テラーノベル
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第23話:俺の目が届く場所にいろ、という名の鎖
研究棟に足を踏み入れた瞬間、焔はようやく私の手首を離した。
解放された腕には、彼の指の形がくっきりと赤く残っている。暫くすれば消えるだろうが、そこに刻まれた熱だけは、妙に長く尾を引くような気がした。焔は私に背を向けたまま、後ろ手に扉を乱暴に閉める。ガタン、と重い音が響き、その反動で棚の薬瓶が小さく震えた。それきり、彼は何も言わない。ただ肩を強張らせ、拳を握りしめたまま、私に背中を向け続けている。
棚に並ぶ薬瓶と、書きかけの処方箋が散らばったままの机。いつもと変わらぬはずの部屋の空気が、今夜はやけに重かった。
(さて、どうしましょうか)
私は痛む手首をさすりながら、この沈黙をどう扱うべきか考えあぐねていた。いつもなら軽口の一つも叩けるところだが、今の焔から立ち上る気配は、それを容易に許す質のものではない。背を向けたままの広い肩が、呼吸のたびにわずかに上下している。普段なら気にも留めない、その些細な動きが、今夜だけはやけに目についた。
しかし、黙り込んでいても事態は進展しない。それが私の判断だった。
「陛下。おかげさまで、服が血で汚れずに済みました」
努めて普段通りの声で切り出してみる。焔は答えない。背を向けたまま、拳を握りしめている。指の関節が、白く浮き上がっているのが見えた。
「……何か仰ってください。黙られていると、正直かなり居心地が悪いのですが」
焔がゆっくりと振り返った。金色の瞳に宿るのは、怒りというより、もっと切迫した何かだった。その視線が、私の首筋から手首へと、確かめるように何度も往復する。
「……何日だ」
「は?」
「何日、供もつけずに出歩いていた。正直に言え」
少し考えてから、私は答えた。
「……七日、いえ、今日で八日目ですね。彩殿と組んでからは毎日ですので」
焔の拳を握る手に、目に見えて力がこもった。
「八日……八日だと?」
「効率を優先した結果です。いちいち護衛を手配する手間より、直接現場に赴く方が早いですし、実際に成果も出ています」
「そういう話を聞いているんじゃない」
その声は、これまで聞いたことのない低さで喉を這っていた。
嫌な予感がした私は根治薬完成の近さを、理路整然と説明することにした。
「陛下。根治薬の完成まで、あと数日というところまで来ています。ここで一々護衛付きの手配を割いてしまうと、身動きが取りづらくなり、完成が遅れます。それは陛下にとっても本意ではないはずです」
「知ったことか。お前が死ねば、薬も何もあったものじゃないだろうが」
「死にません。大抵の傷はすぐに再生します」
「今日、俺が間に合わなかったらどうなっていた」
「……」
「答えろ」
焔の声が、逃げ場を塞ぐように一段と低くなる。
「間に合わなければ、首と胴が離れていたでしょうね。それでも死にはしませんが、当分は使い物にならなかったはずです」
「……お前は、それを平然と言えるんだな」
低く、地を這うような声だった。
「事実を述べているだけです。感情的になったところで、状況は変わりません」
「変わらなくていい」
焔は吐き捨てるように言った。大股で一歩、こちらへ詰め寄る。
「俺が知りたかったのは、お前が何日、俺に黙って城下をうろついていたかだ。それを八日も気づかなかった俺自身にも、腹が立っている」
私は、自分の主張自体が間違っているとは思っていない。薬の完成が最優先であるという私の理屈は、合理性の点では正しいからだ。だからこそ、焔もすぐには反論の糸口を掴めずにいる。
だが、彼の怒りは、効率や合理性の話ではないらしい。もっと単純な今日、目の前で私が刃を向けられたのを、彼自身が目撃したという事実そのものに根差しているようだった。
