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第22話:群衆に紛れた刃、瞬きより速く
あの一件から、すでに数日が経っていた。
城下・東の水路沿いに設営された仮設の治療所は、もとは廃業した反物屋の店先を借り受けただけの簡素な造りだ。土間には茣蓙(ござ)が敷き詰められ、その上に力なく横たわる患者たちが、朝から絶えることなく列をなしている。表通りからは、水路の淀んだ匂いと、煮え立つ薬湯の匂いが混じり合って漂ってきた。時折、咳き込む音と、うわ言のような呻き声が重なり合う。
その喧騒の只中で、私と彩の連携は、驚くほど滑らかに回るようになっていた。彩が患者の額に手をかざし、聖なる光で高熱と痛みを鎮めている間に、私はその隣で問診票に症状を書き込み、次の患者に処方する煎じ薬を手早く量っていく。もはや言葉を交わさずとも、互いの動きだけで役割が完結する。痩せた老人が身体を引きずるようにして進み出れば、私は舌の色を診て、脈を取り、瞼を指でめくって白目の色を確認する。老人は震える手で薬包を受け取り、何度も頭を下げながら去っていった。
その背を見送りながら、私は懐から取り出した帳面に、今日治した患者の数を書き足す。数字は、着実に増えていた。
「次の方、お願いします」
彩が患者の額に手をかざしながら、こちらを見る。
「玲様、そちらの調合、あとどれくらいで完成しそうですか?」
「あと七日、いえ、うまくいけば五日でしょう」
乳鉢を挽く手は止めない。
「触媒になりえる薬草が分かれば、あとは早いかと」
「流石です。私たち教会にできることがあればいつでも言ってくださいね」
「助かります」
患者の脈を取りながら、独り言のように付け足す。
「……このままいけば、思ったより早く片がつきそうですね」
「ふふ、玲様がそう仰るなら、本当にそうなのでしょうね。……あ、そういえば、陛下には最近もこちらの様子をご報告なさっているのですか?」
「必要な範囲では。……過不足なく、というやつです」
「そうですか」
彩は少し首を傾げたが、それ以上は追及してこない。
過不足なく、というのは半分本当で、半分は方便だ。ここ数日、供の一人もつけずに城下へ通い詰めているという事実を、私は焔に「彩殿と治療に協力しています」とだけ伝えてある。それが嘘ではないにせよ、ほぼ丸一日、護衛もなく市中に身を晒し続けている実態までは、あえて言葉にしていない。特別に危険だとは意識していなかった。いちいち報告して護衛を付ける手間よりも、目の前の患者を診る方が、優先度が高いと判断しただけのことだった。
夕刻が近づき、列に並ぶ患者の数もまばらになってきた頃。
列の最後尾に、一人の男が新たに並んでいることに、私はさほど注意を払わなかった。粗末な単衣を纏い、他の患者と同じように背を丸め、時折乾いた咳をこぼす様は、ただの病人の一人にしか見えない。ただ、強いて言えば男の手だけが、やけに荒れていないことに、ほんの一瞬だけ引っかかりを覚えた。城下の民の多くは水仕事や力仕事で手が荒れているものだが、この男の手のひらは妙に滑らかで、爪の先も整っている。だがその違和感は、次の患者の対応に紛れて、すぐに意識の外へ追いやられてしまった。
その男の順番が回ってくる。私は特に警戒することもなく、いつも通りにしゃがみ込んで男と目線を合わせた。
「症状を伺います。いつ頃から――」
問診を始めようとした、その矢先だった。俯いていた男の顔が跳ね上がる。伏せられていた目が露わになる、病人の弱々しさなど微塵もない、冷たく研ぎ澄まされた光が私を射抜く。
「……悪く思うな。これも仕事だ」
男の懐から、鈍く光る短刀が引き抜かれる。狙いは迷いなく、私の喉元。
「玲様――!」
少し離れた場所にいた彩が、悲鳴に近い声を上げる。とっさに聖杖を持ち上げようとするが、間に合わない。私自身、身体が状況に追いつかず、わずかに仰け反ることしかできなかった。喉は諦め、せめて首の切断だけは避けようと片手を上げる。刃が届くまで、あと僅かーーその時。
