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俺は、久瀬湊が嫌いだ。
あいつの顔を見ると、昔のことを思い出す。思い出したくもないことばかり、都合よく覚えている。俺が困っていたときに助けなかったこと。俺が本気で怒っているのに、面倒くさそうに笑ったこと。俺の人生をめちゃくちゃにしたくせに、自分だけは何も失っていないみたいな顔をしていたこと。
それでも、金曜日の夜になると、俺はあいつの部屋に行く。
インターホンを押す前から、帰りたいと思っている。ドアが開いた瞬間には、来なければよかったと思う。なのに、玄関に立っている湊の顔を見てしまうと、今度は帰りたくなくなる。
「遅かったね」
「帰っていい?」
「まだ何も言ってないけど」
「顔がむかつく」
「それは知ってる」
こいつは、いつもそうだ。
俺が何を言っても、本気で傷ついた顔をしない。謝るときも、怒るときも、どこか一歩引いている。俺に嫌われることに慣れきっていて、もう何を言われても平気なのだと思う。
そのくせ、俺が本当に帰ろうとすると、引き止める。
「待って」
たった二文字だ。
それだけで、俺の足は止まる。
自分でも笑えるくらい単純だった。
「何」
「ご飯、食べた?」
「関係ないだろ」
「ないね」
「じゃあ聞くなよ」
「食べてないなら、作ろうと思っただけ」
「いらない」
「そっか」
湊はそれ以上何も言わず、俺のために用意していたらしい皿をキッチンに戻した。
そういうところが嫌いだった。
もっと強引に引き止めればいい。帰るなと言えばいい。俺がどれだけひどいことを言っても、どうせまた来ると分かっているのなら、たまにはその余裕をなくしてほしかった。
俺ばかりが必死みたいで、腹が立つ。
「……食う」
キッチンに向かいかけた湊が振り返った。
「え?」
「飯。食うって言ってんの」
「うん」
「何、その顔」
「嬉しいだけ」
「気持ち悪い」
「ごめん」
湊は笑った。
俺はその笑顔を見るたび、こいつを一生許せないと思う。
同時に、その笑顔を俺以外の誰かに向けているところを想像すると、息が詰まる。
最悪だった。
俺たちがこうなったのは、もう五年も前のことだ。
当時、俺は二十四歳で、湊は二十六歳だった。
同じ会社の別部署にいた俺たちは、仕事の関係で顔を合わせることが多かった。湊は社内でも評判がよく、仕事ができて、人当たりもよかった。誰に対しても適度に優しく、必要以上に踏み込まない。上司からも後輩からも好かれていた。
俺は、そういう人間が嫌いだった。
本音を隠して、誰にでもいい顔をする。誰かに嫌われないために、誰にでも同じ態度を取る。そういう器用さが、俺にはなかった。
だから最初は、ただ気に入らなかった。
「相沢くんって、久瀬さんと仲いいよね」
会社の後輩にそう言われたとき、俺は思わず笑ってしまった。
「どこが?」
「よく一緒にいるじゃないですか」
「仕事だよ」
「でも、久瀬さんって相沢くんにはちょっと違う感じがします」
「どう違うんだよ」
「なんか、遠慮がないっていうか」
俺は返事をしなかった。
遠慮がない。
たしかに、湊は俺にだけ妙に遠慮がなかった。俺が機嫌を悪くしていても平気で話しかけてくるし、俺が何かに失敗しても、必要以上に慰めたりしない。
俺が残業していれば、何も言わずにコーヒーを置いていく。
俺が昼食を抜いていれば、余ったからと言ってパンを渡してくる。
俺が体調を崩したときは、仕事を代わってくれた。
そのくせ、俺が礼を言うと、決まってこう言った。
「別にいいよ」
まるで、俺に何かをしてやったという意識すらないみたいに。
俺はそれが、どうしようもなく嬉しかった。
だから余計に、腹が立ったのだと思う。
湊が誰にでも優しい人間だと知っていたから。
俺が特別ではないと、分かっていたから。
それでも、ある日、湊に告白された。
会社帰りの居酒屋だった。
二人で飲むこと自体は珍しくなかった。仕事の愚痴を言い合い、適当に食べて、終電が近づいたら帰る。いつもと同じ夜だった。
湊は酒に強いくせに、その日は妙に酔っていた。
「相沢」
「何だよ」
「俺、きみのこと好きなんだよね」
俺は箸を止めた。
「……は?」
「恋愛的な意味で」
「分かってるよ」
「そっか」
「何で今言うんだよ」
「今なら言える気がしたから」
「酔ってるだろ」
「少しね」
「じゃあ明日忘れろ」
そう言うと、湊は困ったように笑った。
「それは無理かも」
俺は、その顔を見てしまった。
いつもの、誰にでも向ける余裕のある笑顔ではなかった。少しだけ不安そうで、断られることを覚悟している顔だった。
