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前日の不愉快さを何とか昨夜の内に昇華したヴィーラントとマニンガーが重い足取りで、だが調査官という立場上甘く見られてはいけない一心で背筋を伸ばして警察署に入ったとき、署内は得も言われぬ空気に包まれていて、その空気に触れた二人も重大な何かが起きたのだと気付きヒンケルの部屋のドアをノックする。
入れの言葉に失礼すると硬い声で返事をしつつドアを開けると、中にはコニーとブライデマンが難しい顔をしながらヒンケルと話し合っていた。
「おはようございます、警部」
「ああ、おはよう。昨日はドクに言い負かされたようだな」
「…………」
ヴィーラントにとっては汚点とも言える昨日のウーヴェとの会話を思い出して顔を引きつらせることで返事に替えた彼女は、何かあったのかと問い掛けて重苦しい溜息を返される。
「リオンが人身売買に関わっていた証拠は出てきたか?」
彼女の顔が引き攣ったのを見て冷笑気味の表情を浮かべたのはコニーで、ヒンケルは重々しく頷くだけだった。
「……まだ見つかっておりません」
「探すだけ無駄だ。そんなものは出てこない」
もしも出てきたとしてもこちらの方が重大で重要だからたかが知れていると、刑事としての発言とは思えない言葉を苦い顔で呟くヒンケルを見つめたヴィーラントは、マニンガーの顔を一瞥した後どういう意味だとヒンケルのデスクに詰め寄る。
「……昨日新しい事実が幾つも発覚した。それについて少し説明をする」
「警部、一緒に説明した方が楽ですよ」
「そうだな」
ここで限られたものにだけ説明するのではなく一緒に働く仲間達にも説明をしようとコニーが促して部屋を出ると、何事だと集まる同僚たちの前で今回の事件に関係する証拠写真や書き込みがされているホワイトボードを裏返して微かに震える文字で昨日までに分かった事実を羅列していく。
その作業を見守っていた同僚達が羅列される事実が自分たちにとって信じがたいものであることを一行ずつ追加されていく文字に教えられて徐々に目を瞠り、コニーが最後の一文を書き終えた時にはホワイトボードに食って掛かりそうな勢いで集まっていた。
「コニー、どういうこと!?」
「これは……やはり本当なのか!?」
そこに羅列される文字が自分たちにとって、そして今行方が掴めなくなっている二人の内の一人にとってとても耐えられない事実だと知り、ダニエラが真っ青な顔で声を震わせ、マクシミリアンとヴェルナーも似たり寄ったりの表情でコニーの顔を注視する。
「残念ながら……すべて事実だ」
コニー自身もこんな現実は受け入れたくはなかったが集まってきた証拠などを検討した結果、この答えしか導かれなかったと呟き、ホワイトボードのマーカーを握りしめる。
「警部、これじゃあリオンが…!」
「分かっている」
ダニエラの悲鳴じみた声にヒンケルが忌々しそうに頷き、この事実を知ってしまえば誰とも連絡を絶ってしまいたくなると呟き、背後にいるヴィーラントとマニンガーを振り返ると、今回の一連の事件についてのまとめだと告げて二人にもよく見えるようにホワイトボードの横に移動する。
ヴィーラントとマニンガーにしてみれば今回の事件で自分たちが調べるのは現役の刑事が人身売買組織と関係があったか、またその刑事が過去に担当した事件などで規範を逸脱した行為をしていたかについてであり、有り体に言えば姉同然のシスターが組織の一員である事実をリオンが知っていたかどうかを調べることだった。
だから突き付けられた現実を俄に信じることは出来ずにどういうことだと独り言のように呟くと、コニーが腕を組んで天井を見上げ、意を決したようにヴィーラントを見つめて口を開く。
「人身売買に関係していたのはリオンではなくもう一人の俺たちの同僚、ジルベルトとフランクフルトから派遣されてきたロスラーだ」
「!!」
「この二人はシスター・ゾフィーが遺体で発見された前日から姿を消し、今も音信不通になっている」
