テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
眠りひめ
292
7,174
1,134
人混みの中で、思わず名前を呼んだ。
振り返ってくれた、その笑顔を見た瞬間、
胸の奥で何かが、静かに音を立てた。
そのときの俺は、まだ分かっていなかった。
どうして、あんなにも必死に名前を呼んだのか。
どうして、姿が見えなくなっただけで、あんなにも心細かったのか。
どうして、振り返って笑ってくれただけで、あんなにも安心したのか。
全部、分かっていなかった。
でも、今なら分かる。
恋は、ある日突然始まるものじゃなかった。
何か一つの出来事で、世界が変わるものでもなかった。
あの人の笑顔を見て、ほっとした日。
誰かのために膝を汚してしゃがむ横顔を見て、心が震えた日。
誰かに笑いかける姿を見て、胸の奥がざわついた日。
名前を呼ぶたびに、理由もなく心臓が鳴った日。
隣にいるだけで、何だか落ち着いた日。
気付けば、目で追っていた日。
そのひとつひとつが、毎日少しずつ、
誰にも気付かれないくらい静かに積み重なっていった。
人混みの中で名前を呼んだ、その瞬間。
ようやく俺は、自分の気持ちに追いついた。
恋をした日なんて、本当は分からない。
きっと、好きになる瞬間は、一瞬じゃない。
毎日の中に少しずつ溶け込んで、
気付いたときには、もう戻れないくらい、大きくなっている。
俺の恋も、そうだった。
⸻
枕元で、スマホが小さく震えた。
画面を開いて送り主を見ると、勇斗だった。
それだけで、自然と口元が緩む。
『おつかれ』
少し遅れて、もう一件。
『今日ありがとな』
思わず笑ってしまう。指が勝手に動く。
「おつかれ」
送信すると、すぐ既読が付いた。
『また明日!』
短い、いつも通りのやり取り。
いつも通りの距離。
最後に届いた一言。
『おやすみ、柔太朗』
たったそれだけの文字なのに、
頭の中では、ちゃんと勇斗の声で聞こえた。
その声が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
スマホを両手で握って、目を閉じる。
小さく息を吐いて、誰に聞かせるでもなく、静かに呟いた。
「……好きなんだ」
その声は、夜の静けさに溶けていき、
ようやく俺は、この気持ちの名前を知った。
そしてこの恋は、
ここから、ようやく始まる。
君を呼ぶ声 中編 / 了
コメント
2件
あんりさん、中編お疲れさまでした。ここにたどり着くまでの柔太朗の気持ちの積み重ねが、全部「恋をした日なんて分からない」という一文に集約されていて、胸がぎゅっとなりました。好きって一瞬じゃなくて、気づいたらそこにあったものなんだなって。勇斗からの「おやすみ、柔太朗」というメッセージと、それに応える「好きなんだ」というつぶやき、この静かな夜の空気感がとても美しかったです。続き、楽しみにしています🌷