その顔を見た瞬間、俺は自分が何を望んでいたのか分からなくなった。
俺はずっと、こいつに特別扱いされたかったのだ。
俺だけを見てほしかった。
誰にでも優しい人間が、俺にだけはどうしようもなく執着してくれたらいいと思っていた。
だから、告白されたことが嬉しかった。
嬉しかったのに、俺は最低なことを言った。
「お前、誰にでもそういうこと言ってそう」
湊の表情が変わった。
「……言わないよ」
「どうだか」
「そっか」
湊はそれ以上、何も言わなかった。
その夜、俺たちは別々に帰った。
翌日、湊はいつも通りだった。
会社で会えば普通に挨拶をして、仕事の話をして、俺が困っていれば助けてくれた。
まるで、あの夜のことなんてなかったみたいに。
俺は、それが許せなかった。
告白を断ったのは俺だ。
それなのに、湊が何事もなかったように振る舞うことが許せなかった。
俺のことなんて、その程度だったのかと思った。
自分で拒絶しておいて、相手には傷ついてほしかった。
今思えば、俺はその頃からおかしかったのだと思う。
ただ、当時の俺には、それを認めるだけの余裕がなかった。
俺は仕事に打ち込み、湊とは必要最低限の会話しかしなくなった。
湊は追いかけてこなかった。
それが、俺をさらに苛立たせた。
そして一年後、俺たちは同じ部署に異動になった。
それをきっかけに、また少しずつ話すようになった。
俺のほうから話しかけることはなかったが、湊は以前と同じように接してきた。
告白のことには一度も触れなかった。
俺も触れなかった。
何もなかったことにするのが、一番楽だったからだ。
それでも、俺たちの関係は少しずつ変わっていった。
仕事の帰りに飲みに行くようになり、休日にも会うようになった。湊の部屋に呼ばれることも増えた。
最初は本当に、ただ一緒に過ごしていただけだった。
ソファに座って映画を見たり、適当な料理を食べたり、どうでもいい話をしたり。
湊の部屋は、いつも片づいていた。
物が少なく、必要なものだけが置かれている。冷蔵庫には飲み物と簡単な食材が入っていて、洗面所には予備の歯ブラシがあった。
ある日、それが目に入ってしまった。
「何で歯ブラシ二本あるの」
「来客用」
「誰が来るんだよ」
「きみとか」
俺は、何も言えなかった。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が変に熱くなった。
俺が来ることを想定している。
俺がまた来ると、当たり前のように思っている。
それが嬉しくて、怖かった。
俺はいつだって、誰かに必要とされたいくせに、必要とされることを信じられなかった。
信じてしまえば、失ったときに立ち直れなくなる。
だから、先に相手を傷つける。
相手が俺を嫌いになるように仕向ける。
そうすれば、いなくなったときに、仕方なかったと思えるから。
湊に対しても、ずっとそうだった。
「お前、俺のこと好きなの?」
ある夜、俺は唐突に聞いた。
湊はテレビを見ていた。
「前に言ったよ」
「今も?」
「うん」
「何で」
「好きだから」
「理由になってねえよ」
「じゃあ、理由が必要?」
俺は黙った。
湊はテレビを消し、俺のほうを向いた。
「きみは?」
「何が」
「俺のこと、どう思ってる?」
俺は答えられなかった。
好きだと言えば、何かが変わってしまう気がした。
嫌いだと言えば、湊が離れていくかもしれない。
どちらも怖かった。
だから、俺は一番卑怯な答えを選んだ。
「別に」
湊は少しだけ目を伏せた。
「そっか」
その声があまりにも静かだったので、俺は慌てて付け足した。
「……嫌いじゃない」
湊は顔を上げた。
「うん」
「何だよ」
「嬉しい」
「意味分かんねえ」
「そうだね」
湊はまた笑った。
俺は、その笑顔に耐えられなくなった。
気づいたときには、湊の服をつかんでいた。
「……俺のこと、何だと思ってんの」
湊は驚いたように目を見開いた。
「大事な人」
「嘘つけ」
「嘘じゃないよ」
「だったら、何でそんな平気な顔してんだよ」
「平気じゃない」
その返事は、予想していなかった。
湊は俺の手に触れた。
「平気なふりをしてるだけ」
その瞬間、俺はもう何も考えられなくなった。
自分から顔を近づけた。
湊は避けなかった。
唇が触れたのは、一瞬だった。
離れたあと、俺はすぐに後悔した。
こんなことをしたら、もう今まで通りではいられない。
なのに、湊は何も言わなかった。
「……何か言えよ」
俺がそう言うと、湊は小さく息を吐いた。
「もう一回、してもいい?」
俺は返事をしなかった。
ただ、服をつかむ手に力を入れた。
それが答えになった。