彼女の遺体が発見された時にはもうどちらも連絡が付かなくなっており、ロスラーはフランクフルトにも戻っていないそうだと答え、ヴィーラントの混乱したような顔に溜息をつく。
彼女たちとしては、昨日ウーヴェに指摘されて図星を突かれた痛さからも怒りに震えていたが、リオンの生い立ちから何かがあってもおかしくないと思い込み聞き込みをしていたが、現実はリオンではなくその同僚のジルベルトと今回の事件を調べるためにフランクフルトから派遣されていたロスラーという刑事だったと教えられて混乱の極みに達してしまう。
自分たちの予想-それはウーヴェやレオポルドに指摘されたように多分に偏見に基づいたもの-と違う未来が広がっている現実を直視するには冷静になる必要があった。
「ロスラーの捜索についてはフランクフルトの警察と協力してすることになったが、国内にいるかどうかも分からない」
だからインターポールにも依頼をしたことを伝えたコニーだが、己の同僚でもあったジルベルトの話を切り出さない訳にもいかず、腕を組み替えてジルベルトの捜索も依頼していると頷くと、ヴィーラントがマニンガーを振り返って何ごとかを囁きかけ、彼女の意を受けたマニンガーが大急ぎで刑事部屋を出て行ってしまう。
今後どのように動くのかを確かめに行ったことを察したコニーだが、それについては何も言わずにただ彼女を見つめ、だから今回の内部調査について、リオンが姉の犯罪に荷担していた確証が出てこないのであれば打ち切り、代わりにロスラーとジルベルトの調査に取りかかった方が良いと提案をする。
「……自分たちの調査についてはあなたではなく上司に相談する」
自分たちの身の振り方は地方警察の一刑事に指示されることではないと言い放った彼女にコニーが無言で肩を竦め、それならばそれで構わないが偏見に満ちた報告書を上げられて自分たちの仲間を窮地に追いやられたくはないからなと見えない釘を刺した後、無言で腕を組んでいるヒンケルにバトンタッチをする。
「……今回の事件、発端はフランクフルトでヴェラが遺体で発見されたことだが、彼女はほぼ事故死だと結論付けられた」
彼女がマイン川に浮かんでいたのは、見張りの目を盗んで与えられていた部屋から逃げ出した際、地理に不慣れな彼女が足を滑らせてマイン川に落ちた可能性が高いと報告を受けたこと、彼女を雇っていたFKKでは彼女が未成年であり身分証明書もパスポートも偽造されたものであることを知っていたことも同時に伝えられたが、妹からの連絡が途絶えたことを不審に思った姉がドイツにやって来て殺害されたのだろうと報告書が結ばれていたことも伝えると、コニーやブライデマン以外の面々が溜息をつく。
「ゾフィーが彼女と教会で落ち合い、その時に妹のヴェラに与えたロザリオを姉に手渡したのですか?」
マクシミリアンの疑問にヒンケルが頷くが、あくまでもこれは仮説だが間違ってはいないだろうと前置きをし、あの教会でゾフィーと会ったダーシャだが、その後死体で発見された男達にあのアパートに連れて行かれ、そこでレイプされた後殺害されたと、長年刑事をしているヒンケルでさえも胸が悪くなる場面を思い描いて説明をし、その後死んだ彼女を河に投げ捨てたのだろうとホワイトボードを見る。
「じゃあ、ダーシャ殺害犯はあの二人で間違いがないのですね?」
「ああ。カールがそれこそ詳細に調べてくれたからな」
ダーシャを殺害し遺棄した犯人が二人とも死亡したことは悔しかったが、話は自然とゾフィーとその二人を殺した犯人――出来れば使いたくはない言葉――へと移行していく。
「ゾフィーと二人を殺したのは、やっぱり……」
「カールの調べによれば二人の男は頭部に銃弾を受けた為の死亡だが、ゾフィーは繰り返し暴行を受けた上、まともな食事も水分も取っていないことによる多臓器不全が死因だそうだ」
「ゾフィーを暴行したのはその二人だろうが、二人を撃ったのはジルベルトとロスラーのどちらだ?」
「ジルベルトだ」
二人の男の死亡推定時刻を教えて貰ったが、その時ロスラーはまだ俺たちと一緒にいた、いなかったのはジルベルトだとヒンケルが答え、皆が一様に重苦しい溜息をつく。
