翌日の朝。
アンリエッタは、人目に付かないように、一足先に荷馬車に乗り込んだ。後から入ってきたパトリシアの表情を見て、無事にルカと気持ちが通じ合ったのだと理解した。
『銀竜の乙女』でのエリスは、まさに当て馬だったからだ。ラスボスではないが、銀竜に会う前に、気持ちを確かめ合うのは、お約束。……それをまさか、私もするとは思わなかった。
反省すべきか、良かったのか考えている内に、荷馬車はカザルド山脈に向けて走り出した。
前方には、すでに村にいた時から、その姿を現していた、カザルド山脈が聳えていた。横に雄々しく延びた山並み、その上に薄っすらと雪化粧しているさまが見てとれた。
「もう少し遅かったら危なかったわね」
荷台から顔を出したポーラが、思わずその姿に感想を漏らした。
確かに冬になれば、雪が下に降りてきて、登れるかどうか怪しいところだった。最悪、銀竜に会う前に、皆遭難してしまう可能性さえあった。
「そうですね。さすがに冬の雪山登山はちょっと……」
ポーラの肩に手を乗せて、アンリエッタもカザルド山脈を眺めた。宿屋では余り見られなかったからだ。いや、意図的にマーカスが見せないようにしていたのかもしれない。
アンリエッタは、改めてカザルド山脈の山頂付近に目を向けた。口ではあぁ言ったが、山全体が雪に覆われた姿を見てみたい気分になった。
真っ白い山を想像すると、まさに銀竜の雪のお城とも言えるような佇まいになる。尖った山の頂が城の塔、デコボコした山肌がちょうど影となって、窓のように見えることだろう。雪が白い城壁を醸し出すと、あながち間違った表現ではないような気がした。
「アンリエッタは怖くないの?」
「……まだカザルド山脈を見ただけですから」
そう、と口調は平然としていたが、すぐにアンリエッタを、パトリシアの隣に再び座らせる。その素振りで、ポーラの方が落ち着かないのだと悟った。
チラッとアンリエッタは、厚い布地の間から、御者の席に座るマーカスとルカを見た。村からカザルド山脈までは、唯一銀竜の居場所を正確に知っているマーカスが、案内役として座っているのだ。
さすがにここまで来て、駄々をこねて、嘘をつくようなことはしないだろう。
「私よりも、パトリシアさんの方は大丈夫ですか?」
パトリシアにそう尋ねると、ちょうどルカがこちらに顔を向けた。
心配なのは、当然だった。呼ばれただけの私は未知だが、生贄の証を持つパトリシアは、下手したら変わらぬ結末が、待っているかもしれないのだから。
「こうして皆が心配してくれているからなのか、そんなに不安じゃないの。不思議ね」
「わかります、その気持ち。だから、私も平気に思えるんですよ」
「昔から、変に肝が据わっているからな」
エヴァンが笑って、場を和やかにしようとしてくれていた。それに気がつき、アンリエッタも乗ることにした。だから、少しだけ不貞腐れたようにして言い返してやった。
「昔って、二年やそこらじゃないですか」
「二年あれば、人となりは分かるもんだ」
「ふふふっ。そうね。大体は分かるものだわ」
ポーラも加わり、次第に荷台の中から笑い声が聞こえるようになった。後方で馬に乗るユルーゲルの表情も、自然と緩んでいた。きっと、御者の席に座る二人も、同じような表情をしていたことだろう。
そして、しばらく経った後、荷馬車が止まった。
***
「ここからは、歩いて行く」
すでに村を出た時から、雪山に備えた格好でいた一行は、マーカスの言う通りに荷馬車から降りた。
季節は秋だと言っても、山の麓にあった村とは違い、山の中はやはり寒いらしい。防寒着を着ていても、暑く感じることはなかった。けれど吐く息は、まだ白くはない。
さきほどのポーラの言葉が身に染みた。このタイミングを逃せば、一シーズン待たなければならないところだったからだ。
そうなると、ギラーテにパトリシアを留めておくことは難しくなり、元々渋っていたマーカスを、一から説得し直さなければいけない、なんてことにもなり兼ねなかったのだ。
それはさすがに、嫌! 絶対に!