その夜、俺たちは初めて身体を重ねた。
愛しているとも、付き合ってほしいとも言わなかった。
俺はただ、湊が俺を抱きしめる腕の強さを覚えていた。
湊の指が髪に触れるたび、俺はここにいてもいいのだと思った。
身体が離れたあとも、湊は俺を抱きしめていた。
俺はその胸に顔を埋めたまま、眠ってしまいそうになった。
こんな時間がずっと続けばいいと思った。
けれど、朝になれば、また何もなかったような顔をしなければならない。
俺たちは恋人ではなかった。
好きだと認めたわけでもなかった。
ただ、互いの身体を知ってしまった。
それだけだった。
翌朝、湊はいつも通りコーヒーを淹れていた。
俺はソファに座り、何を言えばいいのか分からずにいた。
「飲む?」
「……飲む」
カップを受け取るとき、指が触れた。
俺は反射的に手を引っ込めた。
湊は何も言わなかった。
その沈黙が嫌だった。
「昨日のことだけど」
湊が顔を上げる。
「うん」
「別に、深い意味はないから」
言ってしまった。
湊の表情は変わらなかった。
「分かった」
「……それだけ?」
「うん」
「何か言えよ」
「何を?」
「だから……」
俺は言葉に詰まった。
本当は、引き止めてほしかった。
深い意味がないなんて嘘だと、分かってほしかった。
俺だって好きなのだと、見抜いてほしかった。
でも、そんなことを言えるわけがなかった。
湊は、しばらく俺を見ていた。
「相沢」
「何だよ」
「俺は、昨日のことをなかったことにはしたくない」
心臓が跳ねた。
「でも、きみがそうしたいなら、そうするよ」
「……何で」
「きみが嫌な思いをするのは、嫌だから」
その優しさが、苦しかった。
俺は、湊に何を求めているのだろう。
俺の望む通りにしてほしい。
でも、俺の望みなんて知られたくない。
好きだと言ってほしい。
でも、俺から好きだと言うのは嫌だ。
俺だけを見てほしい。
でも、俺が誰かを必要としていることは知られたくない。
そんなことを繰り返していれば、いつか湊が疲れてしまうことくらい、分かっていた。
それでも俺は、何も言わなかった。
それから、俺たちは毎週のように身体を重ねるようになった。
金曜日の夜、湊の部屋に行く。
一緒に食事をする。
テレビを見ながら、適当な話をする。
そして、どちらからともなく触れ合う。
朝になれば、俺は帰る。
湊は引き止めない。
俺も、また来るとは言わない。
それでも次の金曜日になると、俺は湊の部屋にいた。
最初は、それでよかった。
好きだと言わなくても、恋人にならなくても、湊が俺を抱きしめてくれるなら、それで十分だと思っていた。
身体を重ねている間だけは、余計なことを考えずに済んだ。
俺が何を言っても、湊はそばにいた。
俺が嫌な人間でも、みっともなくても、誰にも見せたくない部分をさらけ出しても、湊は俺を拒絶しなかった。
だから、俺は少しずつ欲張りになった。
湊の部屋に自分のものを置くようになった。
最初は充電器だった。
次に、着替えを一組。
その次は、読みかけの本。
湊は何も言わず、それらを置いておいてくれた。
俺が帰ったあとも、勝手に片づけたりしなかった。
ある日、洗面所に俺用の歯ブラシが置かれていることに気づいた。
前からあった来客用のものとは違う。
俺がいつも使っている歯磨き粉の隣に、同じ色の歯ブラシが置かれていた。
「これ、何」
湊は冷蔵庫を開けながら答えた。
「きみの」
「見れば分かる」
「じゃあ、何で聞いたの」
「……別に」
俺は歯ブラシを手に取った。
安いものだった。
特別な意味を持たせるようなものでもない。
なのに、捨てることができなかった。
俺は、その歯ブラシを見ながら、こいつと暮らしたいと思った。
毎日、帰る場所が同じだったらいい。
朝起きたら、湊がいてほしい。
仕事から帰ったとき、何も言わずに隣に座っていてほしい。
そんなことを考えている自分が気持ち悪かった。
湊の人生に、俺の居場所がほしかった。
ただの来客ではなく、ただ身体を重ねる相手でもなく、湊が明日も会いたいと思う人間になりたかった。
でも、それを言えば、すべてが終わる気がした。
俺はずっと、欲しいものを欲しいと言えなかった。
手に入らなかったときの自分が、惨めになるからだ。
だから、最初から大切ではなかったことにする。
失ったものを、必要なかったものに変える。
そうすれば、自分が傷ついたことを認めなくて済む。
湊に対しても、同じことをしていた。
「お前って、俺がいなくても平気そうだよな」
ある夜、俺は言った。
湊は食器を洗っていた。
「どうして?」
「別に。そう思っただけ」
「平気じゃないよ」
あまりにもあっさり言うので、俺は戸惑った。
