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第4章 冬季雷に呼ばれて
遠くで雷鳴が轟き、慌てて下山の準備を始める。
「まただ……」
もう雨に降られるのは慣れこっだ。
丘の向こうで鳴っていた冬季雷は下山を始めた俺の元へ霙混じりの雨を降らせると、一気に体温を奪っていった。
ヒンヤリと冷たい空気を纏った冬山は、晴れてこそいれば、遠くの山まで見通せて美しい。
今は、急激な気温の変化によって発生した、霧によって、どこもかしこも不気味に見えた。
あの日以来、何だか遠のいていた麓の美容室へと雨宿りの目的で訪れた。
〝close〟の札がかかったその場所にはステンドグラスの灯りが漏れ、滴る雨粒に濡れたレインコートのズボンを虹色に光らせた。
「休みなんて珍しい……」
盛大に落ち込んでいる自分に、雨宿り以上の理由が見え隠れして、クスッと笑うと踵を返して、そのまま下山しようと思った次の瞬間、ガシャンと何かが床で跳ねた音がして、彼の気配を探して、覗き込んだステンドグラスの小窓から、ソファーに横たわる店主らしき人が、放った言葉に、時が止まったような気がした。
「やめて……お願い」
苦しそうなその声は、嫌悪感と絶望を孕んでいて、突然の事に心臓がバクバクと鼓動を速めた。
よく見ると、ひとりじゃない。
横たわる彼の上に跨り、首筋に唇を押し当てたその男は、いつかの常連客〝ワタル〟だった。
「やだ……」
頰を伝う涙に、迷っている時間はなかった。勢いよく開いた扉に不機嫌に鳴ったドアベル。その後の事はよく覚えていない。
〝ワタル〟を殴ったか……突き飛ばしたか……。
いずれにせよ血相を変えて四つん這いになりながら、出口の扉に向かって逃げる〝ワタル〟の後ろ姿だけは鮮明に覚えている。
ソファーに蹲る彼の肩に手を置くと〝もう大丈夫だよ〟と言って、肩を撫でる。
「カッコ悪いとこ見られちゃった」
茶目っけたっぷりに笑って見せたショウタ。
小刻みに震える手が、取り繕った表情の綻びだった。
「無理して笑う必要ないっすよ?」
何でもないことのように慌てて引っ込めた、彼の手を掴んだ。
――冷たい。
両手でそっと包むと、恥ずかしそうにほんのりと頰が赤くなった。片方の手で躊躇いがちにシャツの裾を人差し指と親指で摘んだショウタは青黒い瞳を、俺に向けた。
思わず腕を引き自身に引き寄せるように胸に抱くと、ショウタは温もりを求めるように背中に回した腕にグッと力を込めた。
抱き締めた理由も、回された腕の理由も分からなかった。
「大丈夫っすか?」
「大丈夫って言ったの雨男じゃん」
俺たちの間には、まだ名前なんてなくて、抱き締めていいのかすら分からないままに彼を腕の中に収めてしまった事を、今更ながら後悔した。
「……驚かせてごめんね」
どちらからともなく、すぐに離れた。
ほんの数秒。
離れた時に薫った、彼の香りの中に微かに、あの常連客の匂いが残っていて、その中にあの男の気配が残っている気がして、
ぞっとした。
彼が傷つけられたという事実よりも、
そう感じてしまった自分の浅ましさが、胸に刺さった。
「ごめん……気づかなくて」
濡れた髪を人差し指で掬った彼の手は、まだ震えたままだった。
――
翔太 side
震える俺の手を見た雨男。
その理由を分かっている癖に、〝外寒いですもんね〟と露わになったお腹にそっと布を掛けた。
彼の優しさに、縋りたい自分がいて思わず伸ばした腕。
誤魔化すように、彼の横髪をひと掬いした。
指先に触れた髪は、冷たかった。
滴る水が、手の甲を伝う。
「……びしょ濡れ」
小さく呟くと、彼は少しだけ眉を下げて笑った。
「雨男なんで」
その軽口に、ほんの少しだけ救われる。
でも、指先に残る冷たさが離れなかった。
「風邪、引くよ」
そう言って、自然に腕を引く。
さっきみたいに抱き締めるんじゃない。
ただの客と、ただの店主。
「こっち」
促して、椅子に座らせた。
背後に回ると、いつもの距離なのにやけに近く感じた。
タオルを手に取って、髪に触れた。
ゆっくり、水気を吸い取る。
指先に伝わる体温が、さっきよりも近い。
強く香る彼のシャンプーの匂いが鼻をくすぐった。
「……じっとして」
小さくそう言うと、彼は何も言わずに従った。
ドライヤーのスイッチを入れる。
低く響く音と一緒に、温風が流れる。
濡れた髪が揺れて、その奥に見える首筋に、視線が止まりそうになる。
思わず目を逸らすと、鏡越しに視線が合い、すぐに逸らされる。
それでも、何度も重なる。
視線が、そこから離れなかった。
鏡越しに映った俺の鎖骨。
赤い跡が滲んでいる。
視線を逸らしたくなるのに、どうしても目が離せなかった。
――触れた跡。
その事実だけが、やけに生々しくて、
カシャン――
櫛が床に落ちた音で、我に返る。
「ごめん……」
一歩、距離を取る。
「こんな手で、触るの……よくないね」
傷付いた瞳を俺に向けた。
冬季雷を引き連れて現れた雨男は、静かに立ち上がりゆっくりと距離を詰めると、頬に伝う涙を拭った。
「気にしないから続けてよ?風邪引いたらアナタのせいにしますよ」
「そりゃ大変だ――」
「泣くなよ。……ここにいるから」
「……泣いてない」
雨音が、少しだけ強くなる。
「あれ?こっちも雨降らしちゃった?」
「参ったね。しばらく止みそうにない――」
膝から崩れ落ち、シクシクと泣く俺の、肩を抱き上げた雨男。
雨はいっそう強さを増し、滑稽な自分を隠すように濃い霧が山の麓に立つ一軒の店を覆った。
「雨音で何も聞こえやしないよ?」
彼は〝泣きたい時はいつでも呼んでよ。僕が雨を降らすんで〟なんて言って目尻に皺を寄せて笑った。俺が泣き止むまでずっと隣で腕を摩って寄り添った。
「辛い時はいっぱい泣きな」
泣くなって言ったり、いっぱい泣けって言ったり――
ほんと、
「どっちなんだよ……」
冬季雷が鳴り響き渡る店内。
クスッと笑った雨男。
肩をいっそう強く抱かれて縮まった距離。
何かが解けるような気がして、
――怖くなった。
思わず、彼のシャツを握りしめた。
コメント
3件
いつも、泣いてる🥺でも可愛いなあ💙そして、いつも襲われている🤣🤣🤣
