テラーノベル
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リビングに、詩乃の柔らかな声が流れていた。
「……そのあと、くまさんはひとりぼっちのうさぎさんを見つけました」
ソファに腰を下ろした詩乃は、膝の上に小さな絵本を広げていた。
隣には乃亜がちょこんと座り、絵本をじっと見つめている。
相変わらず言葉は出ない。
それでも、詩乃が登場人物によって声色を変えるたびに乃亜の視線は動き、描かれた絵を一生懸命に追っていた。
「ここ、くまさん。かわいいね」
詩乃が指を差すと、乃亜は一瞬だけその顔を見上げ、また絵本へ視線を戻す。
たったそれだけの反応でも、初めて会った時の乃亜を思えば大きな変化だった。
――ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴り、詩乃が顔を上げる。
「一恵さんだ」
立ち上がろうとした瞬間、服の裾に小さな重みを感じた。
見ると、乃亜が詩乃の服をきゅっと掴んでいる。
「大丈夫。すぐ戻るからね」
安心させるように声をかけると、乃亜はしばらく迷った末、名残惜しそうに指を離した。
玄関のドアを開ければ、そこにはいつものように背筋を伸ばした年配の女性が立っている。
「おはようございます、奥様」
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
一恵は靴を揃えて上がると、自然な動きでリビングへ目を向けた。
ソファのそばに立った乃亜が、詩乃の帰りを待つようにこちらを見つめている。
一恵は何も言わなかった。
けれど、数日前まで母親の姿を見るだけで身体を強張らせていた乃亜との間に、確実な変化が生まれていることを見逃してはいなかった。
***
一恵がこの家へ通うようになって、数日が過ぎていた。
その間、詩乃は乃亜との時間をできる限り多く取るようにしていた。
午前中はテレビをつけず、床に座って一緒に遊ぶ。
乃亜は積み木を両手に持ち、どう扱えばいいのか分からない様子でじっと眺めていた。
やがて指の力が緩み、積み木がぽとりと床へ落ちる。
すると乃亜は、それを拾うこともなく身体を止めた。
失敗した時、次に何が起きるのか。
まるで大人の反応を待っているようだった。
「あ、落ちちゃったね」
詩乃はそれ以上何も言わず、床の積み木を拾って乃亜の手へ戻した。
「ぎゅってしなくても大丈夫だよ。これくらい」
自分の指を添えて力を抜かせてやると、乃亜もぎこちなくそれを真似する。
今度は、積み木が落ちなかった。
「できたね」
穏やかに声をかけると、乃亜は手の中の積み木ではなく、詩乃の顔を見上げた。
叱られない。
失敗しても、怒鳴られない。
そのことを一つずつ確かめているのかもしれない。
詩乃は急かすことなく、ただ同じ目線の高さで乃亜を見守った。
昼食の時間になると、また小さな変化があった。
乃亜は子ども用のスプーンを握り、一人でスープを口へ運ぼうとしている。
数日前までは持ち方すら分からなかったのに、今では多少こぼしながらも、自分ですくおうとするようになっていた。
スープが一滴、テーブルへ落ちる。
乃亜は一瞬だけ手を止め、詩乃を窺った。
「こぼれちゃったね」
詩乃はそれだけ言って、ティッシュでさっと拭き取る。
怒られないと分かると、乃亜は再びスプーンを動かした。
今度は先ほどより少し多くすくうことができ、そのまま慎重に口へ運ぶ。
「うん、上手になったね」
褒められた乃亜は何も言わなかったものの、もう一度スプーンをスープへ入れた。
ところが、そこに白い角切りの大根が入ると、ぴたりと手が止まった。
乃亜は口をきゅっと閉じ、スプーンを遠ざける。
「大根、嫌なの?」
詩乃が尋ねた瞬間、小さな肩がびくりと揺れた。
嫌いなものを残すことさえ、怒られると思っているのだろう。
「そっか。苦手なんだね」
詩乃は責めることなく、大根をスプーンから取ると、小さく割った。
「じゃあ、ちょっとだけにしてみよっか。これね、人参さんのお友だちなんだよ」
スープの中にあるオレンジ色の人参と並べて見せる。
「ほら、一緒に入ってるでしょ?」
小さくした大根をスプーンへ乗せ、乃亜の前へ差し出した。
「ひと口だけ食べてみる? 嫌だったら、無理しなくていいよ」
詩乃はそれ以上勧めず、乃亜が決めるのを待った。
乃亜はスプーンと詩乃の顔を交互に見つめていたが、やがて恐る恐る口を開く。
ぱくりと大根を含み、ゆっくり噛んで飲み込んだ。
「食べられたね。えらい」
詩乃が微笑む。
乃亜は意味までは理解していないのかもしれない。
それでも、その声が自分を責めるものではないことは分かるのだろう。
次にスプーンを差し出しても、もう顔を背けることはなかった。
そんな小さな変化が、毎日の中で少しずつ増えていった。
#恋愛
坂颯(さか はやて)
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コメント
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詩乃さんが乃亜くんの「叱られない」を一つずつ本人に教えている工程が、すごく丁寧に描かれていて胸に残りました。特に大根を恐る恐る口に入れるシーン、読んでいて思わず息を止めてしまいました。無理強いはしないけど選択肢は残す、その距離感がすごくいい。一恵さんが見つけた「変化」も温かい視点で、また次が楽しみです。