パトリシアが宿屋に入る、少し前の頃。
荷馬車からアンリエッタが降りた直後、ひそひそと話す声が聞こえてきた。
「見て、銀髪よ」
「本当。不吉なことが起きなきゃいいけど……」
何? 不吉って?
視線も感じて、顔を向けようとした直後、後ろからフードを被せられた。
「大丈夫よ。この村にいるのは、今晩だけだから、気にする必要なんてないわ」
そっと、アンリエッタの背後に立ったポーラは、村民たちに視線を向けた。睨んでいたのか、いそいそと村民たちが、蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
「視覚を誤魔化す魔法を、施すことも出来ますが」
ユルーゲルが一定の距離を保ちながら、ポーラに近づいて言った。
旅をしている内に、ようやくアンリエッタも、ユルーゲルの姿を視界に入れても大丈夫になった。傍にマーカスやポーラが常にいる状態だったから、克服できたのかもしれない。
「どうする? アンリエッタ」
「えっと……」
いくらなんでも仰々しい、と思って、躊躇っていると、前方からマーカスがずかずかとやってきた。
「そこまでしなくていい」
返答も聞かずに、アンリエッタの手を掴んで歩き出した。こちらに歩調を合わせる気がないらしく、フードを押さえながら、慌てるようにして、宿屋に入った。
宿屋の部屋は、パトリシアのために、すでにエヴァンが確保してくれていた。それをもう確認済みだったのか、マーカスは迷うことなく階段を上り、アンリエッタを部屋の中へ入れた。
「マ、マーカス?」
「明日は朝一番に、この村から出るつもりだ。羽は伸ばせないが、それまでは宿屋から出ないでくれ」
その口調で、村民たちが言っていた内容を、知っているのだと分かった。けれど、聞いても簡単には口を割らないことも知っている。
「いいよ。長旅の疲れもあるから。でも、条件があるの」
「条件?」
この状況で、何を言っているんだという顔をしていた。アンリエッタは部屋の中にある椅子に、マーカスを座らせた。
「うん。私を退屈させない話をしてほしいの」
「……」
察しの良いマーカスには、さきほどの村民たちの会話のことだと、わかっているはずだ。そして、アンリエッタに誤魔化しが効かなくなってきていることも、そろそろ学習してきているだろう。
息を一つ吐いた後、アンリエッタの手を引き、傍に寄せた。
「銀髪に敏感なのは、この村がカザルド山脈に一番近い村だからなのは、理解できるな?」
それくらいは、私も察していたから、首を縦に振った。
『銀竜の乙女』でも、この村は生贄の子たちが、最後に立ち寄る村だから、その家族が探しにやって来るのだと書いてあった。何度もそんなことが起これば、この村の者たちも、銀竜の存在を認め、恐れるようになったのだそうだ。
でも、だからと言って、銀髪を不吉だなんて、筋違いだと思う。現に、パトリシアは金髪だ。何を思ってそんなことを……。
「そうなったきっかけは、銀髪の女が村を訪れたからだ。生贄と思しき者たちが来るようになったのは、その後のことだから、自然とそれが原因だと思ったんだろう」
なるほど。小さい村だから、よそ者が来れば、記憶に残るのだろう。原因を突き止めた結果が、銀髪の女だったということか。
「あっ、そっか。銀髪の女っていうのは、この時代の私のことだから。ん? ってことは、銀竜を呼び出したかもしれない人物のこと、マーカスは知っていたってことだよね」
「……この村が、最終の休憩地点だったから、事前に調べただけだ」
一度目を逸らしたマーカスは、アンリエッタの髪を掴み、口付けをした。
「だったら、茶色に染めた方がいいって、何で言わなかったの?」
私も甘くなったと思う。マーカスの誤魔化しに付き合うふりをして、別の話題を口にした。
「勿論、銀髪のアンリエッタが好きだからだ」
「こんな風に、問い詰められるって分かっていても?」
「その時は、こうすればいい」
「えっ? ちょっと!」
膝を持ち上げられ、背中を支えられたのち、私はマーカスの膝の上に座らされた。
「ダメ! これじゃ、マーカスに色々頼めないじゃない」
「色々してあげるけど」
そう言って、アンリエッタの耳を噛んだ。
「うっ。……そういう意味じゃなくて、飲み物とかお菓子とか、そういうの! 宿屋から出られないんだから」
「後で持ってくる」
アンリエッタの返事など聞かず、強引に唇を奪った。
普段なら、押し返すところだったが、明日のことを思うと、それは出来なかった。いや、村民たちから不吉だと言われたのもあった。求められることに、喜びを感じてしまうほど、不安だったから。
息が荒くなり、脳がくらくらする。マーカスの縋るようなキスに、私と同じように不安を抱えているのだと思った。これじゃもうダメだとも言えず、身を任せることにした。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!