「ジルベルトはICEを使ってフランクフルトに向かったことは確かめられた」
だが、フランクフルトからの足取りに関しては情報がまだ入ってきていないことを悔しさを滲ませた声で伝えたヒンケルだが、ドイツ国内にいるとは思えないこと、またロスラーに関してもジルベルトとは別に逃亡しているようで、こちらもまた国内を含めユーロ圏に手配を頼んでいるので何かしらの情報が入ってくるだろうと締めくくり、腕を組んで壁に背中を預ける。
「――今回の事件、結局は人身売買組織の仲間割れということですか」
ヒンケルの重苦しい表情やブライデマンの苦虫を噛み潰したような顔を横目に、マクシミリアンがフランクフルトで得た情報と今知り得たそれを脳内で混ぜ合わせて端的な言葉で今回の事件について言い表すと、コニーが人差し指でマクシミリアンを指さしてビンゴと悲しげに呟く。
「結果的には仲間割れになった。……リオンはそれに巻き込まれただけだ」
姉同然のゾフィーが人身売買に関係しているなど逆立ちしても出て来ない発想だっただろうし、そんな彼女をまさか信頼していた同僚が嬲り殺したなど到底受け入れたくない現実だろうと呟き、駆け足で戻って来たマニンガーへと視線を向ける。
皆の視線を一身に受けたマニンガーだがヴィーラントにだけ何事かを耳打ちし彼女が頷いたのを確かめると、ヒンケルに今回の調査について対象相手が変わったこともあり調査自体を打ち切ることになったと淡々と告げる。
「……そうだろうな」
マニンガーの言葉にヒンケルが重々しく頷き、ジルベルトやロスラーに関しては本人がいない為に調査が出来ないだろうし、また内部調査などというものでは手に負えない事態になってしまっているのだと二人を見ると、ヴィーラントの目に強い光が宿る。
「今回はこのまま帰るが、刑事としての素質を疑われるような言動を取らないように部下にはしっかりと注意をしておいて欲しい」
ヴィーラントの言葉にヒンケルはただ目を細めただけで口に出しては何も言わなかったが、部屋を出て行くその背中にコニーが珍しく親指を床に向けて突き出して見送る。
「……一体何の為に来たんだ、あいつら?」
二人の姿が完全に見えなくなってからブライデマンがぽつりと呟いた言葉は今この場にいる面々の心を完全に代弁していたのか、それぞれが同じ表情を互いの顔に見いだして肩を竦めたりしていたが、ヒンケルの咳払いで我に返る。
「ジルベルトとロスラーについて今日会見を開く。何かと騒がしくなるだろうから言動には暫くの間は十分注意を払っておいてくれ」
「Ja」
「ジルベルトを探したいだろうが、もう俺たちの手には負えない事件になっている。後のことはブライデマン警部とBKAに任せることになるだろう」
「BKAにも報告はしてある。今回の事件に関して何か動きがあればこちらにも伝えるように頼んでおく」
だから歯痒いだろうがBKAに任せてくれと頷くブライデマンを意外そうな顔でコニーらが見つめると、端正な顔にさっと赤みが差して咳払いをして顔を背ける。
今までいけ好かないヤツだと思われていたブライデマンだが、立場は違っても刑事であり事件解決への思いは同じであることに気付き、コニーが苦笑いをしつつ手を差し出す。
「宜しくお願いする」
「ああ」
コニーの意見は皆の総意であることを示すように頷いた仲間達は、人身売買組織の仲間割れという一地方警察の手には負えない事件へと最終的に発展してしまったそれに歯痒さを感じつつ、今回の事件の後始末に取り掛かるのだった。
部下達のてきぱきとした動きをじっと見守っていたヒンケルは、つい半年前、いや、それどころかひと月ほど前を振り返れば、いつも背中合わせのデスクでリオンとジルベルトが幼稚園児のように騒ぎ立ててはコニーやダニエラに注意をされていた過去が見え、一人は最早戻って来ることもなく、もう一人もいつ戻って来るのかさえ分からない現実にやるせない溜息を吐くしか出来ないのだった。
己が、仕事やプライベートの垣根を越えて信頼し仲良くしていた人に姉同然の存在を殺された。
