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【in sha Allah】『Andante』
イタリア語のandareに由来する音楽記号。歩くような速さで、という意味の速度記号である。
東の果ては、すぐそこに。
一歩ずつ歩けば、きっと辿り着く。
例えそこにあるのが、ユダだとしても。
真の太陽が、アナタを呼んでいる。
神の目覚めである。
音を、音楽を、その身尽き果てるまで奏で続けろ。
これは神からの命である。
◇◆◇
「緊張する……」
「あっはは大丈夫だって〜〜!」
「何も大丈夫じゃねぇんだよ……」
心臓がひっくりかえりそうなほどバクバクして、今にも倒れてしまいそうだった。そんな俺とは違って余裕に溢れているこいつに、ここまでくると心配になる。この状況でこんなにも元気に飛び跳ねていられるとは到底同じ人間とは思えない。
「あのなぁお前……もう少し大人しく……」
「え〜……あ、そーいやさぁ」
と、その時。
キィインと黒板に爪を立てるような、それよりも甲高い不快な音がスピーカーから響く。
「っ……なんだ、これ」
「不調なんかな〜?」
機材トラブルだろうか。そんな疑問はすぐに打ち消される。
客席後方から、フルートの音が聞こえ始める。それは鮮やかな透き通った高音ではなく、会場を地盤から揺さぶるような低音。人々の奥底からありもしない攻撃的な感情を引き出し、混沌を生み出す。比喩ではなく、そんな音だった。
あるところから女の悲鳴が、またあるところから男の咆哮が。音に、人々が操られ始める。
「やばっ……何が起こってっ……」
舞台袖だからか、被害は少ない。だが、頭が金槌で殴られるように痛い。人生最大の痛みと言っても過言ではないくらいには。
「歩大丈夫そ〜?」
「お前こそっ!」
「いーや、俺は全然なんとも」
「マジかよ……」
平然な顔をする音羽に怪しささえ感じてしまうが、よく周りを見ると体調が悪そうなのは俺だけで、スタッフは皆普通の顔をして開幕への最終準備に取り掛かっていた。
しかし、舞台袖とは相反して客席から聞こえる声、音はカオスに染まりきっている。これはもう音羽には申し訳ないが中止は免れないだろう。わざわざ用意したのに残念だ。……まぁ心労が減ったから本当に申し訳ないが俺にとってはハッピーエンド……
「ではもうすぐでブザーが鳴りますので、その後のアナウンスの後入場お願い致します」
「了解で〜す!」
「……え?」
「どうかされましたか?」
いやいやいや。そんな不思議そうな顔しなくてもこの状況を見れば……
「どしたん〜? あ、まだ体調悪い?」
なんでお前はそんなに呑気なんだ、客席を見れば分かるだろ。お前の客が……
音羽はポカンとしたままだった。何も起こっていないかのように忙しなく動く舞台袖に、違和感が強くなる。この状況をおかしいと主張をしているのは、紛れなく俺だけだった。
まるで俺だけが世界から取り残されているかのように、一気に世界から孤立する。スタッフの指示が飛び交う舞台袖に、遠くの方から聞こえてくる悲鳴。止まないフルート。目の前で起こっていることが別の世界の話のように思えてきて、自分の立ち位置が分からなくなる。
「……大丈夫、です」
忌々しいフルートの音はずっと頭の中でこだましている。ずっと、ずっと脳に響き続ける。グルグルと駆け巡り、やがて身体の一部と言わんばかりに主張を激しくする。
駆け巡る血液が止まる。どくどくと脈打っていた心臓から音がしなくなる。痛かったはずの頭から痛みが引く。動悸がする。地に足をつけている感覚がなくなる。風を感じなくなる。目の前が真っ白になる。周りの音が聞こえなくなる。
ヴァイオリンを持つ手が、震える。
「歩」
ふと、肩に手を乗せられ一気に現実に引き戻される。
「大丈夫かよ」
触れられた肩のあたりから、世界の歪みが少しずつ元に戻り始める。しかし、ヴァイオリンを持つ手は震えたままだった。
失敗の二文字が脳をよぎる。こんな状態で、まともに弾けるわけがない。
脳にずっと、あのフルートがこびりついている。脳の奥底から引き出されようとした怒りと混沌の炎は燃え尽き、今や感情のないゾンビの出来損ないになろうとしている。姿を変えた音の攻撃は、俺の中を行く場所なく彷徨うだけの放浪者に成り変わる。
肺が酸素を拒絶する。自分自身の存在意義とは。この場に立っている意味とは。失敗による最大の悲劇とは。ヴァイオリンを手放した時、その後の道はどこへ繋がるのか。
起こりうる最悪のケースが次々と流れてくる。呼吸するのが怖くなる。体から血の気が引いていく。
「……ごめん」
音羽の目は見れなかった。怖かった。
黙っていると、俺のヴァイオリンを持っていた手をそっと、大きな手が包む。
「歩」
「……なんだよ」
「確かにこの状況はヤバい」
「今更か?」
音羽は、自慢げに首を縦に振る。
「けど俺らならぜってー大丈夫! どんな音楽にも、俺らなら勝てる!」
骨ばった暖かい大きな手が、俺の冷たい手を押さえ込む。それは紛れなく、鍵盤で音を紡ぎ続けてきた手だった。
「大丈夫! あんな音楽よりも、もっともっとお客さん笑顔にさせちゃおうぜ!」
そう笑った音羽の背後からは、ずっと、客の悲鳴が聞こえ続けていた。
「……しょうがねぇな」
「やり〜〜!」
そう言って音羽が両手にピースを掲げジャケットを翻した時、開幕のブザーが流れ始めた。