「……嘘つけ」
「本当」
「じゃあ、何で俺が帰るときに引き止めないんだよ」
湊は手を止めた。
「帰りたいんだと思ってたから」
「俺が帰りたいって言ったら、帰らせるのかよ」
「うん」
「何でだよ」
「帰りたい人を、無理に引き止めたくないから」
俺は笑った。
笑うしかなかった。
「優しいね、お前」
「そうかな」
「そうだよ。誰にでも優しいもんな」
湊は何も言わなかった。
俺は、さらに続けた。
「俺じゃなくてもいいんだろ」
その瞬間、湊の表情が変わった。
初めて見る顔だった。
怒っているようにも、傷ついているようにも見えた。
「……それ、本気で言ってる?」
「何が」
「俺が、誰でもいいと思ってるって」
「違うの?」
湊は、しばらく黙っていた。
やがて、濡れた手を拭き、俺の前に立った。
「俺は、きみだから一緒にいるんだよ」
「だったら、もっと分かるようにしろよ」
言った瞬間、後悔した。
湊の目が、わずかに揺れたからだ。
「分かった」
その返事は、ひどく静かだった。
俺は何も言えなくなった。
湊はそれ以上、何も言わなかった。
その夜、俺たちは身体を重ねなかった。
俺が帰ろうとすると、湊は玄関まで送ってくれた。
「気をつけて」
「……ああ」
ドアが閉まる。
その音を聞いた瞬間、俺は自分が何をしたのか理解した。
俺は、湊に分かるように愛してほしいと言った。
でも、自分からは何ひとつ差し出さなかった。
湊がどれだけ俺を好きだと言っても、俺は信じなかった。
信じないことで、湊が何度でも証明してくれることを期待していた。
俺は、あいつの優しさに甘えていた。
次の金曜日、俺は湊の部屋に行かなかった。
仕事が終わっても、駅に向かった。
いつもなら途中でコンビニに寄り、湊の好きな飲み物を買う。
その日は何も買わなかった。
自分から連絡することもしなかった。
湊からも、連絡は来なかった。
一週間が過ぎた。
俺は毎日、スマートフォンを確認していた。
通知が来るたびに、湊かもしれないと思った。
違う相手だと分かると、どうしようもなく落ち込んだ。
自分から連絡すればいい。
そんなことは分かっていた。
でも、俺から連絡して、湊に迷惑そうな返事をされたらどうする。
もう来ないでほしいと言われたらどうする。
今までの関係すら、なくなってしまったらどうする。
考えるほど、何もできなくなった。
二週間目の金曜日、俺はとうとう湊にメッセージを送った。
『今日、いる?』
送信してから、すぐに後悔した。
何を聞いているんだ。
俺は、何のために連絡したんだ。
返事が来るまでの数分が、ひどく長く感じられた。
『いるよ』
それだけだった。
俺は、スマートフォンを握りしめた。
『行っていい?』
返事はすぐに来た。
『もちろん』
その二文字を見た瞬間、泣きそうになった。
俺は、慌てて顔を洗った。
泣く理由なんてなかった。
ただ、湊が俺を拒絶しなかった。
それだけで、どうしようもなく安心してしまったのだ。
部屋に着くと、湊はいつも通りドアを開けた。
「おかえり」
俺は、その言葉に足を止めた。
「……ただいま」
口にしてから、自分でも驚いた。
湊も少し驚いたようだった。
でも、何も言わずに笑った。
「ご飯、できてるよ」
俺は頷いた。
その夜、俺たちは久しぶりに身体を重ねた。
湊はいつもより慎重だった。
俺が少しでも嫌がる素振りを見せれば、すぐに手を止めた。
そのたびに、俺は苛立った。
「……何でそんなに気を遣うんだよ」
「嫌だった?」
「そうじゃない」
「じゃあ、どうしたの?」
俺は答えられなかった。
もっと乱暴に求めてほしかった。
俺がいなくなったことを、怒ってほしかった。
寂しかったと言ってほしかった。
俺だけが、こんなに苦しんでいるわけではないと知りたかった。
「……何でもない」
そう言うと、湊は俺を抱きしめた。
「そっか」
その腕の中で、俺はまた何も言えなくなった。
身体を重ねたあと、俺は湊の胸に頬を寄せた。
湊の手が、ゆっくりと俺の髪を撫でる。
俺はその手をつかんだ。
「……やめんなよ」
湊は動きを止めた。
「うん」
「ずっと、こうしてろ」
「うん」
「……俺が寝ても」
「分かった」
湊は約束した。
俺は、その声を聞きながら眠った。
翌朝、目が覚めると、湊はいなかった。
隣のシーツは少し冷たくなっていた。
俺は飛び起きた。
部屋の中を見回す。
キッチンから音がした。
湊が朝食を作っていた。
「……何してんの」
「朝ご飯」
「見れば分かる」
「じゃあ、何で聞いたの?」
俺は何も言わず、湊の背中を見ていた。
あいつは、ここにいた。
いなくなっていなかった。
