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風邪から回復した火曜日の朝、いつものように分厚い眼鏡をかけ、地味なスーツを着て出社すると社長に呼ばれた。
「今からここに急いで行ってくれないか?」
「えっ……?でも今朝は会議の準備が……」
「大丈夫だ。すでに五十嵐さんに話してある」
渡された住所を見て少し不思議に思いながらも、急いで会社を出た。こんなに急ぎの用事とは一体何なのだろう?
着いてみるとそれはスーツなどを売っている専門店で、社長が新しいスーツでもここでオーダーしているのかと思いながら中に入った。
「あの、桐生クリエーションの七瀬ですが……」
「七瀬様ですね。お待ちしておりました」
女性が何人か出てきて、奥の部屋へと案内される。通された部屋は試着室のようなところで、女物のスーツを何着も渡された。
「……あの、これ何ですか?」
渡されたスーツを呆然と手に持ちながら、店員に尋ねた。
「こちら全て桐生様からのご指示で、七瀬様用のスーツをご用意しています。さあ、時間がありませんので急いで試着してください」
「えっ……、ええっ!?」
混乱している私を試着室に押し込むと、次々とスーツを渡して試着するように言った。スーツはどれも素晴らしいもので、サイズもぴったりだ。しかもとても上品でいかにも社長の秘書らしいスーツだ。
最後に試着したスーツは着たままで試着室を出ると、今度は大きな鏡があるところに通される。そこで分厚い眼鏡を取り除かれ、化粧やヘアアレンジを施される。
化粧は私がいつもしているような少し控えめだが、大きな目が強調されるようなナチュラルメイクで、長い髪は巻いて後ろにふわりとまとめられ、スーツと合った清潔感あるスタイルになっている。最後にシンプルだが美しいダイヤのネックレスを私の首にかけた。
「あ、あの、これお支払いはどうしたら……」
私は次々と箱に詰めていかれるスーツを見ながら青ざめた。しかも首にあるこれは絶対に本物のダイヤだ。これ一体全部でいくらするんだろう……
「それなら大丈夫です。すでに桐生様から全ていただいていますので」
「ええっ!?」
そんな驚いている私を尻目に、どんどんと箱を積み上げていく。
「こちら残りは全て七瀬様のご自宅に配送しますね。では、急いで会社にお戻りください。すでにタクシーを待たせてありますから」
そう言って私をタクシーに押し込めると、満面の笑みを浮かべて「ありがとうございました」とお辞儀した。
混乱したまま会社に戻ると、受付を通り過ぎたところから、皆私のことを口を開けて見つめている。そのまま落ち着きなく秘書室まで戻ると、五十嵐さんが私を見て嬉しそうに微笑んだ。
「七瀬さん、とっても似合ってるよ。やっぱりこっちの方がずっと君らしいよ」
五十嵐さんが心から喜んでくれているのがわかって心がじわりと温かくなる。
「ありがとうございます。あの、午後からの会議の準備は?」
「大丈夫、全部終わったから。社長がお待ちだから行っておいで」
私は五十嵐さんにお礼を言うと社長室のドアをノックした。
「どうぞ」
低い声が聞こえ、緊張した面持ちで中に入ると社長は顔をあげてじっと私を見つめた。
「とても似合ってるよ」
「あの、社長、スーツとネックレスありがとうございます。でも、どうして……?」
彼はゆっくりと椅子から立ち上がると、私の方に歩いてきた。
「蒼はこれからは自分を隠したりしないで堂々と生きればいいんだ。もう誰も君を傷つけさせたりはしない。必ず俺が守る」
そう言って私の胸に輝くダイヤのネックレスを指でなぞった。つっと指で触れたところが熱くなる。
「今日の午後の会議にはこの服装のまま一緒についてきてメモをとってくれ」
そう言うと彼は机に戻り再び仕事を始めた。
その日の午後、会社のそれぞれのプロジェクトの進行状況の報告を兼ねた会議に社長と一緒に出席した。
私のこの格好を見て初めは皆驚いたように一瞬目を見開いたが、その後は特に何でもなかったように会議が進む。いつもだったらジロジロと男性から見られるのにそのような事が全くない。
その後、何日も経つが結局誰も私の姿を気にする人は一人もおらず、私は平和に仕事を続ける。あれだけ高嶺コーポレーションでセクハラや嫌がらせを受けていたのが嘘のようだ。
やっぱり、あの会社が異常だったのかも。普通はこの会社のように特に私が心配するような事は何もないのかもしれない。
「七瀬さん、その格好すごく似合ってる」
久しぶりに経理の姫野さんとお昼をした私は、彼女にそう褒められて赤くなった。
「ありがとう。ごめんね、なんだか騙すような事をしちゃって。でもあの格好には色々とわけがあったの」
そう姫野さんに申し訳なくて謝った。
「まあ想像はつくよ。いつもわざと不似合いの洋服とか分厚い眼鏡とかかけてたから、何か理由があるんだろうなとは思ってたの」
姫野さんは特に気にしていないような様子で私に言った。
「実は前の会社で色々とあって、それであんな格好をして出社してたの。でも心配しすぎてたみたい。きっと前の会社が特別変だったのかも。だってこの格好で来ても、この会社では誰もセクハラも嫌がらせもしてこないし」
私の言葉に、姫野さんはふふっと急に笑った。
「そうね。それもあるけど、一番大きかったのは社長からセクハラや女性に対する差別は厳罰、最悪はクビになるって社内通知があったのが大きいんじゃないかな」
「えっ……?」
「女子社員も、もし自分が少しでもセクハラだと感じた場合は必ず報告するようにって言われてるの。あのメールを見た後、男性社員はもの凄く神経使ってて、見ててちょっとかわいそうなくらい」
姫野さんは再び笑い出した。私はびっくりしてこの話を聞いた。まさか社長がそんな事を社内に通知していたなんて……
「でも、こういう社長がいるといいわよね。だって実際女性だからって馬鹿にしたり、ちょっとセクハラっぽい事気軽に言ってくる無神経な人がいるじゃない?そういう人には、今回社長から言われた事で、ちゃんと自分の言動を注意して見直してもらういい機会になるんだから」
社長……
私の心にじわりと温かいものが広がっていく。
新しいことに挑戦すれば色々な事が見えてくると後押ししてくれた彼。黒木部長のことで傷ついた私に手を伸ばし支えてくれた彼。私を必ず守ると、だから自由に自分を隠さず生きろと勇気をくれた彼。その彼の優しさに心が震えるほど揺り動かされる。
私は彼からもらったダイヤのネックレスを愛しむようにそっと手で触れた。それはまるで彼への気持ちを表しているかのように美しく輝いている。彼にどんどん惹かれる自分に気付き、なぜか泣きたいほど胸がいっぱいになった。
きっと私は社長に恋をしている。
恐らく、どうしようもないほどに……