その感情をうまく言葉にできないからこそ、焔は苛立ちを感じ、命令口調でそれを覆い隠しているのかもしれない。もっとも、私にはその中身を正確に読み取る術はないので、ただ実務的に反論を重ねていくしかなかった。
議論は平行線を辿る。互いに譲る気配を見せないまま、部屋の空気だけが張り詰めていった。焔は苛立たしげに髪をかき上げ、それでもなお、視線だけは私から逸らそうとしない。まるで、目を離した隙にまた消えてしまうとでも思っているかのように。
(……半妖を幽霊とでも思っているのかしら)
すると埒が明かないと判断したのか、焔が唐突に言葉を切った。
「……いいだろう。俺が常に傍にいる。その代わり、治療活動への参加は許してやる」
少し意外に思い、私は目を上げた。
「……よろしいのですか?」
「お前が視界の外にいなければ、それでいい」
焔は腕を組み、私を見下ろした。
「今度また黙って一人で出て行ったら、次はどうなるか分かってるだろうな」
「善処します」
いつもの調子で軽く受け流す。それは、治療の継続と焔の懸念の両方を満たす、私にとっても悪くない落とし所だった。
「知るか」
焔は鼻を鳴らした。
「お前が皇后になった後も、いちいち一人で背負って勝手に出歩くつもりか。付きっきりでいるのは、その時のための予行演習でもあるからな」
――皇后になった後。
私は一瞬、言葉を返せなくなった。焔はその言葉を、まるで疑いようのない当然の前提として口にしていたからだ。「今回だけ」とも「一時的に」とも言わない。まるで、当然そういう未来が続いていくのだと、疑うことすらしていないかのような口ぶりだった。
私自身はこれまで、この婚約者という立場を「役割を演じているだけ」と考えていた。契約が終われば、治療が終わってしまえば。この関係もまた、然るべき形に収まる。そう考えることで、必要以上に踏み込むつもりは毛頭なかった。だが焔の物言いには、その割り切りが入り込む余地がない、揺るぎない確信があった。
(……この人は、本気で、先の話をしている)
喉の奥に、うまく言葉にならない何かがつかえた。指先が、無意識に自分の袖口を握りしめていることに、遅れて気づく。
新しい取り決めが交わされたことで、部屋の張り詰めた空気も少しずつ緩んでいく。焔は長椅子にどかりと腰を下ろし、早速「付きっきり」を実践するかのように、その場を動く様子を見せずに言う。
「城下の同行は、明日から始める」
「明日、それは……大丈夫ですか? 曲がりなりにも皇帝としての公務があると思いますが」
「お前の知ったことではない。明日からお前は、俺の目が届く場所にいろ。それだけが条件だ」
「畏まりました」
私は一度小さく息をつき、机の上の処方箋に視線を戻した。
「では、明日の段取りを詰めておきますね」
焔は答えず、目を閉じて長椅子に深く沈み込む。私はまだ動揺の余韻を抱えたまま、いつも通りの淡々とした態度を取り繕いながら、明日からの段取りを頭の中で組み立て直していた。
交わされる言葉は少ない。それでも、先ほどまでの張り詰めた沈黙とは、幾分か穏やかになっていた。処方箋に目を落としたまま、私はふと視線を横へ滑らせる。今日一日で何度も見た、不機嫌そうな横顔。それだけのはずなのに、なぜだか今は、いつもより少しだけ長く見つめてしまっている自分に、私はまだ気づいていなかった。
コメント
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いやもう、焔の「皇后になった後」って何気なく言った一言が刺さりましたね……。今まで「役割を演じてるだけ」って割り切ってたヒロインが、初めて未来を前提にされたときの戸惑い、すごく伝わってきた。あと、手首の指の痕が赤く残ってる描写とか、薬瓶が震える細かい演出が、二人の間の張り詰めた空気を可視化してて好きです。「俺の目が届く場所にいろ」って台詞、独占欲と心配が混ざってて最高だった。次どうなるか気になるー!