轟ーーーーーーーーーーーーーーーーーッ
感じたのは、刃の冷たさではなかった。それよりも先に、隣の空間そのものが軋むような、強烈な圧が襲う。風を置き去りにする速さで、何かが割り込んできたのだと、私が理解したのは、すべてが終わった後だった。
視界が一瞬、白く明滅する。次に捉えたのは、宙を舞う男の右腕と頭部だった。驚愕に見開かれたままの男の顔が、網膜に残る。悲鳴を上げる暇すらなかったのだろう。斬られた本人が、自分の身に何が起きたのか理解する前に、その瞳は瞼によって閉ざされていた。
目の前には、焔が立っていた。刀身にはまだ、赤い血が滴っている。呼吸の乱れは一切ない。まるで最初からそこにいたかのような、静かな佇まいだった。それでいて肌を刺すような殺気と不機嫌が目に見えるのではないかというほど放たれている。
なぜここにいるのか、すぐには分からなかった。だが、焔の全身から立ち上る気配から察するに、答えはおのずと知れた。ここ数日、供もつけずに城下へ通い詰めていた事実に、焔はついに気づいたのだ。そして、怒りのままに単身で捜しに来た。そのタイミングが、偶然にもこの瞬間と重なった、それだけのことだろう。
一瞬の静寂ののち、男の絶命した体が崩れ落ちる、重く鈍い音だけが響いた。
「へ、陛下……? いつの間に……」
彩が震える声で、聖杖を握りしめたまま呟く。焔は答えず、刀を無造作に一払いして血を振り落とした。所作には一切の無駄がない。金色の瞳だけが、じっと私を見据えている。
まるで何か話せと訴えかけているようだった。
「……陛下」
絶命した男の骸を一瞥もせず、焔はゆっくりと私の方へ向き直った。金色の瞳が、顔を、首筋を、無事を確かめるように一往復する。
その時、私を襲ったのは、助かったという安堵ではなく違和感だった。焔の纏う気配が、これまで幾度となく目にしてきた、殺人衝動由来の剥き出しの殺気とは、明らかに質の違っていた。怒りというより、もっと底の見えない、静かで凄まじい圧だった。
周囲の患者や通りすがりの人々も、何が起きたのか分からないまま、息を呑んで成り行きを見守っている。
分からないーー。焔は何も言わない、何も言わないことが、更に困惑を加速させる。私は無意識のうちに、半歩だけ後ずさっていた。
焔はその反応に気づいたのかどうか、表情一つ変えずに大股で歩み寄ると、私の手首を万力のような力で掴んだ。振りほどく余地も、言葉を差し挟む暇もない。彩が慌てて呼び止めようとするが、焔は一瞥もくれなかった。私を引きずるようにして、歩き出す。
「へ、陛下、あの……!」
彩が何かを言いかけるが、続かない。もつれる足を必死に動かしながら、私は振り返り、彼女に向けて辛うじて声を絞り出した。
「……あとは、頼みます」
彩は何か言いたげに口を開きかけたが、結局その言葉は形にならないまま、私たちの後ろ姿を見送ることしかできなかった。
城への帰路、私たちの間に会話はなかった。夕暮れの城下町を、焔は一切歩みを緩めることなく進んでいく。ただ、私の腕を掴む焔の手の力だけが、痛いほどに食い込んでいた。初めてかもしれない、この人がこんなにも何も言わないのは。
人気のない路地に差し掛かったところで、私はようやく口を開いた。
「陛下。手首が――」
「……黙れ」
低く、地を這うような声。それ以上は、何も続かなかった。顔を見なくても分かる。今、何を言っても、この人には届かない。
コメント
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わあ……第22話、すごかったです。刺客が迫った瞬間に焔が現れて一閃、って展開、脳内で映像が浮かぶようでした。何より印象的だったのは、その後です。助かった安堵より先に、焔の無言の怒りがひたひたと迫ってくる感じ……手首を掴む力と「黙れ」の一言だけで伝わる感情の重さに、胸がぎゅっとなりました。玲が無事で本当によかった。次が気になります。