第1話 雨の匂いと、もうひとりの僕
目の前に立つ“少年”は、自分と同じ顔をしていた。
髪の濡れ方も、瞳の色も、呼吸のリズムさえも。
ただ一つだけ違うのは―の瞳の奥に宿る光だった。
「君は……誰?」
思わず口をついて出た言葉に、相手は静かに微笑んだ。
その笑みは懐かしくて、胸の奥を締めつける。
「僕は“君”。まだ忘れていない方の。」
…意味がわからない。
けれど、心のどこかで“わかっている”気もしていた。
この街に漂う既視感、この空気の重さ――全部、前にも経験した。
それでも思い出せない。
何を、どこで、誰と過ごしてきたのか。
僕は無意識にペンダントを握りしめた。
その瞬間、世界がまた微かに揺れる。
風景がノイズのようにざらつき、路地の壁が溶けるように揺らめいた。
「ここは――現実じゃないん?」
問いかける声は、やけに遠く聞こえた。
もう一人の“僕”は微笑んだまま、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「現実? そんなものはもうとっくに消えた。君が“彼奴”を手放したあの日に…ね。」
心臓が止まった感覚がした。
“彼奴”――その言葉に、記憶の奥が光を放つ。
断片的な映像が頭の中を駆け巡る。笑っていた彼奴。手を伸ばした輝く海。
そして、血のように赤い空。
「……何を、言ってるんや。」
喉が震える。声が掠れる。
“もう一人の僕”は、寂しそうに笑って言った。
「君が思い出さないと、彼奴は本当にいなくなる。」
次の瞬間、雷鳴が轟き、空から再び雨が落ち始めた。
少年の足元に広がる水たまりの中には――もう一つの世界が映っていた。
そこには、あの日の彼奴が立っていて
笑って、こちらに手を伸ばして。
彼はその手に向かって、静かに一歩、踏み出した。
↑は🐇saidです。
冷たい雨が頬を打ち、少年の視界が滲んでいく。
けれど、水たまりの中の“彼奴”は、確かにそこにいた。
白い肌、水色と紫のグラデーションのかかった髪、そしてあの日と同じいつもの制服。
――忘れたくても、忘れられない姿。
「……いむくん。」
思わず名前を呼ぶ。
唇が震えた。自分でも驚くほど自然に、その名前が出てきた。
どこか遠くで、もう一人の“僕”が静かに笑った気がした。
いむくんは、何も言わずに微笑んだ。
けれど、次の瞬間――
彼の足元から、黒い影が広がっていく。
まるで水にインクを落としたように、暗闇が世界を染めていく。
僕は思わず踏み出した。
水たまりの中へ。
冷たいはずの感触はなく、代わりに耳鳴りのようなざわめきが体を包んだ。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
――気づけば、そこは学校だった。
廊下、窓、夕方の光。
見覚えがある。けれど、何かが違う。
空気が静かすぎる。時間が止まっているみたいに。
机の上には、古びたノートが置かれていた。表紙には、滲んだ文字でこう書かれている。
「最後の記憶」
僕は恐る恐るページをめくった。
そこには、僕といむくんの思い出が走り書きのように並んでいた。
放課後の屋上、図書室での言い合い、夏の海沿いの横断歩道。
けれど、最後のページだけが破り取られている。
――そして、そのページの隅に、赤いインクで小さくこう書かれていた。
「思い出したら、世界が終わる」
「……何だ、これ。」
呟いた瞬間、背後で足音がした。
振り返ると、そこにいたのは“もう一人の僕”だった。
彼は相変わらず無表情で、どこか疲れたように笑っていた。
「やっぱり来たんやね。」
「ここは……どこなん。僕は夢を見てるん?、」
「夢でもあり、記憶でもある。やけんど、君が“忘れることを選んだ現実”や。」
「僕が……忘れた?」
「そう。君は彼奴を守るために、“思い出す権利”を手放した。」
意味がわからない。
でも、胸の奥にひどい痛みが走る。
――確かに、何かを犠牲にした感覚があった。
彼奴の笑顔の裏に、いつも影のようにまとわりついていた不安。