「アンリエッタ?」
無意識に首を横に振っていたらしく、ポーラが後ろから心配そうに声を掛けた。すると、案内のために前方を歩いていたマーカスが振り向いた。
「なんでもありません」
「山歩きなんて、久しぶりなんじゃない? もしも辛かったら、早めに言うのよ、いいわね」
「はい。ありがとうございます」
マーカスにも、笑顔で平気だとアピールをして見せた。が、マーカスの曇った表情は変わることはなく、再び前を向いて山道を登り始めた。ポーラに肩を叩かれたアンリエッタも、その後に続いて足を動かした。
山道といっても、始めは険しい道のりではなかった。緩やかな勾配がしばらく続いた。
まだ完全な雪山ではないため、高山植物が至る所に生えていたが、悠長に眺めている暇はなかった。途中に、都合の良い山小屋などないからだ。
けれど、休憩は適度に取った。旅に慣れていないパトリシアのためでもあった。
軽食も取り、十分に体力を回復させた後、いよいよ急な勾配へと入っていく。道はほぼ、獣道も同然だった。マーカスが剣で、邪魔な枝や草を切りながら進み、時折その真後ろを歩いているポーラが、魔法で援護していた。
「少し休憩を取ってもよろしいでしょうか」
しばらくしてから、後方からルカの声が聞こえてきて、振り返った。アンリエッタの後ろには、パトリシアがいるはずだったからだ。しかし、思ったよりもかなり後方にいて、ルカに支えられたパトリシアの姿が目に入った。
すぐに駆け寄り、少し息の上がったパトリシアに神聖力を注いだ。しかし、よくなることはなかった。むしろ、さらに悪化させているような気がして、手を自分の方へと戻した。
パトリシアの息は荒くなり、辛そうだった。
明らかに疲れじゃない。だとしたらこれは――……。一瞬、頭にそんな考えが過った。
「もう少しで、平らな道に出る。それまで持ち堪えられそうか」
マーカスも近づいて、パトリシアに尋ねた。首を縦に振ってはいるが、顔は真っ青だった。
「平らな道に出たら、そのまままっすぐ進むんだ。その先に小さな水場がある。そこから洞窟が見える」
「その洞窟に、いるんですね」
「あぁ。だから、お前たちはゆっくり来てくれ。エヴァンとジェイクも、ルカとパトリシアに付いてもらえるか」
ルカの後ろにいる、エヴァンとジェイクはすぐさま頷いた。
「では、私は一緒に先行してよろしいんですね」
「その方が良いだろう。戦力的にも」
「わかりました」
そう言うと、ユルーゲルはルカたちの脇を通って、マーカスに近づいた。そして、マーカスにだけ聞こえるように、そっと話した。
「先に我々だけで行って、よろしいのですか」
「……パトリシアがあの状態だと、まともに話ができるかは分からない。なら、先に話だけでも進めてもいいだろう。向こうが、アンリエッタではなく、先にパトリシアを要求するのなら、別だが」
「落ち着かないのですね」
「黙れ」
マーカスはユルーゲルを一睨みすると、アンリエッタとポーラを追い越した勢いのまま歩き出した。
「ちょ、ちょっと!」
「なんだ!」
振り向いたと同時に怒鳴られて、アンリエッタは一瞬怯んだ。すると、罰が悪そうに目を逸らしたマーカスが、今度は声を抑えながら尋ねた。
「どうした」
「ペースが速くて……だから、その……合わせて欲しい」
「あっ、悪かった」
神聖力には、鎮静作用もあると聞いた。アンリエッタはマーカスに近づき、注いで落ち着かせようとした。
「ううん。さっきの話だと、もうすぐなんでしょう。だったら、しょうがないよ。私だって、落ち着かないんだから」
「勘か?」
「違う。緊張して、ドキドキしている感じ」
苦笑いして、マーカスの手に触れた。皆同じ気持ちなのだと伝えたかったのだ。
手袋越しだから上手く伝わるか分からないけど、きっと緊張して手が冷たくなっていると思ったから。いや、この場合、手袋を外したら、外気で冷たくなっていると思われていたかも。
「……行くぞ」
「うん」
私の手を一度握り返してから、マーカスは手を放した。繋いだまま山を歩くのは危険だからだ。
しばらく歩くと、マーカスの言う通り平地に着いた。遠くに水場も見える。心臓の音が煩かった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!