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しばらくの間、その美しい顔を見つめていると、やがて、行彦が口を開いた。
「伸くんは優しいね。そんなやつのことまで思いやるなんて」
「そういうわけでもないけど」
嫌がらせをされたり、殴られたりすることに納得しているわけではないが、松園には松園なりの苦悩があるらしいと思い至っただけだ。
「誰か、相談出来るような人はいないの?」
行彦の言葉に、伸は即答する。
「いないなぁ」
「あっ」
小さく声を上げて、行彦は頭を振る。
「馬鹿なことを言ってごめん。そんなこと、わかっているのに。僕だって、相談相手なんていなかった。だからこうして、部屋から出られなくなったのに……」
伸は微笑む。
「いいよ」
「僕も、誰にも言えなかった。お母さんにも。お母さんのことは大好きだったよ。だから、心配をかけたくなくて。
でも、結局たくさん心配をかけて、悲しい思いをさせることになってしまったけれど……」
うつむいた行彦が瞬きをした瞬間、その目から、ぽろりと涙がこぼれて、頬を伝い落ちるのが見えた。
「えぇと、あの……」
思わず伸ばしかけた手のやり場に困っていると、涙をぬぐった行彦が、その手を取った。
「僕のこと、行彦って呼んで」
「……行、彦」
言ったとたんに恥ずかしくなって、顔が、かっと熱くなる。そのとき、行彦の顔が素早く近づいて来て、赤い唇が、伸の唇を塞いだ。
驚きながらも、柔らかい感触と甘い香りに、再び気が遠くなる。行彦の唇は、まだ離れない。
いつの間にか、帰る時間になっていた。
「伸くん」
行彦が、不安げに伸の目を見つめる。
「僕のこと、嫌いになった?」
「どうして?」
行彦は、視線を外して言う。
「だって、あんなこと……」
キスしたことを言っているのか。
唇が重なった後、その隙間から、行彦の舌が入って来た。伸は戸惑いながらも、いつしか夢中になって、自らの舌をからめ、とろけるように柔らかいそれを味わった。
伸にとっては、あれが初めてのキスだったのだが。
「嫌いになんか、ならないよ」
ただ、とても不思議な気持ちだ。漠然と、初めてのキスは女の子とするものだとばかり思っていたし、キスがああいうものだとは知らなかったから。
「……よかった」
ほっとしたように微笑む行彦は、やはりきれいだ。自分たちは男同士だけれど、こういうのもありなのかもしれないと、今は素直に思う。
朝食のとき、母が、コーヒーの入ったマグカップを、伸の前に置きながら言った。
「昨夜、どこかに出かけた?」
内心の動揺を隠しながら、伸は聞き返す。
「なんで?」
「玄関を開け閉めするような音が聞こえた気がしたのよ」
気がしただけで、確証があるわけではないのか。伸は、トーストにバターを塗りながら言う。
「ふぅん。夢でも見たんじゃないの?」
何気ないふうを装いながら、朝食の間中、ずっと胸がドキドキしていた。
もちろん、これからも行彦に会いに行くつもりだが、そのことを母に知られたくはない。行彦のこともそうだが、余計な心配をかけたくないのだ。
たとえ理由がどうであれ、高校生の息子が、毎晩遅い時間に出かけることを容認する母親はいないだろう。今夜からは、もっと気をつけなくては。
毎晩、行彦の元を訪れているため、あまり寝ていないのだが、不思議なことに、昼間は眠気を感じることもない。学校では、やることもないので、ぼんやりしていることが多いが、決して眠いわけではなく、ずっと行彦のことを考えている。
美しい顔、甘い香り、赤く柔らかい唇と、その奥の……。彼との一連のやり取りを、何度でも頭の中で反芻しては、そのたび胸の奥が切なく疼き、早く会いたくてたまらなくなる。
いつしか伸は、夜の訪れだけを待ちながら、一日を過ごすようになっていた。
その話は、母が、カフェの客から聞いたものだった。今、町議会では、町の再開発についての話が進んでいるという。
この町を、一大観光地として世に打ち出すため、植物園がある辺り一帯に、テーマパークを造るというものだ。その話には、当然のごとく松園の父も関わっているらしい。
「あの洋館も、取り壊すことになるらしいわ」
「えっ?」
それまで適当に聞き流していた伸は、母の言葉に顔を上げた。母は、伸に背を向けて、シンクで食器を洗っている。
「あの洋館って、あの山道を行ったところの?」
母が、振り返って、ふふっと笑う。
「そうよ。ほかにないでしょう? 」
そして、再びこちらに背を向けて、食器を洗い始める。
「ずっと空き家のままにしておくのは物騒だものね。松園さんが女性と会っていたって、ずいぶん噂になっていたみたいだけど、どうやら、その人は洋館の持ち主らしいわ」
「だけど……」
伸のつぶやきは、母の耳には入らなかったようだ。
伸は、自分の部屋に戻りながら考える。
だけど、洋館には行彦が住んでいるではないか。それに、まだ会ったことはないが、行彦の母親も。
みんな、あの洋館は空き家だと思っているが、あまりにひっそりと暮らしているので、誰も、人が住んでいることを知らないのだ。行彦たちも、いじめのこともあって、多分、町の人と関わりたくないと思っているのだろう。
松園の父が会っていたというのは、行彦の母親なのだろうか。もしも洋館が取り壊された場合、行彦たちは、どうなるのだろう。
今夜、会いに行ったときに、行彦に聞いてみなくては。