テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
1件

第二十五章 呼ばれた名前
夜。
街は、別の顔をしていた。
昼間はただの通りだったはずの場所が、ネオンの光に縁取られ、どこか現実から切り離されたように浮かび上がっている。
夜の街は互いを干渉しない。
事情を抱えた者たちが集うそんな場所で〝繕った自分〟と〝現実の自分〟とが交錯する。
湿った空気。
香水とアルコールの匂い。
笑い声が、軽く弾けては消えていく。
翔太💙「遅くなってすいません」
低い声。
昼間とは違う、抑えたトーン。
「今日はホールだっけ?」
トレイに乗せたグラスが、小さく触れ合って音を立てる。
翔太💙「いや……出来ればあれはもう……」
カラン。
氷が揺れる。
視線を落としながら、人の隙間をすり抜ける。
ぶつからないように、こぼさないように、目立たないように。
――覚えるのは、簡単だった。
顔を上げなければいい。
それだけで、ここでは“存在しない側”になれる。
視線が合わなければ、名前も、記憶も、残らない。
ただの〝動き〟として消えていく。
――それが、一番楽だった。
「おーいボーイ」
翔太💙「はい」
呼ばれて、すぐに動く。
考えるより先に、身体が反応する。
グラスを下げ、灰皿を替え、テーブルを拭く。
同じ動作の繰り返し。でも、止まらない。
止まれば、考えてしまうから。
「今日ユキ出ないの?」
一瞬だけ、手が止まる。
翔太💙「……本日は出てません」
「えー人気なのに」
翔太💙「人手足りないときだけなんで」
軽く流す。
それ以上、会話を続けない。
――嘘じゃない。
バックヤード。
積み上げられた空き瓶。
ガラス同士がぶつかる、乾いた音。
カン、
カン。
俺は無言でそれを持ち上げる。
重い。
華奢な腕がプルプルと震えた。でも、その重さが、少しだけ楽だった。考えなくて済むから。
「今日出ろって言われた?」
後ろから声。
翔太💙「断りました」
「美人なのにもったいねぇな」
翔太💙「……」
返さない。
返したら、何かが崩れそうだった。
何度か、足りない日にだけ、“ゆき”として表に出されたことがある。
笑えばいい。
近づけばいい。
触れればいい。
それだけで、成立する。
時給もいい。
――でも。
あれは、長くやるものじゃない。
そう思っていた。
裏口の扉を開けると外気が流れ込み、店内の熱を一気に冷ます。深く息を吸う。
アルコールじゃない空気。
少しだけ、現実に戻る。
昼間の仕事よりは、ずっと向いている。
なりたかったモノとなれなかったモノ。
理想と現実。
誰かの為だと思えれば頑張れるし、辛いなんて思わない。
決して綺麗な空気じゃない。
排水口から漂う嫌な匂い。でもこれが現実で、今の俺にはここの空気の方がお似合いだった。
空き瓶をケースに入れる。
一つ、また一つ。
手元だけを見て、淡々と。
――そのとき。
視線。背中に、刺さるような感覚があって手を止めた。
ゆっくり、振り返ると街灯の影。その奥に見覚えのある細いシルエット。
ラウ子🤍「……ふーん」
軽い声。
でも、どこか、確信を含んでいた。
翔太💙「……」
ラウ子は一歩だけ近づく。
ヒールの音が、やけに響いた。
コツ。
ラウ子🤍「そっちなんだ」
視線が、翔太の手元に落ちる。
空き瓶。
ラウ子🤍「へぇ」
少しだけ笑う。
ラウ子🤍「似合ってる」
翔太💙「……違います」
反射的に出た言葉に、ラウ子は首を傾げた。
ラウ子🤍「どっちが?」
一歩、距離を詰める。
ラウ子🤍「こっち?」
空き瓶を指す。
少し間。
ラウ子🤍「それとも――」
視線が、ゆっくりと持ち上がる。
ラウ子🤍「“ユキ”?」
――“ゆき”。
その名前を呼ばれるたびに、少しだけ、自分じゃなくなる。
最初は、ただの手伝いだった。
「今日、人足りねぇから出て」
軽い一言で、逃げ場なんてなくて、答えを待つより先に渡されたドレスは、思ったよりも軽くて、
――なのに、指先が、震えた。
鏡の前。見慣れない自分が、そこにいた。
翔太💙「……なに、これ」
嫌だ。
笑えない。
うまく立てない。
ヒールの高さに、足元が揺れる。
「大丈夫、大丈夫。立ってるだけでいいから」
軽く言われて、でも、それが一番、難しかった。
視線。まとわりつくような、知らない男たちの目。
「可愛いじゃん」
「新人?」
「名前は?」
翔太💙「……ゆき、です」
その名前を口にした瞬間、少しだけ、何かが切り離された。
触れられる距離。
笑わなきゃいけない距離。
逃げられない距離。
昼間と同じだった。うまくなんて、できなかった。
でも――
「この子いいな」
「なんか、そそる」
「また呼ぶわ」
理由は分からない。
でも、なぜか、求められた。
うまくできているわけじゃないのに。
ただ、戸惑っているだけなのに。
――それでも。
