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 家を出る直前にウーヴェに結んで貰ったネクタイのノットを手で触り、先日ここに立った時と比べれば妙な緊張を覚えていたリオンは、玄関ポーチでのやり取りを思い出しながら無意識に右手薬指の誓いのリングを指で確かめるように撫でる。

『お前はお前にしか出来ない事を今までやってきた。それはこれからも同じだ。今までのように顔を上げろ、胸を張れ。これまでのお前があるから今ここにいるんだ、リーオ』

 優しさと強さが同居する声に胸を温められ背中を押され、うんと頷きつつ目の前の痩躯に腕を回すと、総てを理解し受け入れてくれる腕が背中を優しく撫でてくれる。

 その強さに礼を言い、行ってくると伝えながら同じ指輪が填まる右手の甲にキスをすると、今まではこの街に暮らす人や俺を守っていたが今日からは俺の大切な人もその中に加えてくれと囁き同じように手の甲にキスをしたウーヴェをもう一度抱きしめたリオンは、今日からお前も診察が始まるが緊張するのは最初だけ、お前なら今まで以上に患者に対し親身になってその悩みを、不調を解消出来るから頑張って来いと、先程の己が受けた強さを分け与えるようにこめかみにキスをする。

『……仕事終わったら連絡するな』

『ああ。クリニックで待っている』

 再就職を果たし初めての出勤日、流石に緊張を覚えているリオンの様子を前夜から感付いていたウーヴェが安心させるようにその手を握っていたのだが、リオンが働き始める日はウーヴェ自身もクリニックを再開させる日であり、約8ヶ月ぶりにクリニックのあの診察室で患者を受け入れる事になっていた。

 その緊張を今度はリオンが感じ取ると、刑事の時のように仕事が終わればクリニックに向かう、だから精一杯頑張ろうと互いを励まし合う。

『頑張ろうぜ、オーヴェ』

『うん』

 先日、レオポルドやギュンター・ノルベルト、誘いを受けて急遽帰国したアリーセ・エリザベス夫婦らとヴィーズンで飲んで歌って大騒ぎをし、その翌日には良き友人として付き合いだしたリアとカスパル、そんな二人を微笑ましくも隙あらばリアと付き合いたい思いを隠さないマンフリートとミヒャエルを尻目に、ウーヴェと一緒に飲みに来ることが出来るのが本当に嬉しいと喜んでくれるマウリッツらともテントで前日以上の大騒ぎを繰り広げたのだ。

 その翌日はドイツでの商談を終えて駆けつけ、ウーヴェの怪我を知って己の家族が被害に遭ったかのように怒り嘆きウーヴェを思って涙ぐんでくれたたメスィフとその友人のイマーム、そしてスペインからやって来たファウストらと少しビールを楽しんだ後、ゲートルートに移動して異文化コミュニケーションを満喫したのだが、今年は三回行けた、来年は四回行こうと笑うリオンにウーヴェは何も言えず、祭りが明ければ二人とも約8ヶ月ぶりに社会生活に復帰する事になるためにその緊張感から酒の量が少しだけ増えていた。

 久しぶりの勤務に心身共に耐えられるのか、事件現場にもなってしまったクリニックにリオンと一緒に出向いたり再開に向けてカフェの仕事をセーブしてウーヴェの手伝いに来てくれるようになったリアとともに準備をしてきたものの、心身の疲労時に誘拐事件を思い出して辛くならないかとの不安はどうしてもぬぐい去れずにウーヴェの心の中で息づいていた。

『じゃあオーヴェ。また後でな』

『ああ。……行ってこい、リオン』

 そうして互いに勇気を与え合い背中を撫でることで安堵も与え合った二人は、リオンの初出勤とウーヴェのクリニック再開の朝を送ったのだった。

 ウーヴェの言葉と声とキスを思い出し、さぁ行くぞと口元には自信に満ちた笑みを浮かべたリオンは、目の前の自動ドアを潜り指示されているようにエレベーターに乗り込んで前回面接に訪れた会議室では無くウーヴェと一緒に初めて訪れた会長室へと向かう。