そんな当たり前のことに、俺は安堵していた。
俺は、自分がどれだけ湊に依存しているのか、少しずつ理解し始めていた。
湊がいなければ、眠れない。
湊がいなければ、食事が味気ない。
湊が誰かと楽しそうに話しているだけで、胸の奥がざわつく。
それなのに、湊のことを好きだと認めるのは怖かった。
好きだと認めたら、失う可能性が生まれる。
今までだって、誰かを失うことはあった。
友人も、恋人も、仕事も。
でも、湊だけは違った。
あいつを失ったら、俺は自分が何を頼りに生きていけばいいのか分からなくなる気がした。
だから、俺は湊にしがみついた。
恋人にならないまま。
愛していると言わないまま。
自分だけを見てほしいと願いながら、湊が俺をどう思っているのか確かめようとしなかった。
それでも、俺たちの関係は続いていた。
続いていること自体が、俺にとっては救いだった。
そして同時に、少しずつ俺たちを壊していった。
ある日、会社で湊が女性社員と話しているのを見た。
相手は別部署の人間で、仕事の相談をしているらしかった。
湊はいつものように笑っていた。
俺は、その笑顔を見た瞬間、何も考えられなくなった。
仕事の話だと分かっていた。
相手が湊に好意を持っているかどうかも、分からなかった。
それでも、嫌だった。
湊が俺以外の人間と親しげに話していることが、許せなかった。
俺は、湊を呼び出した。
「何?」
「さっき、何話してたの」
「仕事のこと」
「ふうん」
「どうしたの?」
「別に」
湊は俺を見た。
「……もしかして、嫉妬してる?」
俺は、思わず笑った。
「何で俺が」
「違うならいいんだけど」
「お前、馬鹿じゃねえの」
そう言って、俺はその場を離れた。
その夜、俺は湊の部屋に行った。
いつもより早い時間だった。
湊は驚いたものの、何も聞かなかった。
俺は食事をする気にもなれず、ソファに座っていた。
湊が隣に座る。
「何かあった?」
「何もない」
「そっか」
沈黙が続いた。
俺は、湊の手を見ていた。
その手が、さっき誰かのために動いていたことを思い出す。
仕事の相談に乗って、笑って、相手を安心させていた。
俺に対しても、同じことをしてきた手だった。
それが嫌だった。
俺だけのものではないことが、どうしようもなく嫌だった。
「……俺以外にも、そういうことするんだな」
湊は、少しだけ眉を寄せた。
「そういうこと?」
「優しくすること」
「するよ」
その返事に、胸が痛んだ。
分かっていたことなのに。
「俺にも、他の人にも、同じなんだな」
「同じではないよ」
「どう違うんだよ」
湊は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、俺には耐えられなかった。
「ほら。答えられないんじゃん」
「相沢」
「もういい」
俺は立ち上がった。
湊が俺の腕をつかんだ。
「待って」
その手に、俺は反射的に振り払うような動きをした。
湊はすぐに手を離した。
俺は、息を止めた。
「……ごめん」
湊はそう言った。
俺が謝るべきなのに。
「違う、俺が……」
言葉が続かなかった。
湊は俺を見つめていた。
「俺は、きみが好きだよ」
その言葉が、ひどく苦しかった。
「でも、きみが俺のことを好きじゃないなら、俺はそれを受け入れなきゃいけないと思ってる」
「……何だよ、それ」
「きみが苦しいのを、俺のせいにしたくないんだ」
「俺のせいだって言いたいのかよ」
「そうじゃない」
「じゃあ何なんだよ!」
俺は声を荒らげた。
「俺がどれだけお前のこと考えてるか、分かってんのかよ! お前が誰と話してるとか、誰に笑ってるとか、そんなことばっかり気にして、馬鹿みたいだろ! お前が連絡してこないだけで、一日中スマホ見てんだよ! お前がいないと、何しててもつまんねえんだよ!」
言ってしまった。
全部、言ってしまった。
湊は、何も言わなかった。
俺は、笑うしかなかった。
「……気持ち悪いだろ」
湊は首を横に振った。
「気持ち悪くないよ」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
「じゃあ、何で何も言わないんだよ」
湊は唇を噛んだ。
それから、ようやく口を開いた。
「嬉しいから」
俺は、何も言えなかった。
「嬉しいよ。きみが俺のことをそんなふうに考えてくれてたなんて、思ってなかったから」
「……だったら」
「でも、同じくらい怖い」
湊の声が震えていた。
「俺は、きみが好きだよ。ずっと好きだった。だから、きみが俺を必要としてくれるのは嬉しい。でも、必要とされることと、愛されることは違うでしょう」
俺は、言葉を失った。