必要とされる場所があるなら、それでいいと、思ってしまった。必要とされているのは俺じゃない〝ユキ〟だった。
あの〝雪うさぎ〟と呼ばれた日。
先生たちから〝ユキ〟として求められた……。
また、そこでも選ばれたのは〝ユキ〟だった。
翔太💙「……」
言葉が出ない。
ラウ子は小さく笑った。
ラウ子🤍「あっちの方が向いてるのに」
軽い調子。
でも、逃げ場はない。
ラウ子🤍「〝ユキ〟の方が売れるでしょ」
決めつけるみたいに。
売り物のように。
翔太💙「……関係ないです」
ラウ子🤍「あるよ」
即答。
その声に、迷いはなかった。
ラウ子🤍「いつから?」
翔太💙「……」
答えない。
ラウ子はそれ以上聞かない。
ラウ子🤍「帰り、何時?」
翔太💙「……」
沈黙。
ラウ子は、少しだけ肩をすくめた。
ラウ子🤍「じゃあ」
くるりと背を向ける。
コツ、
コツ。
ラウ子🤍「待ってる」
それだけ。
振り返らない。
翔太💙「……は?」
意味が分からない。
でも、その言葉だけが、やけに残った。
――店内。
また同じ音、同じ光。同じ笑い声。
翔太は動く。
さっきと同じように。
でも、少しだけ違った。
手元が、わずかに狂う。
グラスが、小さく鳴る。
カラン。
「大丈夫?」
翔太💙「……すいません」
視線を落とす。
戻る。
いつもの位置へ。
“存在しない側”へ。
でも、完全には戻れなかった。
――帰り道。
夜はもう、終わりかけていた。
ネオンが消え始める。
街が、元の顔に戻っていく。
翔太は歩く。少し早足で。
ヒールじゃない靴音。
それでも、どこか、追われている気がした。
翔太💙「……待ってるって、なに」
小さく呟く。
答えはない。
ただ、足が止まらない。
寮の門が見える。
灯りが、やけに明るい。
現実に引き戻されるみたいに。
自然と手は鞄に。
雪うさぎ。
それを握ると少しだけ、呼吸が整う。
翔太💙「……」
大丈夫。
そう思った。
思おうとした。
――ドアの前。
鍵を取り出す。
一瞬、嫌な予感がして手が止まる。
理由はない。
でも、確かにあった。
鍵を差し込む。
カチャ。
ドアを開ける。
――暗い。
電気をつける。
その瞬間。
「おかえり」
ソファに、足を組んで座っていた。
ラウ子🤍「遅かったね」
大事な雪うさぎの人形を胸に抱いていた。
翔太💙「……それ、返して」
声が、少しだけ掠れた。
ラウ子は動かない。
雪うさぎを、指先で撫でる。
翔太の喉が、詰まる。
一歩、踏み出したものの、それ以上、近づけなかった。
ラウ子🤍「これ、大事なんだ」
問いじゃなかった。確認するように言った。
翔太💙「……」
答えられない。
ラウ子は小さく笑った。
ラウ子🤍「じゃあ」
その一言で、
大事な物を
大事な場所を
自分だけの空間を
壊された気がした。
ラウ子🤍「交換しよっか」
翔太💙「……は?」
理解が、追いつかない。
ラウ子は、雪うさぎを軽く持ち上げる。
ラウ子🤍「これ、返してほしいんでしょ」
指先で、耳を撫でる。
まるで、価値を確かめるみたいに。
翔太💙「……返してよ。触らないで!」
一歩、近づく。
でも、それ以上は、踏み込めない。
ラウ子🤍「いいよ」
あっさりとした声。
その軽さが、逆に怖かった。
ラウ子🤍「その代わり」
少しだけ、首を傾ける。
ラウ子🤍「“ユキ”、貸して」
――息が、止まる。
翔太💙「……っ」
ラウ子🤍「一回でいいから」
ラウ子🤍「ちゃんと、使わせてよ」
“使う”という言葉が、やけに重く落ちる。
翔太💙「……違います」
否定が、遅れる。
ラウ子🤍「違わないでしょ」
即答。
ラウ子は、ゆっくり立ち上がる。
響くはずのない音。
コツ、コツ。
逃げ場を塞ぐみたいに、距離が縮まる。
ラウ子🤍「あっちで働いてるのも、夜いなくなるのも」
ラウ子🤍「全部、繋がってる」
視線が、絡む。ほどけない。
ラウ子🤍「ねぇ」
少しだけ、声が落ちる。
ラウ子🤍「どっちが楽?」
間。
ラウ子🤍「何も見られない方と」
雪うさぎを、軽く揺らす。
ラウ子🤍「欲しがられる方」
心臓が、うるさい。
答えられない。
ラウ子は、くすっと笑った。
ラウ子🤍「ほら」
ラウ子🤍「もう分かってる顔してる」
――違う。
そう言いたいのに、言葉が出ない。
ラウ子🤍「大丈夫」
やけに優しい声。
ラウ子🤍「壊したりしないから」
ラウ子🤍「だって、守りたいものあるでしょ」
指先が、雪うさぎから離れる。
でも、まだ返さない。
ラウ子🤍「そういうのある人、簡単に壊れないから」
ラウ子🤍「ちゃんと、扱うよ」
その言い方が、一番、怖かった。
ラウ子🤍「どうする?ユキちゃん」
選ばせる声。
でも、逃げ道は、なかった。
――妹の顔が、浮かんだ。
〝お兄ちゃん大好き〟
無邪気に、笑っていた。
――あの頃みたいに。
――名前を呼んでくれる誰かがいれば、よかった。
翔太💙「しょうた……翔太だよ」
――そう言わないと、
消えてしまいそうだった。