テラーノベル
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昼前のやわらかな陽射しが、リビングを明るく照らしていた。
窓から差し込む光の中で、詩乃は朝からどこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
幸人の提案で、今日は三人で出かけることになっている。
たったそれだけのことなのに、胸の内側が妙にそわそわする。
幸人と二人で出かけるわけでも、特別な場所へ行くわけでもない。ただ近くの公園へ、乃亜を連れて三人で出かけるだけだ。
それなのに、詩乃にとっては初めてのことだった。
向かいでは、私服姿の幸人が静かに身支度を整えている。
いつもきっちりとスーツを着こなしている姿ばかり見ていたせいか、休日らしい服装をしているだけで、普段より少し近い存在に見えてしまう。
(本当に……三人で出かけるんだ)
そんなことを考えていると、不意に服の裾が引かれた。
視線を落とせば、すぐそばに乃亜がいる。
小さな手は、今ではすっかり当たり前のように詩乃の服を握っていた。
「乃亜?」
名前を呼ぶと、乃亜もこちらを見上げる。
まっすぐに向けられる黒い瞳を見ただけで、胸の内側にじんわりと温かなものが広がった。
「体調は大丈夫そうですか」
幸人の声に、詩乃は顔を上げる。
「はい。昨日よりずっと元気です。熱もありませんし」
そう答えながら、もう一度乃亜を見る。
まだ病み上がりの疲れは残っているのだろう。
いつも以上に詩乃のそばを離れようとはしないものの、顔色はずいぶんよくなっていた。
熱に苦しんでいた姿を思えば、こうして自分の足で立ち、外へ出られるまでになっただけで十分だった。
「そうですか」
幸人は短く頷く。
その横顔にも、わずかな安堵が滲んでいるように見えた。
***
家を出ると、初夏の風が頬を心地よく撫でていった。
乃亜は詩乃と手を繋いだまま、きょろきょろと周囲を見回している。
行き交う人々に、道路を走る車。風に揺れる街路樹や、どこかから聞こえてくる自転車のベル。
家の中とは違うものが次々と視界へ飛び込んでくるたび、乃亜の目が忙しなく動いていた。
興味はあるのだろう。
けれど同時に、不安でもあるらしい。
ときおき握る手に力が込められるたび、詩乃はその小さな手を優しく握り返した。
「大丈夫。怖くないよ」
乃亜は何も答えなかったが、確かめるように詩乃の手を握り返してくる。
少し後ろを歩く幸人は、その様子を静かに見ていた。
乃亜は本当に、詩乃から離れなくなった。
不安になればその手を求め、何か知らないものを見つければ、まず詩乃の顔を確認する。
それはもう、ここ数日の間に身につけた行動とは思えないほど自然だった。
しばらく歩くと、住宅街の先に大きな公園が見えてきた。
休日ということもあり、園内には多くの親子連れがいる。
滑り台を駆け上がる子どもたちの歓声に、ブランコの軋む音。芝生の上ではボールを追いかける子どもと、その後ろを笑いながら追う父親の姿もあった。
穏やかな休日の光景だった。
けれど、公園へ一歩足を踏み入れた途端、乃亜の足がぴたりと止まった。
「乃亜?」
繋いだ手を引くこともなく振り返ると、乃亜は詩乃の後ろへ隠れるようにして身体を寄せてきた。
これほど大勢の子どもたちが遊んでいる場所へ来たことがないのかもしれない。
詩乃はすぐにしゃがみ込み、乃亜と同じ高さまで目線を下げた。
「見てるだけでもいいよ」
無理に遊ばせようとはせず、穏やかな声で告げる。
「何かやってみたいものがあったら、その時は一緒にやろう?」
乃亜は少しだけ考えるように詩乃を見つめ、それから小さく頷いた。
詩乃も笑って立ち上がる。
その時、近くから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「もっとー!」
「高いねぇ。もう一回いくよ」
母親に背中を押してもらいながら、幼い子どもがブランコに揺られている。
太陽の下で弾けるように笑うその顔に、詩乃は思わず目を奪われた。
(……楽しそう)
誰の顔色も窺わず、怒られることを恐れる必要もなく、ただ楽しいから笑っている。
いつか乃亜も、あんなふうに笑えるようになるのだろうか。
そんな未来を思い描いた途端、胸の内側に小さな痛みが走った。
あの子には、本当の母親がいる。
当然のように隣にいて、笑いかけ、手を伸ばしてくれる人がいる。
(私は……違う)
昨日、乃亜から「まま」と呼ばれたことが嬉しくてたまらなかった。
けれど、その言葉を受け取っていい人間なのかと考えれば、今でも答えは出ない。
自分は乃亜を産んだ母親ではない。
それどころか、この顔も、この身体も――。
その時、服の裾がくいっと引かれた。
我に返って振り向く。
乃亜が、すぐそばから詩乃を見上げていた。
「……まま」
迷いのない声だった。
詩乃の呼吸が、一瞬止まる。
乃亜は何も知らない。
自分と果穂が入れ替わっていることも、目の前にいる人間が本当の母親ではないことも。
それでも、この子は今、自分を見ている。
自分のそばにいることを求めてくれている。
それなら今だけは、この言葉を受け取ってもいいのかもしれない。
「……うん」
詩乃は、ゆっくりと微笑んだ。
コメント
1件
いやもう……「まま」のところでやられたわ。 公園行くだけの話ってわかってて読んでたのに、詩乃の胸の奥にある「自分は母親じゃない」って想いと、それでも乃亜に呼ばれて微笑むラストのギャップに全部持っていかれた。 「今だけは受け取ってもいい」って決める強さ、すごく響いた。 しかも乃亜が迷いなく言ってるのがまた泣けるんだよな……。 この距離感、すごく好きだわ。続きが気になるけど、今日はこの余韻に浸らせてくれ。
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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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