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第3部 非公開
第13章 窓口
一月六日。仕事始めの朝、舜太は、会議室で仁人と向き合っていた。
「勇斗さんから正式に来た。独占交渉期間を一か月延ばしたい、と」
仁人が、書面を机に置いた。延長覚書。独占交渉の期間を延ばすという内容の、追加の合意書だ。契約の本体は変えずに、期間だけを書き換える。
「理由は?」
「追加調査が、終わらない。ヴェルディエの社内手続きも、年明けで遅れている」
「うちの側の損は」
「実害はない。他に買い手はいないからな。……ただ、現金は、待ってくれない」
仁人は、タブレットを開いた。赤い線が、年末より、さらに一段下がっている。
「延ばすなら、その間に、結論が出せる形にしておきたい。売るのか、売らないのか。売らないなら、資金は別の手で作る」
「別の手」
「融資をもう一度。返す責任が増える。それと、ヴェルディエの提示は桁が違う」
舜太は、赤い線を見た。それから、意向表明書の数字が書かれた、あの一枚を見た。
売る気はない。それは、変わらない。ただ、降りる線を、もっと正確に引くためには、時間が要る。
「一か月だけや」
「ああ」
「それ以上は、延ばさん。二度目は断る」
「分かった」
舜太は、ペンを取り、延長覚書に署名した。代表取締役の欄に、自分の名前を書く。
日々の契約は、ほとんど仁人が、一人で結んでいる。代表取締役の署名が要るのは、大きな契約だけだ。この署名だけは、自分でしたかった。理由は、分からなかった。
「柔太朗には、延長のことを伝えておくか」
「俺から言う。数字の話は、俺のほうが聞きやすいやろ」
「……そうだな」
「勇斗さんに、送っておく」
仁人が、書面を受け取って、会議室を出ていった。背中が、少し、疲れて見えた。
午後、受付の社員が、舜太のデスクに、封筒を持ってきた。
「パリからの、国際郵便です。宛名が、柔太朗さんなんですが……窓口は、舜太さんと伺っていたので」
封筒は、厚手の生成りの紙だった。手書きの宛名。「柔太朗様」の下に、小さく「Lueur気付」と、たどたどしい日本語で書かれている。
裏を返す。差出人の名前に、覚えがあった。
あの女性だ。ヴェルディエ傘下のメゾンの、クリエイティブ・ディレクター。
「ありがとう。預かる」
舜太は、封筒を受け取った。受付の社員が去っていく。
封筒は、思ったより軽かった。
柔太朗宛だ。開けるべきではない。そう思った。同時に、別の声が頭の中で言った。
窓口は、自分だ。買収の交渉中に、相手グループから届いた宛名つきの書類。中身を確認せずに渡すのは、経営者として無責任だ。
窓口としての確認だ。
舜太は、ペーパーナイフで封を切った。
中には、二つあった。
一つは、手書きの手紙。青いインクの、流れるような筆跡。もう一つは、A4の書類が数枚。
先に、書類を見た。
共同制作の提案書。コラボレーションとは、名前を並べて、共同で作品を発表することだ。会社を買うのとは、別の話。二つの作り手が、互いの名前を残したまま、一つのコレクションを作る。
提案は、具体的だった。半年間の共同コレクション。パリの工房での三か月の滞在。制作の自由。契約は、買収とは、完全に切り離す。
そして、書類の最後に一行。
『この提案は、Lueurの買収の成否にかかわらず、有効です』
舜太の指が、その一行の上で止まった。
手紙は短かった。
あなたに会えて、嬉しかった。私は、会社の人間としてではなく、ひとりの作り手として、この手紙を書いています。あなたの余白を、あなたの手で埋めるところを見たい。それは、買収がなくても、できることです。
舜太は、二度、読んだ。三度目は、読むというより、その一文を見ていた。
あなたの余白を、あなたの手で埋めるところを見たい。
世界が、柔太朗を、見つけている。舜太が、最初に望んだことだった。この才能を、世の中に知らしめたい。見せる責任がある、と。
それが、現実に起きている。