その事実を受け入れるにはそれなりに時間が必要で、カインの家に転がり込んでその時間を過ごしていたリオンだったが、カインが働いている間は家にいても一人で考え込んでしまう為、それを避ける為に滅多に顔を出すことのない地区の居酒屋に昼間から入り浸っていた。
店の女主とも顔馴染みになったリオンは、昼日中から飲んでいるんじゃないと控えめに忠告されるが、一番信頼していた仲間に裏切られた、この思いを腹の何処に落とせばいいのか分からないと告げて酒を呷り、どれだけ飲んでも一向に酔えないのはどういうことだと暗く嗤っていた。
リオン自身が滅多に訪れる事のない地区であっても制服警官は角をひとつ曲がった先や通りの突き当たりの道を、生真面目だったり多少ふざけたりしながらも二人ひと組で歩いているのだ。
だからリオンの目撃情報がヒンケルやコニーらに届けられても良いはずなのに何故か警官の目を上手くかいくぐってリオンは毎日この店に通っていた。
ここに通うようになってしばらくした頃、ラジオから流れてくるニュースでチェコ出身の少女を殺害し遺棄したのが死体で発見された二人の男だと警察では断定し、犯人死亡という警察にとっては一番迎えたくない結末を迎えたが、その犯人と一緒に発見されたシスターらを殺害した男を指名手配したことを知り、アルコールに浸って茫洋とする青い瞳に一瞬だけ光を宿す。
「……あの事件、犯人が死んだのか」
チェコ出身でこの街に妹の死の真相を確かめに来た少女をレイプして殺害し捨てるなんて最低だが、その犯人を殺した男とは誰なんだと主が強い口調で犯人たちを非難すると、リオンから一人分間を空けた隣でコーヒーを飲んでいた店主と顔馴染みらしい青年が店主の怒りの言葉を聞き流す。
「警察も一体何をやってるんだろうね、本当に」
もっと多く早く捜査をしていれば犯人が死なずに逮捕出来たかも知れないのにと、事件が解明された後の解決ではなく人々の想像の中でのみ解決させなければならない事態を招いた警察への憤懣が口をついて出たのを黙って聞いていたリオンは、それにしても貧しい少女達を買い集めていたシスターも人でなしだと非難された時、さすがに黙って聞いていることは出来ずに少しだけ力を込めてグラスをカウンターに置く。
その音が意外な大きさで店内に響き渡り、店主が何だと険しい顔をリオンに向けると、向けられたリオンは言いたい言葉を深呼吸で飲み込んで肩を竦めると酒代だと言って紙幣をカウンターに投げ出す。
「ダンケ、オネエサン」
「あ、ああ……気をつけて帰るんだよ」
何気ない一言にリオンが暗い顔で帰る場所なんて無いと呟いてドアを開け、日差しが日に日に厳しくなる空を見上げるが、その時、思いも掛けない声が聞こえてくる。
「キング!?」
その声にのろのろと顔を向けたリオンだが、ここ数日間ずっと飲み続けているアルコールが足に来たようで、振り向いたと同時に蹌踉けてその場に座り込んでしまう。
「……酔ってねぇって思ってたのにな……」
立てた膝の間に頭を落として肩を揺らすリオンの傍に駆け寄ってきたのは今日は店が休みだった為に最近話題になっている店にチーフと一緒に出かけていたベルトランで、チーフもさすがにリオンの様子に驚いてベルトランの後を追って走ってくる。
「ウーヴェが探してたぞ?」
ウーヴェからリオンが行方不明になったと連絡を受けていたベルトランは、幼馴染みが心配そうに電話をしてきた時のことを真っ先に思い出し、今どこにいるんだ、ウーヴェや職場には連絡をしたのかと口早に問い掛けるが、肩を揺らし暗い声でもう刑事は辞めなければならないから連絡をする必要はないと告げると、ベルトランとチーフが顔を見合わせる。
「お前自身何も疚しいことはないんだろ? だったら辞める必要なんて無いんじゃないのか?」
ベルトランがリオンと視線を合わせるようにしゃがみ込み肩を叩くとリオンの顔が上がり、何が大丈夫なんだと暗い声で問われて言葉を無くす。
頬から顎に掛けて無精髭が伸び、アルコールのせいでいつもと比べれば赤ら顔になっているが、何よりも二人を驚かせて困惑させたのは、今まで見たことがないほど暗く沈んだ目だった。
