し物はこちらでよろしいでしょうか?」
私の部屋に入ると、下着と着替えが用意されていた。
後ろから二人のメイドが入ってくる。
このドレスを脱げるのならなんでもいい。
「それで構わないわ」
私の言葉を合図に、メイドたちは私の背に触れる。
段々と私の身体を締め付けていたものが解かれてゆく。ロザリーに戻れた気がして、心の底から安堵した。
☆
着替えと化粧直しを終えた私は、グレンが待っている演奏室へ向かった。
「ロザリー、すっきりしたか?」
「うん。屋敷の空気がおいしいわ」
私が入ってくるとグレンはピアノの演奏を止め、私の方を向いてにっと笑った。
私は笑顔でグレンに答えた。
「何か弾こうか?」
「お願い」
「リクエストは?」
「グレンが一番好きな曲」
「うわ……、悩むやつじゃねえか」
私は椅子に座りまどろんでいると、グレンがポロンと鍵盤を叩く。
グレンが次に弾く曲に私は抽象的な答えを出した。
グレンは少し考え、指を動かした。
「『可憐な少女』……、意外ね。もっと派手で難しい曲が好きなのだと思ってた」
「俺のことを何だと思ってるんだよ」
「グレンの弾き方、ピストレイさまと似ているから」
「まあ、あの人の曲って曲調すぐ変わるし、難しい旋律にするし、無茶な指番号書いてたり……、難易度高めに設定されてるよな」
グレンが選んだ曲は『可憐な少女』。
ピストレイ作曲集の一曲。
私が編入試験で弾いた『熱情』よりもテンポが遅く、旋律が少女のおしゃべりのように聞こえる曲だ。
難しい曲が多いピストレイ曲集の中でも比較的簡単な曲。
グレンの事だから、もっと演奏技術を披露できる曲を選ぶと思っていたのに。
率直な意見を述べると、グレンはくすっと笑った。
私と話していても、鍵盤を叩く指は止まらない。
(喜んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったりする感情豊かな女の子、そう、お姉さまのような)
私は目をつむって、グレンが奏でる旋律に耳を澄ませる。
この楽曲を聴いて、浮かんだのはマリアンヌだった。
曲が終わり、私はパチパチとグレンに拍手を贈る。
「流石ね」
グレンの演奏は完璧だった。
「あの……、グレンは魔法の才能があったのに、どうしてピアノを弾き始めたの?」
「うーん」
私は疑問をグレンにぶつけた。
グレンが本名をメへロディ貴族の前で告げたさい、一部の人達が『紅蓮の魔術師』『最年少国家魔術師』と囁いていた。
その噂が本当であれば、グレンは魔法の道を極めていたことになる。
私は魔法のことはからきしだが、ピアノやヴァイオリンの奏法を初歩から積んでゆくように、体得するのに相当な訓練が必要だったに違いない。
魔法の才能があり、極めたグレンがピアノを弾くきっかけはなんだったのだろうか。
私の問いに、グレンは腕を組んで悩んでいた。
「魔法が嫌いになった」
「えっ!?」
理由を一言で片付けた。
「……戦争」
「この間までマジル王国としていたのよね」
「家出してなければ、俺はあの戦争に駆り出されてた」
「あっ」
「ソルテラ伯爵が終わらせてくれたみたいだけどな」
チャールズがグレンに忠告していた戦争。
それは私が課題曲の練習をしていたうちに勝敗がついた。
決着はカルスーン王国で最強の魔術師と呼ばれるソルテラ伯爵が、戦場に強大な魔法を放ったことで、カルスーン王国の勝利で終わった。
「開戦の噂は家出する前から囁かれてた」
「……」
「メへロディ王国に家出してなければ、俺は前線で沢山のマジル兵士を焼き殺してただろうな」
グレンの一言で私は背筋が凍った。
”紅蓮”と二つ名が与えられるほどだ、グレンが扱う火の魔法は強大に違いない。
私にとって”火”は部屋を照らしたり、料理につかったり、湯を沸かしたりする身近なものだ。
しかし、グレンにとって、火は人を殺す手段。
きっとグレンの火の魔法を食らった人は、即死なのだろう。
「ピアノは家出するための手段。親に隠れて一年で習得したよ」
「一年!?」
グレンがピアノ習得に費やした期間は一年。
しかも、ずっとピアノに触れていたわけではなく、家族に隠れて学んだという。
「俺が生でピアノの演奏を聴いたのは、ガキの頃に聴いたピストレイ子爵の演奏だけ」
「だからピストレイ子爵の音色を真似たの?」
「まあな」
私はピアノで有名な楽曲を弾けるようになるまで三年はかかった。
それをたった一年で、トルメン大学校の音楽科で特待生をとれるほどの実力にするなんて。
天才。
グレンにはその言葉が似合う。
「けど、カルスーン王国に帰るんだから、ただの特技の一つになるな」
「帰る……? トルメン大学校を中退するの?」
「居場所がバレちまったし、ロザリーを誘拐してるんだぞ。処刑は免れたとしても、国外追放されるだろ」
「グレンは――」
私の願いを叶えてくれた代償があまりにも大きすぎる。
グレンがカルスーン王国へ帰ったら、ピアノを弾く機会はぐんと減るだろう。
紅蓮の魔術師として、人を傷つける魔法を使い続ける。
「魔法とピアノ、どっちを続けたいの?」
私はグレンに問う。
魔法とピアノ。
この質問は、祖国とメヘロディ王国どちらに残りたいか訊いているようなものだ。
グレンの顔は歪み、くしゃくしゃな表情で答えた。
「ピアノ……、続けてえよ」
グレンが胸の内に隠していた思いが、今、語られる。