 エレベーターの中で数人が乗り込んでは出ていくが、その皆が見慣れない顔だなと言いたげに様子を窺っている事に気付きつつも黙殺したリオンが最上階まで残っていると、もう一人残っていた女性、ヴィルマが前回に見た時と同じように仕事の出来る美人上司の顔でリオンの肩を叩く。

「おはよう、リオン」

「あー、おはよう、ヴィルマ」

 ドアが開いて彼女を先にエレベーターから下ろすとドアの横の壁に腕を組んでもたれ掛かっているスーツ姿の男を発見し、ヴィルマが声を掛ける。

「おはよう、ヘクター。来たわよ」

「……ああ、おはよう」

 廊下で三人が顔を合わせて挨拶を済ませるとヘクターが己が寄りかかっていた壁側のドアを開け、会長室の手前の部屋に新しく用意されたデスクへとリオンを案内する。

「ここがお前のデスクだ」

「……面接の時にも聞いたけどさ、書類仕事とかねぇよな?」

「大丈夫よ、あなたに書類を回したりしないわ」

 何しろあなたは会長専属のボディガードなのだからと妖艶な笑みを浮かべるヴィルマだったが、ボディガードは肉体が資本で頭脳に関しては誰も期待していないと言われている気がするとリオンが返すと、たっぷりと塗った口紅を確かめるためにデスクからコンパクトを取りだした彼女が鏡の中でにやりと笑う。

「バカだからまあ仕方ねぇけど、バカにされるのは好きじゃねぇなぁ」

「大丈夫、バカになんてしてないわ」

「……今まで俺と二人だったからお前が来て喜んでいるんだ」

 だから彼女の言葉を額面通りに受け取るなとヘクターが忠告し、歓喜の証拠に同僚になったばかりの人を馬鹿にするってどんな性格だよとリオンが嘆くように天井を見上げるが、あなたの事は会長や社長の次に好きだから安心しなさいと笑われて毒蛇に睨まれたカエルの気持ちが良く分かると肩を竦め、まあ何はともあれ今日からよろしくと二人に挨拶をすると、流石にこの時ばかりはヴィルマも真面目な顔でよろしくと鷹揚に頷く。


 新しい職場の新しい同僚に挨拶を終えた時ドアが開く音が聞こえるが、その瞬間、ヴィルマのふざけたような表情がきりりとしたものに一変し、ヘクターも有能な秘書の顔になる。

 瞬間的なその切り替えに感心していたリオンだったが、己も変えなければならないのか、いや、自分は自分だ、今までのようにやれば良いとウーヴェも言っていたとこれもまた驚くほどの早さで思案し、ドアを開けて入って来る人物に向けて太い自信に満ちた笑みを見せつける。

「おはようございます、会長」

「ああ、おはよう」

「おはようございます。副社長から会議の時間が変更になった旨、連絡がありました」

「おはよう……後で教えてくれ」

 ヘクターの挨拶に頷きヴィルマの報告にも頷いたレオポルドは、二人の間で所在なげな割には大きな態度で立っているリオンを見上げると、にやりと笑みを浮かべて来たかと短く問いかける。

「Ja.来ました」

「そうか。ヘクター、ヴィルマ、俺がここにいる間はヒマだろうからどんな仕事でもさせろ」

「Ja.」

「げー、書類仕事なんて出来ません」

「お前、勤務初日から出来ないとはどういうことだ」

 リオンの嘆きにレオポルドが眉を寄せるが本気で怒っているわけではない事をしっかり見抜いたリオンがにやりと笑い、向き不向き適材適所という言葉を知っているかと返すと、流石にそれにはヴィルマもヘクターも呆気に取られてしまう。

「口答えをするな」

 呆然とする有能な秘書など滅多に見られるものではないためにレオポルドも同じように驚いてしまうがリオンの頭にそっと手を載せた後、その手で青い石のピアスが一つだけ光る耳朶を思いっきり引っ張ると騒々しい悲鳴が室内に響き渡る。

「ぎゃー!」

「うるさいぞリオン! こっちに来い!」

「痛い痛いっ! 耳がちぎれるっ!」

「おー、そうか。ならウーヴェに頼んで腕の良い外科医を紹介して貰ってくっつけて貰え」

「暴力反対ー! 出勤初日にパワハラを受けたって訴えてやるー!」

 リオンの耳を引っ張りつつ己の執務室のドアを開けたレオポルドは、有能な秘書が事態の推移についていけないのかぼんやりと見送るのを尻目ににやりと笑い、ぎゃあぎゃあと騒ぐリオンを室内に引き入れると後ろ手でドアを閉める。