いつもリオンが店に来るときはウーヴェと一緒で、ウーヴェがいるときといないときでは見せる顔に違いがあることは何となく理解していたが、人生のすべてに希望など見出せない、この先も今胸に抱えている絶望が延々と続くことを疑わない顔で嗤われ、人でなしのシスターの弟も人でなしだろうし、そんな姉と一緒にいたのだから弟も犯罪者に決まっていると、部署や管轄は違っても警察の仲間に言葉ではなく態度と冷たい目で教えられたとも嗤い、この世のすべてがおかしいと言いたげに肩を揺らすリオンにベルトランが溜息をつく。
「……お前自身に後ろ暗いことはないのなら堂々としていれば良いんじゃないか? それに、お前の仲間はそんな人たちじゃないだろう?」
警察がマスコミに公表している事実しか知らないベルトランにしてみれば当然の言葉だったが、姉を信頼していた仲間に殺された事実を知ってしまったリオンにとってその言葉がひどく虚しいものに感じてしまい、前髪を掻き上げつつ誰が見ても目を背けたくなるような笑い声を上げてベルトランの目を見開かせる。
「仲間かぁ……。あいつが、ゾフィーを殺したのがその仲間なんだよなぁ」
仲間ってどういう意味だっけベルトランと嗤って問い掛けるリオンから感じ取ったのは底なしの闇に通じる気配で、ベルトランが咄嗟に身体を起こしてリオンから距離を取る。
「ゾフィーは確かに罪を犯したけどさぁ、その代償にレイプされて嬲り殺されるのかぁ」
じゃあ俺も昔はかなり悪いことをしていたからきっとゾフィーと同じような末路を辿るのだろうと嗤われて絶句したベルトランは、携帯を取りだしてウーヴェに連絡を取ることを伝えるが、蹌踉けつつ立ち上がったリオンがベルトランの携帯を一瞥したあと、つい先程出てきたばかりの店に戻り、程なくして出てきた時には片手にジンのボトルを握っている事に気付いて携帯のボタンを無意識に押して通話を切ってしまう。
「おい、もう飲むのは止めろ!」
「……別に良いだろ?」
自分が何処で誰とどれだけ酒を飲んでいたとしても関係ないはずだとリオンに吐き捨てられて一瞬にして頭に血を上らせた彼は、携帯をチーフに渡すと同時にリオンの胸倉を掴んで酒臭い息を吐く顔に顔を近付ける。
「お前、ウーヴェがどれだけ心配しているか分かってるんだろう!? 分かっていてそれを言うのか!?」
今の言葉をあいつが聞けばどう思うと脳裏に浮かぶ幼馴染みの悲しそうな表情を先読みして珍しく声を荒げたベルトランにリオンは無表情に頭をひとつ振り、オーヴェと俺の世界は違いすぎていてそもそも付き合ったのが間違いだったと呟くと、ベルトランが掴んでいた胸倉を押し返した為、リオンがその場に尻餅をついてしまう。
「まさか……お前がそんな事を言うヤツだとは思わなかったぜ……! 今まであいつと付き合ってきたのに、あいつの過去も少しは知っている筈なのに、良くもそんな事が言えるな!」
「…………」
ベルトランが激昂する顔など未だかつて見た事のないチーフがただ驚きの顔で彼を見つめ、膝を抱えて座り込むリオンを直視する勇気も無くておろおろしていると、憤懣やるかたない思いを溜息に混ぜ込んだベルトランが拳を握る。
「そんな事……あんたに言われなくても俺が一番分かってる」
ウーヴェが自分をどれ程心配してくれているのか、また今もきっと仕事の合間に友人知人を頼って捜してくれているだろうこと、自分の上司や同僚達にも連絡を取っているだろうことは疑う余地はないと笑い、くすんだ金髪をきつく握りしめてたった今買って来たばかりのジンのボトルをベルトランの足下に叩き付ける。
「!!」
足下で割れて飛び散るボトルに一歩下がったベルトランの耳に不気味な笑い声が流れ込んできて思わず眉を寄せてしまうが、その後に胸を鷲掴みにされたような痛みを感じる声が聞こえてきて声を潜めてしまう。
「おい?」
「……オーヴェ……っ……!」
本当ならば今すぐウーヴェの傍に行き胸の中で溢れる思いを吐き出して楽になり、胸に染み渡る優しい声でお前は間違っていないから顔を上げて前を見ろと言って欲しかった。
