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#そのじん
のりもちさん
361
1,897
仁人side
少しずつ。
本当に。
少しずつだった。
まだ。
勇斗の隣に。
何も考えずいられるわけじゃない。
不意に距離が縮まれば。
身体が強張ることもある。
それでも。
前よりは。
近くにいられるようになった。
昨日だって。
自分から。
勇斗との距離を縮めた。
隣までは。
行けなかったけれど。
それでよかった。
急がなくていい。
今日できなければ。
また明日。
少しずつ。
身体の方にも。
目の前にいるのは勇斗だと。
分かってもらえばいい。
そう思えるくらいには。
仁人も。
前を向けるようになっていた。
だから。
この日も。
普通に仕事をしていた。
朝から何事もなく収録を終えて。
次の現場へ向かう。
いつもの一日だった。
何も。
起きないはずだった。
「次って何時だっけ?」
「三十分後やったと思う」
隣を歩く大智が答える。
「じゃあ、ほぼ休憩ないじゃん」
「移動あるからな」
「腹減った」
「知らんがな」
「何でだよ」
大智が笑う。
仁人も笑った。
廊下には。
人が多かった。
スタッフ。
関係者。
知らない人も。
何人も行き交っている。
前から来た人を避けて。
また歩く。
そんなことを。
何度繰り返したか分からない。
だから。
その人も。
最初は。
ただの一人だった。
何となく。
視界に入っただけ。
そのまま。
すれ違うはずだった。
「……」
仁人の足が止まった。
大智は気づかず。
二、三歩先へ進んでいく。
仁人だけが。
そこに残った。
前から歩いてくる男。
誰かと話している。
まだ。
横顔しか見えない。
それなのに。
胸の奥が。
嫌な音を立てた。
違う。
似ているだけ。
こんなところに。
いるわけがない。
仁人は。
もう一度歩こうとした。
大智に追いつけばいい。
そのまま。
次の現場へ行けばいい。
でも。
足が出なかった。
男が笑った。
その声が。
耳に入った。
「……っ」
喉が詰まった。
忘れるわけがなかった。
けど、忘れたかった。
何度も。
忘れようとした。
それでも。
耳の奥から消えてくれなかった声。
男が。
こちらを向いた。
目が合った。
その瞬間。
全部。
分かった。
間違いない。
あの日の男だった。
「……」
息が。
止まった。
男も、仁人に気づいた。
目が合ったまま。
ほんの僅かに。
口元が上がる。
それだけだった。
何も。
されていない。
距離だってある。
それなのに。
身体が。
勝手に一歩下がった。
逃げろ。
そう思った。
ここから。
離れなければ。
なのに。
足が動かない。
視界には。
廊下がある。
人もいる。
明るい。
あの日とは。
何もかも違う。
それなのに。
一瞬。
分からなくなった。
掴まれた腕。
逃げようとしても。
離れなかった手。
身体に触れられた感覚。
嫌だと言った。
やめろと言った。
離せと言った。
それでも。
終わらなかった。
「……っ」
息を吸う。
入ってこない。
もう一度。
「……っ、は……」
おかしい。
息をしているはずなのに。
足りない。
胸が苦しい。
仁人は。
口元を押さえた。
落ち着け。
ここは。
あの日の場所じゃない。
人がいる。
大智も。
すぐそこにいる。
大丈夫。
普通に。
歩けばいい。
一歩。
足を出そうとした。
その瞬間。
膝から。
力が抜けた。
「……っ」
咄嗟に。
壁へ手を伸ばす。
届かなかった。
片膝をついて。
そのまま。
床へ手をついた。
「……はっ……は……っ」
息が。
どんどん速くなる。
駄目だ。
立て。
ここ。
廊下だ。
人がいる。
仁人は。
床についた手に力を入れた。
立とうとする。
でも。
腕が震える。
身体を。
支えられない。
もう片方の手も。
床についた。
「……っ、は……は……」
顔を上げられない。
床しか。
見えなかった。
自分の呼吸だけが。
やけに大きく聞こえる。
人の気配がする。
誰かが。
こちらを見ている。
それに気づいた瞬間。
余計に。
息が苦しくなった。
「……っ」
お願いだから。
誰も。
見ないで。
何も。
聞かないで。
「仁人?」
声がした。
身体が。
一瞬強張った。
でも。
その声は。
分かった。
勇斗だった。
「仁人」
さっきより。
少し近い。
仁人は。
顔を上げられなかった。
勇斗が。
少し離れたところでしゃがむ。
「俺、分かる?」
返事をしたかった。
分かる。
勇斗だ。
ちゃんと。
分かっている。
でも。
「……っ、は……」
呼吸しか。
出てこなかった。
勇斗が。
周囲を見る。
そのとき。
仁人も。
人の気配に気づいた。
誰かが。
こちらを見ている。
「どうしました?」
スタッフの声。
嫌だ。
仁人は。
さらに俯いた。
見ないで。
何も。
聞かないで。
「大丈夫です」
勇斗の声だった。
落ち着いていた。
いつもと。
何も変わらない。
「ちょっと体調悪そうなんで。俺、連れていきます」
「大丈夫ですか?」
「はい。少し休めば大丈夫だと思います」
そう言って。
勇斗が。
仁人と周囲の間へ入った。
隠すように。
人の視線から。
仁人を庇うように。
「仁人」
小さな声。
「ここだと人来るから。ちょっと移動しよ」
無理。
立てない。
言いたいのに。
