テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
翌日、昼休みのチャイムが鳴って、弁当のご飯をを急いで食べていると、教室のドアが静かに開いた。健ちゃんがまるでなにかを思い出したみたいな顔で、迷いなく俺の席にやって来る。
「奏、ちょっと時間ある?」
かけられた声は柔らかい。けれど、長く付き合ってきた俺には、その奥になにかを隠している響きがあるのが、すぐにわかった。
「え、ああ……別にいいけど」
健ちゃんは廊下のほうに視線を向け、軽く顎で合図する。
「ここじゃ話しにくい。中庭まで来てくれない?」
昨日の氷室の言葉が、ふと胸を過る。
『――ああいう感情を持つ人間が、俺の傍にいる大事な人に近づくのは、どうしても警戒してしまう』
一瞬だけ迷ったが結局、椅子を引いて立ち上がった。
健ちゃんは廊下を一定のゆっくりした歩幅で進み、時折俺を振り返ってはほほ笑む。口元は笑っているのに、目の奥は水面のように静かで、底が見えない。だからこそ、かえって距離の測り方がわからなくなる。
中庭のベンチは、昼休みのざわめきから外れた静けさの中にあった。風が葉を擦り合わせる音だけが耳に残る。健ちゃんは俺がベンチに腰を下ろすのを待ってから、向かい側に座った。
「昨日の帰り、氷室と一緒だったろ?」
軽く投げられた問い。世間話に聞こえるけれど、視線はまっすぐで俺の逃げ場がない。
「……まあ、うん」
「ふたり、仲いいよな。奏は昔から、ああいうタイプが好きだったのか?」
何気ない口調の裏に、なにかを測っている妙な間があるのを感じた。
「別に、“タイプ”とかじゃないけど……」
「へえ」
それを聞いた健ちゃんは、唇の端だけで笑う。その笑いに温度はなかった。
「俺、生徒会で氷室と長く話をしたことがあるけど……アイツ、意外と壁を作るだろ?」
舞い落ちる落ち葉が風にさらわれ、俺の足元で小さく回転した。ざらりとした音が、健ちゃんの言葉と重なって胸に引っかかる。答えられない俺の沈黙を彼は楽しむように、健ちゃんは自分の腰に手を当てながら一瞬だけ瞳を細めた。
「俺はさ、人を見るのが得意なんだ。氷室は“自分の世界”を持ってる。あそこに入り込めるヤツなんて、そう多くない」
その声は、忠告じみた挑発のようでもあった。
「でも……奏は珍しいよ。アイツの隣にいられるなんて」
褒められたはずなのに、胸の奥にざらっとした感触が残る。さっきから言葉を返せない俺に、健ちゃんはさらに近づくように身を乗り出した。
「だけどさ氷室に似合うのは、実際は俺のほうだと思わない?」
その瞬間、風が止まり、周囲の音が遠のいた。空気がじわりと重くなって、背筋に冷たいものが走る。
「……なんで、そんなことを言うの?」
「悪い意味じゃない。ただ……俺と氷室は似てるんだ。奏にはわからない“距離感”や“ルール”を、俺は自然に守れる。似た者同士は相性がいいだろう?」
穏やかな声の中に、見えない境界線がくっきりと引かれているのを感じる。
俺は目の前から視線を逸らし、無意識に拳を握る。健ちゃんはそれ以上言葉を重ねず、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、午後の授業に遅れるといけないから」
昼下がりの光の中を歩き去る背中は、相変わらず穏やかで輪郭は崩れない。残された俺の胸には、まだざらつきが残っていた。喉が乾き、心臓が一定のリズムを刻まなくなるイヤな感覚。
『――氷室に似合うのは、俺のほうだと思わない?』
ふたたび告げられた言葉――その声が、何度も何度も頭の中に波紋のように広がっていく。
それが正しいなんて思わない。けれど、あの落ち着いた調子で言われると、否定の言葉が喉を通らなかった。しかも、言い返せなかった自分がすごく悔しい。だって、頭の中で想像してしまう。俺と蓮が一緒にいるところと、健ちゃんと蓮が一緒にいるところ。
傍から見ると俺と氷室が並んでも、ただの“平凡な生徒と優等生”にしか見えない。けれど健ちゃんと氷室なら、“似た者同士”として完璧に映るだろう。そう思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。頭が良くなくてドジばかりやらかす俺は、どう考えても太刀打ちできない。
俺が氷室の隣に立つには、足りないものだらけなんだ……。
遠くでチャイムが鳴りはじめる。立ち上がろうとする足が重く、動くまでに数秒かかった。
(このこと蓮に話すべきか……それとも――)
午後の授業中も、黒板の文字は頭に入らなかった。ただ、健ちゃんの声だけが耳の奥でこだまし続ける。その棘を、氷室に見せるべきかどうか――答えはまだ出せなかった。