何かを言いかけて、いむくんが泣いたあの夜。
「君は、彼奴の“永遠”を奪ったんだよ。」
もう一人の僕が、低く囁いた。
「だから、この世界は壊れかけてる。」
その瞬間、校舎の窓ガラスが音を立てて割れた。
風が吹き荒れ、廊下の掲示物が宙を舞う。
空が歪み、夕焼けが血のように滲む。
「待って…、どういうことッ?!」
少年が叫ぶ。だが、もう一人の僕は首を振った。
「君が選んだ結末を、僕は見届けるだけやから。」
彼の輪郭が光の粒になって崩れ始めた。
指先が届かない。声も出ない。
残されたのは、ノートの最後の一文だけ。
「――また会おう、永遠の少年。」
世界が音を失った。
次に目を開けたとき、少年はまた雨の街に立っていた。
手の中には、ぐしゃぐしゃに濡れたノートの切れ端。
そこには、いむくんの文字で一言だけ、書かれていた。
「探して。あなたが失くした“時間”を。」
雨は止んでいた。
街の灯がゆっくりとともり、夜が戻ってくる。
僕は歩き出した。
彼奴の声を、いむくんの声をもう一度聞くために。
雨が止んだはずなのに、空からはまだ水が落ちていた。
それは雨ではなく、空そのものが溶けている音だった。
遠くのビルが、まるで砂のように崩れていく。
時間が軋み、色が滲む。世界の輪郭が、ゆっくりとほどけていく。
僕は立ち尽くしていた。
足元のコンクリートがひび割れ、そこから光が漏れている。
地面の下には、まるで別の世界が眠っているようだった。
どこか遠くから、あの声が聞こえる。
「――忘れたら、世界は壊れる」
いむくんの声や。確かにそうやった。
しかし、彼奴はもうこの世にいない。
それでも声は届く。まるで夢の中から呼びかけるように。
「僕が……壊してるんか、?」
呟いた言葉が、空気に溶けて消える。
答えは返ってこない。代わりに、世界が再び大きく歪んだ。
街路樹が逆さに伸び、空が地面に落ちる。
道路に描かれた白線が、まるで生き物のように蠢き出す。
時計の針が逆に回り、人の気配は跡形もなく消えた。
その中で、少年は一冊のノートを握りしめていた。
それが唯一、現実と彼を繋ぐものだった。
ページをめくるたび、記憶が蘇る。
笑ういむくん。泣くいむくん。手を伸ばすいむくん。
けれど、それらの映像も少しずつ崩れていく。
ノートの文字が溶け、白紙に戻る。
ページの隙間から、風のように声が洩れた。
「思い出して。全部、壊れる前に。」
なんだか嫌気が差した。よく分からない今という現実に。
その時、背後から足音がした。
振り返ると、また“もう一人の僕”が立っていた。
今度の彼は、微笑んでいなかった。
瞳の奥には、恐怖と焦りが渦巻いていた。
「遅かったんよ。」
「……何がや?」
「この世界は、君の“記憶”でできてる。君が彼奴を忘れるたびに、世界の一部が消えるんよ。」
「じゃあ、僕が思い出せば――」
「そうすれば、世界は戻る。やけど同時に、“真実”も戻る。」
真実――。その言葉の響きに、胸の奥が疼いた。
見てはいけないものの気配。
思い出すことが、何かを壊す恐怖。
「君は、選んだんよ。彼奴を守るために、真実を封じることを。」
“もう一人の僕”の声が震えていた。
「でも……その代償が、これや。」
空が裂けた。
巨大な光の筋が世界を貫き、街が音もなく崩れていく。
遠くで、彼奴の姿が見えた。
いむくんは笑っていた。涙を流しながら。
「約束したでしょ。永遠なんていらない、って。」
少年は走った。
地面が崩れ落ちる。空が割れる。
でも、彼は走る。いむくんの方へ。
手を伸ばした。
触れた――その瞬間、世界は完全に崩壊した。
音も光も失われ、ただ白だけが残る。
そして、静寂の中でいむくんの声が響いた。
「ねぇ、覚えてる? “永遠”ってね、誰かを忘れないってことなの。」
世界が終わる音は、まるで安らぎのように優しかった。
そして――少年は目を閉じた。
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