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夢汰🌩️

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湊が眠ったあと。
僕は一人でキッチンに立っていた。
洗い終わった食器を拭く。
いつもの夜。
でも、少しだけ違う夜だった。
昨日、湊は初めて僕に聞いた。
「やめろって、言わないの」
たぶん、ずっと不思議だったんだと思う。
僕が何も言わないこと。
気づいているのに、責めないこと。
きっと湊は、僕が優しいからだと思っている。
でも違う。
僕は優しい人間なんかじゃない。
ただ、知っているだけだ。
自分の中で、どうにもならないものを抱えている時の苦しさを。
*
高校生の頃。
僕は食べることが苦手だった。
最初は、本当に小さなことだった。
少しだけ食べる量を減らした。
少しだけ我慢した。
それくらいだった。
でも、人間は不思議だ。
一度「これが正しい」と思い込むと、間違っていると分かっていても戻れなくなる。
食べた後に後悔する。
自分を責める。
そして、その気持ちから逃げるために、また同じことを繰り返す。
鏡を見るのが嫌だった。
食卓につくのが怖かった。
家族に「ちゃんと食べてる?」と聞かれることが怖かった。
心配されることすら、苦しかった。
自分でも分かっていた。
おかしくなっていること。
でも、止め方が分からなかった。
*
そんな僕を変えたのは、祖母だった。
ある冬の日。
学校から帰った僕は、何も言わずに部屋へ行こうとした。
その時。
「晴」
呼び止められた。
怒られると思った。
また食べてないことを言われると思った。
でも。
「味噌汁あるよ」
それだけだった。
湯気の立つ椀が、テーブルに置かれていた。
「いらない」
反射的に言った。
本当は怖かった。
食べたら何かが崩れる気がした。
でも祖母は、
「そっか」
と言っただけだった。
無理に勧めなかった。
ただ、そこに置いてくれた。
「冷める前に飲めたら飲みな」
その言葉が、なぜかずっと残った。
食べなさいじゃなかった。
頑張りなさいでもなかった。
ただ。
飲めたらでいい。
そこにいていい。
そう言われた気がした。
*
少しずつだった。
本当に少しずつ。
味噌汁なら飲める日が増えた。
温かいものが、少しずつ身体に戻ってきた。
でも、完全にすぐ元通りになったわけじゃない。
苦しい日はあった。
吐きたい衝動にかられる日もあった。
昔に戻りそうになる日もあった。
それでも。
あの時の味噌汁の味だけは、忘れられなかった。
*
「晴」
振りかえると、湊が立っていた。
「起きてたの?」
「水飲みに来た」
そう言って、少し疲れたように笑う。
昔の僕なら。
きっとこの姿を見ても、自分のことで精一杯だったと思う。
でも今は違う。
目の前にいる人が、昔の自分と重なる。
頑張りすぎて。
笑いすぎて。
自分のことを後回しにしている。
「湊」
「ん?」
「僕ね」
少し迷った。
話すのは怖かった。
過去を見せることは、自分の弱い部分を渡すことだから。
でも。
湊だけに我慢させたくなかった。
「昔、自分のことを大事にできなかった」
湊は黙って聞いている。
「食べることも、普通に生活することも、分からなくなった」
言葉にすると、昔の痛みが少し戻ってくる。
でも、今は一人じゃない。
「味覚が馬鹿になって、胃酸で声が変わって、やっと気づいた」
湊の表情が変わる。
「どれだけ自分を壊してたのか」
僕は静かに続ける。
「だから湊は、自分の体、大事にしてあげて」
部屋は静かだった。
でも、嫌な沈黙じゃなかった。
湊はしばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「……晴も?」
「え?」
「晴も、自分のこと大事にしてる?」
その言葉に、少し驚いた。
心配されるなんて思っていなかった。
僕はいつも、心配する側だったから。
でも。
そうだった。
僕だって、昔の自分を置いてきたつもりでいた。
湊は優しく笑う。
「俺だけじゃなくてさ」
「……うん」
「晴も大事にして」
胸の奥が温かくなる。
何も責めなくて。
ただ、ここにいていいと言ってくれるような。
キッチンには、まだ少しだけ湯気が残っていた。
コメント
1件
うわあ、この回……すごく静かで、でも胸にじんわり来ましたね。 晴の過去が明かされる構成、巧いなと思いました。高校時代の摂食障害のエピソードが、祖母の「飲めたらでいい」という何気ない言葉で少しずつほぐれていく。その "優しさの形" が、今の湊への接し方にそのまま繋がっているのが分かって、グッときました。 そして何より、湊が「晴も大事にして」と返すシーン。心配する側だった晴が、まさか自分が心配されるとは思っていなかったんだろうな……。そのギャップが、二人の距離が縮まった証拠みたいで、とても温かい気持ちになりました。 藤森さんの描く「沈黙」や「間」の取り方が、本当に好きです。