だが、たとえどれ程ウーヴェがお前が歩んだ道を蔑むなと優しく諭してくれても、最も身近にいたはずのゾフィーの罪を見抜けなかった己は周囲からすれば誹りや嘲りを受ける存在だろうし、また姉が犯罪者だという事実は蔑まれても仕方のない事実だった。
その事実がウーヴェの元に向かう足を止め、彼の言葉を聞き入れる耳を塞ぎ、思いを伝えるはずの口を塞いだ結果、誰にも何も言わずに姿を消すのがいいと思えたのだ。
罪を犯したゾフィーに対する苛立ちと何故教えてくれなかったという怒り、罪の存在を見抜けなかった己への自己嫌悪といったマイナスの感情が一纏めになってリオンの胸を圧迫し、視界を暗い靄のようなもので覆ってしまっていた。
その靄の中で壁らしきものに手を付いて立ち上がったリオンは、心配そうな顔で見つめてくるベルトランに嗤い、チャオと小さく呟いて彼らの前から歩き去ろうとする。
「おい!」
ベルトランが蹌踉ける背中に呼びかけるもののその足が止まることはなく、壁に手を付き蹌踉けつつ歩くリオンと肩がぶつかって顔を顰める人々の間にその背中が消えるのをただ呆然と見送ることしか出来ないのだった。
ベルトランに吐き捨てたようにウーヴェが己の心配をしてくれていることは、他でもないリオンが最も理解していることだった。
自分でも分かっているが、ウーヴェの不安や心配を解消するためよりも己の中の罪悪感や不安などが強くてどうしても携帯の電源を入れることが出来なかった。
ウーヴェがどれ程己を愛し信じてくれていたとしても、やはりゾフィーが犯罪者である事実、それを見抜けなかった愚鈍な己に腹が立ち、そんな自分に愛想を尽かせてしまったのではないかという思いが強くて、自らウーヴェに連絡を取ることが出来なかった。
それを、いくら恋人の幼馴染みとはいえ他人に指摘されて瞬間的に苛立ってしまったが、彼が言わんとすることが正しいことはアルコールに犯された脳味噌であっても判断は出来ていた。
だからこそウーヴェに合わせられる顔がないと自嘲し、今己が何処にいるのかも分からないまま一軒の店に入り、持ち合わせている有り金で酒を飲み、その店を出たのは既に初夏の日が傾いて暗くなっている頃合いだった。
今日も一日飲んでも酔えないと思っていたが、午後の出来事がリオンに与えた衝撃は大きかったようで、店から出るときには一人で歩くのがやっとな有様になってしまっていた。
真っ直ぐ歩くことも不可能なほど酔っていたリオンは、壁に手を付いて身体を支えながら何とか歩こうとするが、通行人にぶつかりそうになっては相手が露骨に顔を顰めて避けていく為、誰にもぶつかることなく今のねぐらを目指して歩いていく。
世界のすべてがゆらゆらと揺れる中を同じように揺れながら歩いていると、今まで己が信じ守ろうとしてきた世界も揺れ、何を信じて良いのか、自分がこの世界に立つ術や理由すらも揺れてしまい、支えるもののない不安の中を進んでいるようだった。
幼い頃から己のルーツについて意識しなくても探る気持ちが大きかったリオンにとって、己の両足でしっかりと立てる拠り所は喉から手が出るほど欲しているものであり、揺れることのない大地は必要不可欠なものだった。
だから刑事という誰からも認められる職業に就いたのであり、その地位を喪わないために仕事には真面目に取り組んできていた。
それなのに今回の事件で今まで己が培ってきたものすべてが崩れたように感じ、揺れる世界で嗤っていると、誰かの肩にぶつかってしまったようで、小さな声で詫びるリオンをその誰かの手が突き飛ばしたため、ビルの壁に強かに背中をぶつけてその場に座り込んでしまう。
いつもならばこんな仕打ちを受けるとすぐさま反撃をしているが、これすらもゾフィーの事件の結果について責められている気がしたため、引きずり起こされ胸倉を掴まれ殴られる痛みを一向に感じることはなかった。
サンドバッグ状態のリオンを殴ることに飽きたのか、それとも満足したのかその人物が立ち去った時にはリオンは壁際の石畳に身を横たえてぼんやりと斜めに揺れる世界を見つめるだけだった。
