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後ろからトコトコと人が歩く音がする。
この時間に展望台に来る人はあまりいないはずだ。
誰なのだろうか、
俺はそう思いながら振り返った。
そこには俺が毎日通っているコーヒー屋の店員がいた。
向こうはまだ気が付いていないようだ。
エレベーターを降りこちらに来ようとしている。
俺はその店員に向かって歩いていた。
「こんにちは」
「⋯っ!?」
その店員はものすごく驚いた表情をしていた。
その表情がとてつもなく可愛く感じる。
「いつもコーヒーありがとうございます」
俺は感謝を述べる。
「⋯ぁ、大丈夫です⋯⋯」
その店員は床に向かってそう言った。
それに声のトーンも低く、怯えているようで、第三者目線で見れば俺がいじめているような感じに見えなくもない。
「大丈夫ですか?」
俺はそう言いながら店員と目を合わせるために屈んだ。
店員の顔は酷いものだった。
店では見ることのないおかしな顔。
顔色が悪いだけではない。完全に怯えている。
心配になりもう少し近付く。
その時、俺の鼻に甘い匂いがかすった。
「⋯すいません⋯僕は帰りますね」
店員は乗ってきたエレベーターに向かって行った。
俺は店員の手を掴む。
「あなたの名前、お聞きしてもいいですか」
俺たちの間には沈黙が流れる。
こうも怯えている人にこんなことしないほうがいい。
そんなことは分かっている。
でもその欲を抑えられない。
本能が教えて欲しいと言っている。
「⋯⋯ず⋯な」
「⋯ごめんなさい。聞き取れなかった」
「⋯志水陽向です」
まさか答えてくれるとは思わなかった。
聞いた本人が思うことではないだろうが、この人とても不用心だな。
「志水さん⋯か、いい名前ですね」
俺はそう言いながらバッグを漁った。
そして革で出来たケースを取り出す。
「志水さんだけが名前言うのも変ですよね」
ケースから名刺を取り出す。
「水面唯月といいます。名前だけでも覚えて行ってください。志水さん」
「⋯ありがとうございます。ごめんなさい僕、名刺を持っていなくて」
志水さんはおずおずと名刺を受け取りながらそう言った。
「大丈夫ですよ。では俺は会議があるので失礼しますね」
俺は志水さんに礼をしてからエレベーターへ向かった。
志水さんからしたあの甘い匂い。
きっとあれはオメガだ。
何度も避けてきた匂い。
それなのに志水さんの匂いはずっと嗅いでいたい、そう思った。
思い出すだけでクラっとするような感覚。
俺はその匂いを忘れるために急いで会議へと向かった。