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苔むした石畳が、靴底を冷たく噛む。私の足音だけが、ぽつん、ぽつん、と空しく響く。……この頭上には、かつてオランジェットが毎晩のように通った廊下がある。オルファ侯爵と歩いた夜会への道。手を引かれながら、胸を高鳴らせて歩いた回廊。
「君は僕の誇りだ」と耳元で囁かれ、頬を染めた場所。全部、嘘だったのに。胸の奥底で、オランジェットが泣いている。氷の槍で心臓を貫かれたような、鋭くて冷たい痛みが、私の体を突き抜ける。
(ごめん……ごめんね、オランジェット)
私は歩きながら、そっと胸に手を当てた。
(あんな男に、こんなに長い時間を……こんなに純粋な想いを、踏みにじられて……)
涙が頬を伝う。でも、もう怒りじゃない。ただ、悲しみだけだ。レオンが私の前で立ち止まり、振り向いた瞳は、痛みを知る者だけが持つ色をしていた。
「……辛いか?」
私は首を振った。でも声は震えた。
「この子が……すごく泣いている。私、まだ全部取り戻せてない」
レオンは静かに、私の手を握った。
「取り戻すよ。今夜、全部」
私は頷いた。涙を拭う。もう泣かない。オランジェットの分まで、私が笑ってやる。私が幸せにしてやる。だから、今は前へ。この先に待つ真実へ、そして、決着へ。
松明を一つずつ、壁に差し込み、火を消す。闇が音もなく押し寄せ、残るのは薔薇と薬草の、甘く苦い香りだけ。香りが濃くなるほど、心臓の音が耳に響く。廊下の突き当たりに、古びた木の扉。王家の百合と、剣を交えた薔薇の彫刻が薄暗がりで浮かび上がる。レオンが扉の前で膝をつき、鍵穴に細い針金を差し込んで、わずかに息を吐く。
カチリ。
小さな音。それだけで、扉が内側からゆっくりと開いた。中から、暖かな灯りが漏れる。薔薇の香りと、薬草の湯気。そして、微かに聞こえる、苦しげな呼吸。ベッドに横たわる青年は、金より少し薄い髪を乱れさせ、蒼白な顔で眠っていた。……王太子アレクシス。生きていた。レオンの膝が、床に崩れ落ちる音がした。
「無事だったか……!」
レオンは枕元に跪くとその手を握った。王太子はうっすらと目を開け、その手を弱々しく握り返した。現代国語が苦手な私でも分かる……レオンは王太子に敬語を使うことなく駆け寄った。はて?これは?
レオンは王太子の右手を両手で包み、額をその甲に押し当てた。
「アレク……!生きてた、本当に生きてた……!」
掠れた、まるで少年のような声。王太子は、薄く目を開ける。熱に浮かされた瞳が、ゆっくりと焦点を結ぶ。
「……レオン……」
弱々しい、でも確かに笑みを浮かべた声。
「ごめんな……お前を、裏切り者にしたまま……」
「うるさい、バカ殿下」
レオンは顔を上げて、涙と鼻水まみれで笑った。
「生きているなら、それでいいだろ……!」
……あ。私は、はっとした。敬語がない。呼び方も『殿下』じゃなくて『バカ殿下』。
二人は、主従なんかじゃなかった。幼い頃から、共に育った、剣を手に庭を駆け回り、夜の屋上で星を見上げて、『いつか一緒にこの国を変えよう』と誓い合った。親友だったんだ。だからレオンは影武者になった。けれどあの日、王太子は毒薬を飲んでしまった。それでレオンは裏切り者として牢獄に入れられた。
「……私も来ました」
私の指が王太子の手に触れた瞬間、彼の瞳が恐怖で大きく見開かれた。「ミランジェット……!?」その声は、死の淵から這い上がってきたような、掠れた絶叫だった。
部屋の空気が一瞬で凍る。私はゆっくりと首を振った。「違う……私、オランジェットよ」王太子の顔が、混乱と恐怖で歪む。「……でも、あの日……毒を入れたのは……君だった……」私は息を呑んだ。
やっぱり、ミランジェットは私になりすまして王宮に入り込み、王太子のグラスに、ヴィンセントの渡した毒薬を一滴……。
そして私は、その“双子の妹”の罪を、全部被せられた。だからオルファ侯爵は私を切り捨て、国民は私を“王太子毒殺未遂の悪女”と罵り、私は断頭台に立たされた。
すべて、完璧に仕組まれた入れ替わりだった。私は震える手で、王太子の手を強く握り返した。
「……信じて、アレクシス」
「……でも……あなたは彼女とそっくりだ」
「私じゃない。殺そうとしたのは、私の顔をした妹よ」
王太子の瞳に、涙が浮かぶ。
「……ごめん……ごめん、オランジェット……私は……君を、疑ってしまって……」
私は首を振った。
「いいの。今、ここにいる。それで十分」
あの断頭台からの光景が頭をよぎった。怖気が走る。レオンが立ち上がり、静かに剣を抜いた。頭上の回廊を、重い鎧の足音が列をなす。
「時間だ……ヴィンセントのご帰還だ」