湊は続けた。
「きみが寂しいときだけ俺を求めて、苦しくなったら俺を遠ざける。俺が何を考えているのか聞こうともしない。俺が傷ついていることにも、気づかないふりをする」
「……」
「俺は、きみと一緒にいたいよ。でも、きみの不安を全部引き受けることが、きみを好きでいることだとは思えない」
その言葉は、静かだった。
怒鳴られるより、ずっと痛かった。
俺は初めて、湊がどれだけ我慢していたのかを考えた。
俺が傷つくことを恐れて、言いたいことを飲み込んでいたのは、湊も同じだったのだ。
俺が拒絶するたび、湊は平気なふりをしていた。
俺が帰るたび、何も言わずに見送っていた。
俺が好きだと言わないことを、仕方ないと受け入れようとしていた。
俺だけが苦しかったわけではなかった。
俺は、ずっとそれを見ないようにしていた。
「……じゃあ、どうすればいいんだよ」
俺の声は、情けないくらい小さかった。
湊は、すぐには答えなかった。
「俺にも、分からない」
その返事に、俺は顔を上げた。
「分からないって何だよ」
「どうしたら、きみが俺を信じてくれるのか。どうしたら、きみが俺のことを怖がらずに好きになってくれるのか。俺にも分からないんだ」
湊は、困ったように笑った。
「俺だって、そんなに器用じゃないよ」
その瞬間、俺は初めて、湊が完璧な人間ではないことを知った気がした。
誰にでも優しくて、何でも受け入れてくれて、俺のどんな言葉にも傷つかない人間。
俺は、勝手に湊をそんなふうに思っていた。
そう思っていれば、安心できたからだ。
湊が傷つかない人間なら、俺はどれだけひどいことをしても、いつか許してもらえる。
湊が俺を嫌いにならない人間なら、俺は何も変わらなくていい。
でも、そんなわけがなかった。
湊だって、傷つく。
湊だって、怖い。
湊だって、俺に愛されたいと思っている。
俺は、ようやくそれを理解した。
「……ごめん」
そう言うと、湊は目を伏せた。
「うん」
「俺、最低だな」
「最低だとは思わない」
「じゃあ、何だよ」
「不器用なんだと思う」
「一緒にすんな」
湊は小さく笑った。
俺も、少しだけ笑った。
それでも、何かが変わったわけではなかった。
俺はまだ、湊を信じることが怖かった。
湊も、俺を信じることが怖かった。
俺たちは、互いに好きだと思いながら、どうすれば一緒にいられるのか分からなかった。
その夜、俺は湊の部屋に泊まった。
身体を重ねることはなかった。
ただ、同じベッドに横になり、少し距離を空けて眠った。
夜中、目が覚めると、湊はまだ起きていた。
「……寝ないの?」
「眠れなくて」
「何で」
「いろいろ考えてた」
俺は、しばらく黙っていた。
「……俺のこと?」
「うん」
「馬鹿じゃねえの」
「そうかも」
俺は、湊のほうに身体を向けた。
暗い部屋の中で、湊の顔はよく見えなかった。
「……手、つないでいい?」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
湊は少しだけ動きを止めた。
「うん」
俺は手を伸ばした。
指が触れ、ゆっくりと絡まる。
湊の手は温かかった。
俺は、その手を握りしめた。
「……離すなよ」
「うん」
「俺が寝ても」
「分かった」
俺は目を閉じた。
初めて、身体を重ねなくても、湊のそばにいたいと思った。
その気持ちは、思っていたよりもずっと怖かった。
身体を重ねることなら、理由をつけられる。
寂しかったから。
疲れていたから。
何も考えたくなかったから。
でも、ただ手をつないでいたいという気持ちには、言い訳がなかった。
俺は、湊のことが好きだった。
それを認めることが、こんなにも怖いとは思わなかった。
翌朝、俺たちは何も話さなかった。
湊が朝食を作り、俺がそれを食べた。
食器を洗い、着替えをして、帰る準備をした。
玄関で靴を履いていると、湊が言った。
「また来てね」
俺は、少しだけ顔を上げた。
「……来ていいの?」
「うん」
「俺、面倒くさいよ」
「知ってる」
「すぐ怒るし」
「うん」
「嫌なことばっか言うし」
「そうだね」
「……お前、ほんと性格悪いな」
湊は笑った。
「それでも、来てほしいよ」
俺は、返事をしなかった。
ただ、玄関を出る前に、湊の服をつかんだ。
一瞬だけ、抱きしめた。
湊も、俺を抱きしめ返してくれた。
その腕の中で、俺は思った。
今度こそ、ちゃんとしよう。
今度こそ、湊を傷つけないようにしよう。
今度こそ、好きだと言おう。
そう思った。
でも、人間はそんなに簡単には変われない。
俺は、それをすぐに思い知ることになった。
数週間後、湊のスマートフォンにメッセージが届いた。
