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第5章 霧越しの灯り
どれくらい、そうしていたのか分からない。
泣き止んだ頃には、
雨音だけが残っていた。
「キッチン借りますね」
手際よく淹れられたコーヒーは、
いつもの自分のものより、ずっと温かく感じた。
身体の奥に、じんわりと沁みていく。
再び自然と流れ出た涙。その訳は分からなかった。
彼は尋ねなかった。あの男が誰なのかも、何があって、何で泣いているのかも。
彼の優しさなのか、ただ居合わせただけの客だからなのか、俺には、知る由もない。
……前者ならいいのに、なんて。
そんな都合のいいこと、考えるのはやめた。
「ありがとう」
雷鳴が轟き、一層激しくなる雨。雷が落ちるたびに建物が震えた。この麓にも迫ってきた霧が、辺りを覆い、滑稽な自分を隠すように霧のベールで包まれた。
「これじゃあ暫く外には出れないね雨男くん」
隣で同じように膝を抱えてコーヒーを啜っていた雨男は静かにテーブルにマグを置くと、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「ひかる……照らすって書いてひかるです」
心臓が跳ねた気がした。あんな事があった直後に不謹慎にも俺は照と名乗った男に、目を奪われた。
静かに伸びてきた手が、頰を伝う涙を拭う。
その瞬間、動けなくなった。
「冷たい。あなたは………名前を聞いても?」
名前なんて、意味があると思ったことはなかった。
知らない方がいい。
近づかなくて済むから。
意味を持つことが怖かったんだと……その時分かった。
ただ、
目の前の優しい男の名を知れたことが、
どうしようもなく嬉しかった。
雨の日に現れる雨男を〝照〟と呼べることが。
「しょう……翔ぶ男で……翔太」
名乗った途端、彼の呼吸がわずかに止まった気がした。
驚いたような、そして……名前が、思っていたより重く落ちたような沈黙があった。
「翔太――素敵な名前だね」
少しだけ、間があって。
「どうして、また泣くの?」
「さぁ……」
少しだけ、笑ってみせる。
「君の名前、知れたから……かな」
霧越しに漏れる店内の灯りは、ステンドグラスの光が四方に散って、幻想的な灯りを灯した。
僅かに店内に入り込んだその光に〝綺麗ですね〟と俺を見つめて、手を握った照の手は、俺なんかよりずっと冷たくて、彼があの山からまだ下山してきたばかりである事を知らせた。
「ごめん気が利かなくて…暖炉に火を入れよう」
不意に掴まれた手首が、じん、と痛んだ。
体が勝手に強ばる。
「やめて!」
慌てて〝ごめんなさい〟と言ったものの、不思議そうに眉を寄せた照は、長袖を捲ると、血相を変えた。
手首を見るなり〝すぐに冷やそう〟と言って再びキッチンに向かった。
よく見ると、先程渉に掴まれた手首が、赤く腫れていた。優しい彼との時間に影が差すのが嫌で、袖を伸ばして隠すと、
「このくらい何でもないから…放っておいて。それより隣に座って?少し話をしようよ」
彼は意外と強引な男なのかも。
そう思ったのは、問答無用で背中から回された彼の腕が俺の手首を捉えたからだ。
押し当てられた氷。
「大人しくしなさい」
と囁いて、彼は俺の肩を優しく抱いた。
密着した体から伝わる熱。
それは、独占欲に似ていて、それでも確かに、俺を温めていた。
……離れられなかった。
ソファに二人横に並んで座る。
コーヒーを啜る音がやけに大きく響いた。
「店の名前――どうして看板ないの?」
「……つけても、意味ないかなって」
……本当は、楽だから。
山の麓に佇む美容室。都会から逃れて行き着いた安息地。
名前を付けてしまうと、そこに留まらなきゃならない。縛られてるようなそんな感覚があった。
〝麓の美容室〟〝雨の美容室〟だなんて皆んながそれぞれに呼ぶ。
「照にとっては?」
まだ、怖いんだ。
近付いたら壊れるから。
アイツみたいに、一線を越えてくるんじゃないかって。
ただの客と店主。
その距離が崩れた瞬間に、全部壊れる気がしていた。
大事なものは、ない方がいい。
その方が、息がしやすい。
だから俺はいつも、〝安全〟を選んでしまう。
彼の答えを待たずに、遮るように言い放った。
「――雨宿りの美容室、とか」
臆病風に吹かれて、
彼がこの店に足を向ける理由を、
雨のせいにした――
そうしていれば、
この気持ちに名前を付けなくて済むから。
俺は、
何もなかったみたいに笑ってしまった。
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ねぇ、いつかアイドルバージョンの💛💙も書いて。ねえねえ🥰🥰