口の中に広がる血の味もじわじわと芽生える痛覚も何処か懐かしく、いつもこうして怪我をして帰ったときにはゾフィーが怒りや呆れや様々な表情でありながらも、それでも優しく手当をしてくれていたことを思い出すと、自然と身体が丸まってしまう。
口うるさくて厳しいことばかりを言うがそれでも自分にとって優しい掛け替えのない姉はもう二度と傷の手当てをしてくれることもなければ、怪我をした自分たちを心配してくれることもないのだと改めて気付き、またそんな状況に追いやったのが信頼していた同僚だったことを思い出すと石畳に横たわったまま膝を抱えてしまう。
路傍の石のように身を丸めてじっとするリオンを通り過ぎる人達は奇異の目で見たり何も見なかったように素通りしたりしていくが、そのうちひと組の足音が傍までやってきたかと思うと、揺れて斜めになる世界を真っ直ぐに正し支えようとする穏やかさと強さを秘めた声が降ってくる。
「…………こんな所で寝ていると風邪を引くぞ、リーオ」
「――!!」
たとえ世界がどれ程歪んでいようが暗い靄に包まれていようがその声だけは聞き間違えることはなく、リオンが最大限に目を見開いた後起き上がろうとするものの、ここの所毎日飲み続けていたアルコールが脳味噌や全身から力を奪い取っていたため、動かせたのは指一本だけだった。
斜めに歪む世界の中で躊躇することなく石畳に膝をつき、一本だけ動く指先に指先を触れあわせた後、のろのろと動く青い眼球を見守っていたのは、顔に不安と安堵とを混ぜ合わせたウーヴェだった。
「……っ……!」
「随分とひどい顔になっているな」
殴られたのかと呟きつつ頬に手を宛がうウーヴェの手を咄嗟に掴んで顔に引き寄せたリオンだったが、ウーヴェの向こうに駆けてくる足を発見し、その足の持ち主の声が聞こえた瞬間、掴んでいた手を振り払って意地を見せるように起き上がる。
「ウーヴェ! 突然走り出してどう……!?」
一緒にいたはずなのに急に走り出してどうしたんだと肩で息をしつつ問いかけたのは、ウーヴェと一緒に飲んで午後の憂さ晴らしをしていたベルトランで、ウーヴェの前でリオンが片膝を立てて顔を伏せた姿で壁に凭れているのを発見すると無意識に拳を握ってしまう。
「……こんな所で何をしてんだ?」
「……あんたには関係ねぇ」
ベルトランの怒りを孕んだ声にリオンが冷たく返し壁に手を着いて何とか立ち上がろうとするが、当然ながら足に力が入るはずもなく、そのまま再度座り込んでしまうのをウーヴェが自然と差し出した手で受け止め肩でリオンの上体も支える。
「……離……せ……、よ……」
「お前が一人でも真っ直ぐに歩けると言うのなら離しても良い」
今のお前はどう見ても一人では歩けない程酔っている、このまま歩けば怪我が増えるから大人しくしてくれとウーヴェが心配そうに告げると、リオンの肩が笑い声に合わせて上下に揺れる。
「俺な……てどーなっても……」
良い、そう笑いに混ぜて呟くリオンの肩をぐいと掴んだのはベルトランで、午後に感じた怒りを再燃させているような顔でリオンを睨み付けると、こんなことを言うヤツなんて放っておけとウーヴェに言い放つとウーヴェが静かに首を左右に振る。
「……ベルトラン、手を離してやってくれ」
幼馴染みの激昂する顔は飲みに出掛けた店でずっと見つめていた為、ウーヴェがそっとベルトランの腕に手を重ねて頼むが、靄がかかったような青い瞳に見つめられて言葉を無くし、その腹癒せのように手を振り払った衝撃でリオンが再度その場に座り込んでしまう。
「リオン!」
「離せ……っ!」
座り込むリオンの肩に手を載せたウーヴェだがすぐさま振り払われて目を瞠っていると、聞きたくはない暗い声が笑い混じりにウーヴェを非難し始める。
「家族も……家も地位も金も……全部持ってるお前に……同情なんてされたくねぇ……!」
顔を見ることなく悲痛な声で叫んだリオンにウーヴェは目を細めるだけだったが、ベルトランが三度激昂してしまい、本当にもうこんな奴は放っておけと叫んで踵を返そうとする。
「……リオン、教えてくれないか」
「……」
「前にも言ったと思うが、それは本心なのか?」