 目の前で閉まるドアを呆然と見ていた二人は背後のドアが開いたことに気付かずにいて、デスクに何かが置かれる音が聞こえたことで顔を振り向け、意外そうな顔でこちらを見つめるギュンター・ノルベルトを発見して我に返っておはようございますと唱和する。

「ああ、おはよう。二人がぼんやりしているなど珍しいな」

 朝から何かあったのかと苦笑しつつギュンター・ノルベルトが問いかけると二人が顔を見合わせ、たった今目の前で繰り広げられたある種の惨劇を報告するべきかどうかを珍しく躊躇してしまうのだった。

 広い会長室でぎゃあぎゃあと叫んでいたリオンだったが、レオポルドが咳払いをすると同時にぴたりとそれを止め、肩幅に足を開いて腰の上で手を組むとウーヴェが撫でて力をくれた背筋をぴんと伸ばす。

「……おはようございます」

「ああ、おはよう」

 先日終わってしまったヴィーズンでは本当に楽しく酒を飲めて嬉しかったです、ありがとうございますと仕事とは直接関係は無いが始業前に礼を言っておきたいとリオンが生真面目に告げると、レオポルドが微苦笑を浮かべるだけでそれについては何も言わず、口に出したのは良く出勤してきてくれたとの一言で、リオンが本当に己の専属ボディガードとして働く事になるのか、都合の良い夢ではないかと一抹の不安を抱えていた事を苦笑に混ぜ込んだレオポルドにリオンの蒼い目が丸くなるが、次いで真正面から伴侶の父であり今日から己の仕事上のボスになる尊敬する男の顔を見つめる。

「俺のダーリンは誰かさんとよく似ていて、俺が本気で思ったことに対しては心から応援してくれます」

 だから今日も行ってこいと刑事の時と同じように俺に力を分け与えてくれる儀式を二人きりで済ませましたと笑うと、口ひげを指で撫でながらレオポルドが鼻息で返事をする。

 だが、ふと表情を変えたかと思うとリオンに向けて手を差し出したため、その手をまじまじと見つめつつリオンが何だと問うと、良いから手を出せと命じられてしまう。

「……今日から頼むぞ、リオン」

 俺の息子専属のボディガードから異動になったがお前の働きに期待しているとレオポルドが頷くと、リオンの顔にじわじわと笑みが浮かぶが、それを引き締めて一つ頷き、了解ですボスと自信に満ちた声で返事をする。

「何だ、ボスと呼ぶのか?」

「親父と本当は呼びたいんですけどね、流石に出勤初日からそれをすると色眼鏡で見てくる人に話題を与える事になるでしょう。それに……親父の専属なら俺のボスはただ一人だ」

 公私混同はあなたの息子が最も嫌うことだし創業者一族の伴侶という身分で会社に入り込んだと思われるのも不愉快だから当分はボスと呼ぶが、俺は親父専属のボディガードだからボスでも良いと笑うリオンにレオポルドが頷き、リオンの手をしっかりと握りしめてボスと呼ぶ許可を与えるが、お前の扱いについてはヒンケル警部から詳しく聞いている、だからキリキリと働けと笑うとたった今握手していた手が振り解かれてしまう。

「ボスが出ていかなければここにいて良いんだよな、俺」

 じゃあ出ていかなければ良いのになーと頭の後ろで手を組んで鼻歌など歌い出すリオンに、ヒンケルからとっておきの情報も入手している、最悪の場合ウーヴェに連絡を入れるだけだと言い放ってリオンの鼻歌を止めさせた伴侶の父であり唯一の上司は、ドアが開いて呆れ顔のギュンター・ノルベルトとヘクターやヴィルマが入って来た事に気付き、今日も一日大企業の会長として忙しく働くぞと気合いを入れ、そんなレオポルドの横顔から自然とリオンも気分を切り替え、今日からはバルツァーの会長専属のボディガードとして働き出すのだった。


Über das glückliche Leben.

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