起きているのに、胸の底のどこかが冷えていた。
理由は、いくらでも並べられた。
買収の交渉中に、相手グループの人間が、こちらの中心人物に直接オファーを出す。これは、引き抜きに近い。引き抜きとは、他社の人材に直接声をかけて、引き入れることだ。交渉の前提を、外から崩す行為になる。受け入れれば、独占交渉の意味が揺らぐ。
柔太朗の制作も、乱れる。パリでの三か月は、新作を止める。舜太が、数字で示したあの四割の話だ。
そして何より、柔太朗のキャリアのために。
他社の看板を背負う前に、Lueurの名前をもっと強くする。そのほうが、柔太朗の価値は、長く、大きくなる。
正しい、と舜太は思った。全部、正しい。
返信の文面を、書く。会社名義で。
『貴重なご提案を、ありがとうございます。現在、弊社は正式な手続きの最中にあり、個別のご提案をお受けする状況にありません。また、柔太朗は制作に専念しており、当面、社外のプロジェクトへの参加は難しい状況です。何卒、ご理解ください』
丁寧だった。断りの言葉としては、完璧だった。
送信する前に、もう一度、手紙を見た。
送信した。
それから、手紙と提案書を、封筒に戻した。机の、いちばん下の引き出しを開ける。中は、ほとんど空だった。封筒を、そこに置く。鍵をかける。
かちり、と小さな音が鳴った。
その音が、思ったより、大きく聞こえた。
「舜太」
背後から、声がした。
仁人が、立っていた。
「今、いいか」
「ああ。何や」
「さっき、受付から聞いた。柔太朗宛の国際郵便が、届いたと」
舜太の背中が、一瞬、固まった。
「ああ」
声は、自然に出た。出た、と思った。
「ただの広告や。パリの、展示会の案内。宛名が柔太朗になっとったから、一応、預かっとる」
仁人は、じっと、舜太を見た。
三秒。
「……そうか」
仁人は、それだけ言った。それ以上は、聞かなかった。
舜太は、その沈黙の意味を考えなかった。考えようとする前に、仁人が、踵を返して去っていった。
夜九時、アトリエの前の廊下で、舜太は柔太朗を待っていた。
一日の作業を終えた柔太朗が、扉から出てくる。指先に、磨き粉の跡。髪に、細かい銀の粉が光っている。
「舜。待ってたの」
「ああ。帰るやろ。送る」
「うん」
並んで歩き出す。廊下の窓に、冬の夜が映っている。
「ねえ、舜」
柔太朗が、言った。
「パリの人から、その後、何か来てない?」
舜太の足が、一歩、遅れた。
「……何で」
「なんとなく。あの人、あのあとも、何か言ってきそうな気がして」
柔太朗は、前を向いたまま歩いていた。声は静かだった。いつもと同じ調子だった。
答えは決まっていた。あの引き出しの中に、答えがある。
「何も」
舜太は、言った。
「来てへん。正式な窓口を通した連絡は、ない。来たらすぐ言う」
嘘は、驚くほど、滑らかに出た。
柔太朗は、そこで足を止めた。
舜太を見た。
涼しい目元が、じっと動かなかった。街灯が、その目に、白く映っていた。柔太朗は、右手をそっと持ち上げて、指輪に触れた。
「……そう」
それだけだった。
責めなかった。疑う言葉もなかった。ただ、その目が、舜太の顔の何かを探していた。舜太は、笑った。優しく、完璧に。
「ほんまや」
「うん」
柔太朗は、また、歩き出した。
しばらく、二人の靴音だけが、廊下に響いた。柔太朗は、一度も、舜太のほうを見なかった。
柔太朗を送って、オフィスに戻った。誰もいない、暗いフロア。
舜太は、いちばん下の引き出しの前に、しゃがんだ。
鍵に指を触れる。冷たかった。
隠していることが、二つになった。
契約案と、この封筒。
今度は、数えてしまった。
コメント
1件
うわああ第14話、読み終わったけど胸がぎゅうってなったよ…😭💔 舜太が嘘をつくシーン、あの「滑らかに出た」って一文が刺さりすぎる。柔太朗の「……そう」の静けさと、指輪に触れる仕草、地味にエモすぎて何度も反芻しちゃった。 「隠していることが二つになった。今度は、数えてしまった」で完全に涙腺崩壊した…!この先どうなるの、もう待ちきれないよ〜!(200字ピッタリ!)