それとも意地を張って思わず言ってしまったことなのかとウーヴェが穏やかな声で問いかけると、リオンがウーヴェの肩に両手をついて距離を取るがそれでも顔を上げることはなかった。
「なあ、教えてくれ、リーオ」
そんな悲しい言葉を聞く為に今まで一緒にいた訳じゃないとの呟きが二人の間に静かに落ちると、リオンの肩がびくんと揺れる。
それが心の揺れを表していることを察したウーヴェがリオンの頬を両手で挟んで視線を重ねアルコールに霞む青い瞳に目を細め、ベルトランが放っておけと掛ける声に背を向けたままかさかさに乾いている唇にそっとキスをする。
人前で手を繋ごうとするだけでも羞恥から半ば怒ったような顔をリオンに見せていたウーヴェのその行為にベルトランもだがキスを受けたリオンが最も驚いているようで、ただ青い瞳を瞠って至近に見える意志の強い光を湛えたターコイズの虹彩で埋め尽くしてしまう。
「ウーヴェ!」
「バート……持っていてくれないか?」
「?」
ウーヴェを思って声を掛けるベルトランに振り返って笑みを見せたウーヴェは、訝る幼馴染みに手を出させるとリオンの視線が自分に向けられているのを確かめつつゆっくりと腕時計を外していく。
「……オーヴェ……?」
「俺が今持っているのは、メガネに時計、着ているスーツだな」
「!?」
ウーヴェの咄嗟に理解出来ない言葉にベルトランとリオンが同じ表情で驚き、どういうことだと声を荒げる幼馴染みと無言で見つめてくる恋人のどちらにも見えるように笑みを見せる。
その二人が見守る前で眼鏡を外し、決して安くないジャケットを脱いで己の手に預ける様子にベルトランが青ざめて制止の声を掛けるが、シャツのボタンを一つずつ外していき、自宅で着替えるときと同じようにシャツを脱いでアンダーシャツ一枚になる頃には通りすがりの人たちの視線がウーヴェの細い背中に突き刺さるようになっていた。
「スラックスは今だけ認めて欲しいな」
いくら何でもパンツ一枚で歩いていればお前の仲間達に連行されかねないと苦笑し、見開かれている青い瞳に笑いかけたウーヴェは、靴についても許して欲しいと片目を閉じた後、一転して真剣な表情で胸元に掌を宛いながら伏し目がちに小さな、だが今のリオンが直視するには眩しすぎる笑みを浮かべて小さく呟く。
「……この鍵とリザードだけは許してくれないか、リーオ」
お前がまた以前のように刑事として精一杯働くためその翼を休めるために自分の傍に帰ってくるのならば、今己が所持している金や家や車などすべてを捨ててしまっても構わないが、心の平安を得るための鍵であるこの二つだけはどうしても手放せないんだと笑い、許してくれないかと上目遣いに見つめたウーヴェにリオンが震える手を伸ばしてアンダーシャツを両手で握りしめる。
「……っ……!!」
卑屈になって暴言を吐く己をここまで優しく受け入れてくれる理由が分からず、シャツを握りしめ両腕の間に頭を垂らしたリオンが胸に溢れる思いを告げるために口を開くが、出てくるものはただの呼気の固まりで、固形物が口から溢れ出す苦しさとそれを遙かに上回る苦痛に顔を歪めながら肩を震わせると、いつもどんな時でも変わらない優しく暖かな手が艶を失った髪を撫でて背中を支えてくれる。
その温もりに胸に引っ掛かって蓋のようになっていたものが解かされて言葉が喉からこぼれ落ちようとした時、アンダーシャツとスラックスという姿の幼馴染みを通行人の好奇の目から庇うように身を挺していたベルトランの名を呼ぶ声が聞こえて目を瞠る。
「ベルトラン?何をしている?」
こんな所で会うなんてと驚きを隠しきれない声で呼びかけつつゆったりとやってきた男に三者三様の顔を振り向けるが、共通しているのは何故今ここに現れたんだという疑問だった。
「――!」
「……と、う……さん……?」
リオンの様子が気になるが、幼馴染みの向こうに見える大きな身体と良く通る声にリオンの身体がびくりと揺れウーヴェの瞳も大きく揺れ動くと、呆然と立ち尽くすベルトランの肩越しに父、レオポルドと視線がぶつかり、似通った瞳を持つ父と子が互いの顔を見つめながら言葉を喪うのだった。