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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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乃亜も安心したように表情を緩め、それからもう一度、公園へ視線を向けた。
まだ大勢の子どもたちの輪へ入っていくことはできない。
それでも、以前のように怖がって目を逸らすことはなくなっていた。
じっと遊具を眺めていた乃亜の視線が、やがて一つの場所で止まる。
空いているブランコだった。
誰も乗っていない座面が、風に押されてゆらゆらと揺れている。
「乗ってみる?」
詩乃が尋ねると、乃亜はすぐには答えなかった。
ブランコを見て、詩乃を見て、もう一度ブランコへ視線を戻す。
やがて、小さく頷いた。
「じゃあ、一緒に行こう」
差し出した手を、乃亜は迷わず握った。
ブランコの座面へ乃亜を座らせ、詩乃はその背中へそっと手を添えた。
「最初は少しだけね」
ゆっくりと背中を押す。
ブランコが前へ動き、また戻ってくる。
初めて味わう感覚に、乃亜の目が丸くなった。
「怖くない?」
尋ねると、乃亜は小さく首を横へ振る。
詩乃はほっとして、今度は先ほどよりほんの少しだけ強く押した。
ゆらり、ゆらりと揺れるたび、乃亜の前髪が風に持ち上がる。
やがて、その口元がふっと緩んだ。
「楽しい?」
乃亜は答えなかったものの、表情を見れば十分だった。
少し離れた場所から、幸人もその様子を見ていた。
乃亜が公園で遊ぶ姿を見るのは、これが初めてだった。
(……こんな顔をするのか)
知らなかった。
――いや。
知る機会がなかったのではなく、自分もまた知ろうとしてこなかったのかもしれない。
その事実に気づいた時、幸人の中に苦いものが滲んだ。
「乃亜」
気づけば、名前を呼んでいた。
乃亜が振り向く。
けれど次の瞬間には、どうすればいいのか確かめるように詩乃へ視線を向けた。
詩乃はその様子に少しだけ笑う。
「パパもやってくれるって」
その言葉に、乃亜は幸人を見た。
逃げない。
身体を強張らせることもなかった。
幸人はゆっくりとブランコの後ろへ回る。
詩乃がしていたように背中へ手を伸ばしたものの、どのくらいの力で押せばいいのか分からず、ひどく慎重な動きになった。
そっと押す。
ブランコが、わずかに揺れた。
あまりにもぎこちないその様子に、詩乃は思わず口元を緩める。
乃亜も不思議そうに振り返り、幸人を見上げた。
「……何ですか」
視線に気づいた幸人が困ったように言う。
「いえ。何でもありません」
そう答えながらも、詩乃は笑いを堪えきれなかった。
けれど幸人は、そんな詩乃よりも乃亜の反応を見ていた。
乃亜は泣いていない。
怖がってもいない。
自分が背中に触れても、逃げようとはしなかった。
そのことに気づくと、幸人は小さく息を吐いた。
そしてもう一度、今度は先ほどより少しだけ自然に、ブランコを押した。
しばらくして、詩乃が鞄から小さな容器を取り出した。
「乃亜、見てて」
蓋を開け、輪のついた棒を引き抜く。
ふうっと息を吹き込むと、透明なシャボン玉がいくつも空へ舞い上がった。
陽射しを受けた表面が、七色に揺らめく。
乃亜の目が、大きく見開かれた。
ふわり、ふわりと風に乗って流れていくシャボン玉へ、思わず小さな手が伸びる。
指先が触れた瞬間、ぱちんと弾けた。
「あ……」
乃亜の口から、小さな声が漏れる。
詩乃がもう一度吹く。
今度は先ほどよりたくさんのシャボン玉が、風に乗って一斉に舞い上がった。
乃亜はブランコから降りると、夢中になってそれを追いかけた。
一つに触れれば、ぱちん。
もう一つへ手を伸ばせば、またぱちん。
届きそうで届かないシャボン玉を懸命に追いかけるうち、乃亜の動きは次第に大きくなっていく。
そして――。
「ふふっ」
幼い笑い声が、風に乗った。
詩乃の手が止まる。
乃亜はそれにも気づかず、また一つシャボン玉を追いかける。
「あはっ……!」
今度は、はっきりとした笑い声だった。
これまでに見せた小さな微笑みとは違う。
楽しくて仕方がないというように頬を緩ませ、乃亜は声を上げて笑っている。
「……笑ってる」
思わず零れた詩乃の声は、わずかに震えていた。
何か特別なことが起きたわけではない。
ただ子どもが、公園でシャボン玉を追いかけて笑っているだけ。
けれど乃亜にとっては、それさえ当たり前ではなかった。
誰かの顔色を窺うことも、失敗して怒られることを恐れることもなく、ただ楽しいという気持ちのままに笑っている。
そんな乃亜の姿を見ていると、目の奥が熱くなった。
隣では、幸人も同じように動きを止めていた。
乃亜が笑っている。
たったそれだけのことなのに、胸の奥に言葉にできないものが込み上げてくる。
自分は、この笑い声を知らなかった。
それが嬉しいと同時に、どうしようもなく痛かった。
その後も、乃亜はしばらくシャボン玉を追いかけていた。
頬を赤くしながら、小さな足で懸命に走る。詩乃はその姿を目で追いながら、何度もシャボン玉を吹いてやった。
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その後も、乃亜はしばらくシャボン玉を追いかけていた。
頬を赤くしながら、小さな足で懸命に走る。詩乃はその姿を目で追いながら、何度もシャボン玉を吹いてやった。
その時だった。
足元にあった小さな段差に、乃亜のつま先が引っかかった。
「あっ――」
身体が前へ傾き、そのまま芝生の上へ転ぶ。
「乃亜!」
詩乃は考えるより先に駆け出していた。
すぐにしゃがみ込み、乃亜の身体を起こす。
「大丈夫? どこか痛くない?」
膝や手のひらを確かめ、怪我がないか慌てて確認する。
幸い芝生の上だったため、目立った傷はない。
乃亜は泣くこともなく、少し驚いたような顔で詩乃を見つめていた。
やがて、小さな手が伸びる。
ぎゅっと、詩乃の服を掴んだ。
「びっくりしたね」
詩乃はほっと息を吐き、その頭を優しく撫でた。
「痛くない?」
乃亜は少しだけ考えてから、こくりと頷く。
「そっか。よかった」
詩乃が笑うと、乃亜の身体からも少しずつ力が抜けていった。
少し離れたところから、その様子を幸人は黙って見ていた。
乃亜が転んだ瞬間、詩乃には一瞬の迷いもなかった。
誰よりも早く駆け寄り、怪我がないか確かめ、怯えさせないように優しく声をかける。
考えてそうしているのではない。
まるで息をすることと同じように、自然に身体が動いていた。
(……守っている)
乃亜を。
この子の身体だけではなく、その心まで。
少し前までなら、そんな姿を見ても「取り繕っているだけだ」と切り捨てていただろう。
けれど今は、同じようには思えなかった。
コメント
1件
詩乃が乃亜の背中を押すところから、シャボン玉で笑い声が弾ける流れまで、本当に優しい時間が流れていましたね。特に「笑ってる」と零した詩乃の声が震える場面は、胸にじんとくるものがありました。幸人が「こんな顔をするのか」と気づくシーンも、それまでの距離感を思うと重みがあって。公園の陽射しや風の感触まで伝わってくる、素敵な一章でした。