声にならなかった。
勇斗は。
少し黙った。
それから。
「ごめん。触るね」
次の瞬間。
肩に。
腕が回った。
「……っ!」
身体が。
大きく跳ねた。
考えるより先に。
勇斗から離れようとする。
「……や……っ」
呼吸が。
また乱れた。
身体のすぐ横に。
大きな身体の気配。
肩に回された腕。
その近さだけで。
あの日の感覚が。
一気に蘇えった。
「仁人」
耳元で。
声がした。
「俺だから」
「……っ」
「大丈夫だよ」
身体が。
止まった。
声。
知っている。
何年も。
聞いてきた声。
好きな人の声。
「大丈夫」
勇斗は。
腕に力を入れない。
掴まない。
無理に。
引き寄せない。
ただ。
倒れないように。
支えている。
「何もしないから」
仁人は。
浅い呼吸を繰り返した。
怖い。
まだ。
怖い。
でも。
違う。
あの人じゃない。
勇斗だ。
来るなと言えば。
止まってくれた。
触れないでほしいと分かってから。
一度も。
勝手に触れなかった。
ずっと。
自分が近づけるまで。
待ってくれていた人。
「……勇、斗……」
「うん」
すぐに。
返事があった。
「……っ、は……」
「いるよ」
仁人の指が。
動いた。
勇斗の服に触れる。
そのまま。
掴んだ。
自分から。
「……」
勇斗は。
何もしなかった。
腕の力も。
強くならない。
仁人が服を掴んでも。
ただ。
そこにいる。
それだけだった。
仁人は。
もう一度。
勇斗の服を握り直した。
「立てそう?」
分からない。
足は。
まだ震えている。
それでも。
ここには。
いたくなかった。
仁人は。
小さく頷いた。
「ゆっくりね」
勇斗が。
身体を起こす。
仁人も。
床から手を離した。
膝が震える。
身体が傾きそうになって。
また。
勇斗の服を掴んだ。
「大丈夫」
一歩。
足を出す。
勇斗も。
同じだけ動く。
肩にある腕は。
まだ怖かった。
身体は。
完全には力を抜けない。
それでも。
「大丈夫」
勇斗の声がする。
そのたび。
仁人は。
その声を追った。
人の少ない場所まで来ると。
勇斗は。
すぐに腕を離した。
急に。
身体が軽くなる。
仁人は。
壁に手をついた。
そのまま。
しゃがみ込む。
「……っ、は……」
まだ。
呼吸は戻らない。
勇斗も。
少し離れたところにしゃがんだ。
今度は。
触れない。
「仁人」
顔を上げる。
勇斗しか。
いなかった。
「俺見て」
仁人は。
勇斗を見る。
見慣れた顔。
怖くない。
「大丈夫。ゆっくりでいいよ」
息を吸う。
うまく。
入らない。
「急がなくていいから」
もう一度。
吸う。
今度は。
少しだけ入った。
吐く。
「そう」
勇斗の声を聞く。
もう一度。
吸う。
吐く。
何度か繰り返すうちに。
少しずつ。
呼吸が長くなっていった。
震えは。
まだ残っている。
仁人は。
壁に背を預けた。
勇斗が。
目の前にいる。
少し離れたところ。
仁人が。
平気な距離に。
「……勇斗」
「ん?」
仁人は。
自分の肩を見る。
さっきまで。
勇斗の腕があったところ。
「……ごめん」
「何が?」
「さっき……」
言葉が。
少し詰まった。
「触られたとき、逃げた」
あれだけ。
勇斗は違うと。
自分に言ってきたのに。
結局。
身体は。
勇斗から逃げようとした。
「別にいいよ」
勇斗は。
何でもないみたいに言った。
「急に触ったの俺だし」
「でも……」
「人集まりそうだったから」
少しだけ。
間を置いて。
「ごめん」
仁人は。
何も言えなかった。
謝るのは。
勇斗じゃない。
勇斗は。
自分が嫌がると分かっていて。
それでも。
あそこから連れ出すために。
触れた。
誰かに見られて。
何があったのか聞かれる前に。
人のいないところへ。
連れてきてくれた。
仁人は。
自分の手を見る。
まだ。
少し震えている。
でも。
その手で。
さっき。
勇斗の服を掴んだ。
触れられた瞬間は。
怖かった。
あの日が。
一気に戻ってきた。
それでも。
勇斗の声を聞いて。
自分から。
勇斗を掴んだ。
昨日。
何度も思った。
勇斗は。
怖くない。
身体が。
まだ分かってくれないだけ。
今日。
やっと。
ほんの少しだけ。
身体にも。
届いた気がした。
「……勇斗」
「ん?」
「もうちょっと……そこいて」
勇斗は。
何も聞かなかった。
「うん」
それだけだった。
仁人は。
目を閉じる。
少し前まで。
勇斗が近づくだけで。
身体が強張った。
今日だって。
触れられた瞬間。
あの日に。
引き戻されかけた。
それでも。
勇斗の声は。
ちゃんと分かった。
『俺だから』
あの言葉が。
ちゃんと。
届いた。
怖かった。
今も。
まだ震えている。
それでも。
あの人と。
勇斗は。
違う。
頭だけじゃなく。
少しずつ。
身体の方も。
分かり始めている。
仁人は。
壁に背を預けたまま。
もう一度。
ゆっくり息を吐いた。
目の前には。
勇斗がいる。
今は。
それだけでよかった。
コメント
1件
第8話読み終わった……😭💕 仁人が過去のトラウマの相手と偶然遭遇してパニックになるところ、胸がギュッてなったよ。でも勇斗が駆けつけて「俺だから」って言うシーンがもう、エモすぎて泣いた……。自分から勇斗の服を掴んだ仁人の小さな一歩、尊すぎる😭✨ 少しずつでも前に進んでる感じが伝わってきて、続きが気になりすぎるよ〜!