伊織の頬を挟んでいた藤堂の手が、ゆっくりと離れる。しかし、その残された温もりと、藤堂の真剣な眼差しが、伊織の心に焼き付いていた。「……藤堂くん」
伊織が絞り出すように名前を呼ぶと、藤堂は少し息を詰めた後、さっきまでの自信に満ちた笑顔ではなく、少しだけ切ないような表情を浮かべた。
「伊織。俺、お前のこと……友達としてだけじゃないんだ」
図書室は、放課後の静寂に包まれていた。聞こえるのは、二人の微かな呼吸の音だけ。伊織の心臓は、激しく、不規則なリズムを刻んでいる。彼は何を言おうとしているのだろうか。
「俺は、お前が誰にも見向きもされずに、一人で静かに本を読んでいるのを見るたびに、胸が締め付けられてた」
藤堂の告白は、伊織にとって青天の霹靂だった。キラキラと輝く彼が、自分のような冴えない人間に、そんな感情を抱いていたなんて、想像もしていなかった。
「でも、俺が声をかけると、お前はいつも驚いた顔をするか、怯えた顔をするか……。俺は、お前の特別になりたかった」
藤堂は一歩、伊織に近づいた。二人の距離は、図書室の机を挟んで、手の届くほどに近くなった。
「俺は、みんなが思うような、ただの明るい人気者じゃない。誰かに必要とされたくて、無理して笑ってる部分もある」
藤堂は、ふと自嘲するかのように笑みを浮かべた。伊織は、藤堂のそんな弱さを初めて見て、驚いた。彼もまた、自分と同じように、何かを抱えている人間なのだと。
「でも、お前は違う。伊織は、誰にも媚びず、自分の世界を大切にしてる。それが、すごく眩しかった」
藤堂は、伊織の手を取り、そっと握りしめた。その温かい感触が、伊織の全身を巡る。
「だから、お前の世界に入れてくれ。俺の特別になってくれ、伊織」
伊織の目からは、知らず知らずのうちに涙が溢れていた。それは、驚きと、感動と、そして今まで感じたことのない幸福感の涙だった。彼は、自分が誰かに必要とされることを、心の底でずっと望んでいたのだ。
「藤堂くん……僕は、僕なんかで、本当にいいんですか?」
涙声で尋ねる伊織に、藤堂は力強く頷いた。
「いいに決まってるだろ。俺がお前がいいんだ」
藤堂は、握った伊織の手をそのままに、立ち上がり、机を回り込んで伊織の前に立った。そして、伊織の涙を親指でそっと拭った。
「泣くなよ、伊織。泣かせるつもりじゃなかった」
「ううん……嬉しくて……」
伊織は、嗚咽を漏らしながら、藤堂に抱きついた。藤堂の体は、伊織が思っていたよりもずっと温かく、しっかりとした筋肉を感じた。彼の匂い──爽やかな石鹸と、ほんのりとした甘い香りが伊織を包み込む。
藤堂は、伊織の細い体をそっと抱きしめ返した。
「ありがとう、伊織」
彼の耳元で囁かれたその言葉は、伊織の心に深く響いた。
夕焼けの色が濃くなり、図書室の窓から差し込む光が、二人の影を長く伸ばした。冴えない男子高校生と、学校一のモテ男。二人の世界は、今、静かに、そして確かな熱を持って、一つに重なり始めたのだった。
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