画面に表示された名前は、知らないものだった。
俺は、見るつもりなどなかった。
ただ、湊が風呂に入っている間、テーブルの上に置かれたスマートフォンが震えたのだ。
画面に表示された文章が、目に入ってしまった。
『この前はありがとう。また二人で飲みに行こうね』
たったそれだけだった。
仕事関係の相手かもしれない。
友人かもしれない。
何の問題もないメッセージだった。
それなのに、俺は何も考えられなくなった。
湊は、俺以外の誰かとも会っているのだろうか。
俺以外の誰かにも、同じように優しくしているのだろうか。
俺が知らないところで、俺には見せない顔をしているのだろうか。
考え始めると、止まらなかった。
俺は、スマートフォンから目を離せなかった。
湊が風呂から出てきたとき、俺はまだ同じ場所に座っていた。
「どうしたの?」
俺は、スマートフォンを指さした。
「誰」
湊は画面を見た。
「ああ、仕事で知り合った人だよ」
「二人で飲みに行くの?」
「前に何人かで飲んだんだ。そのときの話だと思う」
「ふうん」
湊はスマートフォンを手に取り、画面を閉じた。
俺は、その動きが気に入らなかった。
「何で隠すの」
「隠してないよ」
「じゃあ、見せろよ」
湊は俺を見た。
「……何を?」
「メッセージ」
「相沢」
「何だよ」
「俺のスマートフォンを見たいの?」
俺は答えられなかった。
見たい。
全部見たい。
誰と連絡を取っているのか、誰と会っているのか、誰にどんな言葉を送っているのか。
知ってしまえば、安心できる気がした。
でも、そんなことをしても、きっと終わらない。
次は通話履歴が気になる。
次は予定が気になる。
次は、俺の知らない時間が気になる。
俺は、湊のすべてを知りたいと思っていた。
自分のことは何ひとつ話さないくせに。
「……別に」
そう言って、俺は目を逸らした。
湊は、しばらく俺を見ていた。
「俺は、きみを不安にさせたくないよ」
「だったら、そういうことするなよ」
言った瞬間、空気が変わった。
湊の表情から、笑みが消えた。
「そういうことって?」
「……だから、他の奴と」
「仕事の相手と連絡を取ること?」
俺は黙った。
「友達と食事に行くこと?」
「……」
「それも、やめたほうがいい?」
湊の声は穏やかだった。
でも、その穏やかさの中に、明らかな疲れがあった。
「俺は、きみが好きだよ。でも、きみが不安になるたびに、俺の生活を全部変えなきゃいけないの?」
俺は、何も言えなかった。
湊は続けた。
「きみが俺を好きでいてくれるのは嬉しい。でも、俺のことを信じられないからって、俺が何もかも我慢するのは違うと思う」
俺は、立ち上がった。
「……もういい」
「相沢」
「帰る」
「待って」
「うるさい!」
俺は玄関に向かった。
湊は追いかけてこなかった。
そのことに、また腹が立った。
俺は靴を履き、ドアを開けた。
「……お前、ほんとに俺のこと好きなの?」
振り返って、そう聞いた。
湊は、苦しそうな顔をしていた。
「好きだよ」
「だったら、何で引き止めないんだよ」
湊は、しばらく黙っていた。
「引き止めたら、きみは残ってくれるの?」
俺は、答えられなかった。
「それとも、俺が引き止めたことを、また責める?」
何も言えなかった。
湊は目を伏せた。
「……ごめん。今は、何を言えばいいのか分からない」
俺は、そのまま部屋を出た。
ドアが閉まった。
今度は、湊も俺も、何も言わなかった。
帰り道、俺は何度もスマートフォンを確認した。
湊から連絡が来ていないか。
引き止める言葉が届いていないか。
謝罪でも、怒りでも、何でもよかった。
俺を気にしていることが分かる言葉が欲しかった。
でも、連絡は来なかった。
俺は、歩きながら笑ってしまった。
結局、何も変わっていない。
俺は湊を好きだ。
湊も俺を好きだと言ってくれる。
それなのに、俺たちは一緒にいるたびに傷つけ合っている。
身体を重ねれば、一時的に安心できる。
でも、朝になれば、また不安になる。
湊が俺を好きだと言っても、俺は信じられない。
俺が湊を好きだと言えないことを、湊はずっと受け入れようとしている。
そんな関係が、いつまで続くのだろう。
俺は、その答えを考えないようにした。
考えてしまえば、何かを決めなければならなくなるからだ。
その夜、俺は一人で眠った。
眠れなかった。
何度も寝返りを打ち、スマートフォンを確認し、意味もなく水を飲んだ。
湊の部屋に行きたかった。
会いたかった。
謝りたかった。
でも、何を謝ればいいのか分からなかった。
俺が悪いことは分かっていた。
けれど、悪いと分かっていることと、どうすればいいのか分かることは、別だった。
俺は、湊がいないと眠れない自分が嫌だった。
湊のことばかり考えている自分が嫌だった。
好きだと言えばいい。
信じる努力をすればいい。
それだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。
翌日、会社で湊と顔を合わせた。
湊は、いつも通り挨拶をした。
「おはよう」
「……おはよう」
それだけだった。
仕事の話はした。
必要な連絡もした。
でも、それ以上の会話はなかった。
俺は何度も湊を見た。
湊は、俺を見なかった。
それが苦しかった。
今まで、俺は湊の優しさを当たり前のように受け取っていた。
俺が話しかければ、返事をしてくれた。
俺が会いたいと言えば、時間を作ってくれた。
俺が帰ろうとすれば、見送ってくれた。
でも、今は違った。
湊は、俺を拒絶しているわけではない。
ただ、必要以上に近づいてこない。
俺が望んでいた距離を、きちんと保っている。
それなのに、俺は耐えられなかった。
自分で距離を取ったくせに、相手がそれを守ると、見捨てられたような気持ちになる。
本当に、どうしようもなかった。
その週の金曜日、俺は湊の部屋に行かなかった。
連絡もしなかった。
湊からも、連絡は来なかった。
翌週も、その次の週も、同じだった。
俺たちは会社で会えば話をした。
でも、それだけだった。
一か月が過ぎた。
俺は、少しずつ日常を取り戻していた。
仕事をして、食事をして、眠る。
休日には部屋を掃除し、洗濯をした。
湊と会わなくても、生活はできた。
当然だ。
俺は、湊に会う前から生きていたのだから。
それでも、何かが足りなかった。
帰宅しても、誰かに話したいことがない。
面白いものを見ても、湊に教えたいと思うだけで終わる。
コンビニで新しい商品を見つけると、湊が好きそうだと思ってしまう。
何をしていても、湊がいないことを意識していた。
俺は、初めて理解した。
俺が湊に求めていたのは、身体だけではなかった。
毎日のどうでもいい話を聞いてほしかった。
くだらないことで笑いたかった。
疲れた日に、何も言わずに隣にいてほしかった。
俺の機嫌が悪いときも、無理に慰めず、でも見捨てずにいてほしかった。
そして、俺も湊にそうしてあげたかった。
湊が疲れていたら、話を聞きたかった。
嫌なことがあったら、味方になりたかった。
何も言いたくない日には、ただ一緒にいたかった。
そういうことを、俺はずっと望んでいたのだ。
なのに、欲しいと言えなかった。
好きだと言えなかった。
失うことが怖くて、手に入れることすら避けていた。
その結果、本当に失いかけていた。
俺は、湊に連絡をしようと思った。
何度もメッセージを打ち、消した。
『会いたい』
たった四文字が、送れなかった。
送ってしまえば、返事を待たなければならない。
返事が来なければ、傷つく。
断られれば、もっと傷つく。
でも、送らなければ何も変わらない。
俺は、しばらく画面を見つめていた。
そして、ようやく送信した。
『話がしたい』
送ってから、スマートフォンを伏せた。
すぐに返事が来た。
『いいよ。いつにする?』
俺は、息を吐いた。
『今日』
少し間が空いた。
『分かった。何時頃?』
『仕事終わり』
『待ってるね』
俺は、スマートフォンを握りしめた。
嬉しかった。
それだけで、どうしようもなく嬉しかった。
でも、今度は逃げないと決めた。
湊に会って、ちゃんと話をしよう。
自分の気持ちを伝えよう。
たとえ、うまくいかなかったとしても。
俺はもう、自分の気持ちをなかったことにしたくなかった。
仕事が終わると、俺はまっすぐ湊の部屋に向かった。
ドアを開けた湊は、少し驚いたような顔をした。
「おかえり」
その言葉に、胸が痛んだ。
俺は、何も言えなかった。
「入って」
湊に促され、部屋に入った。
テーブルには、二人分の食事が用意されていた。
「……飯、作ったの?」
「うん」
「何で」
「話をするなら、食べながらでもいいかなと思って」
俺は、椅子に座った。
湊も向かいに座る。
しばらく、食事をした。
味は、よく分からなかった。
何か言わなければと思うほど、言葉が出てこなかった。
先に口を開いたのは、湊だった。
「話って、何?」
俺は箸を置いた。
「……ごめん」
湊は、黙って俺を見ていた。
「この前、ひどいこと言った。お前が誰と連絡を取ろうが、誰と会おうが、俺が口を出すことじゃないのに」
「うん」
「お前のこと、信じられなかった」
「うん」
「……今も、全部信じられるかって言われたら、正直、分からない」
湊は少しだけ目を伏せた。
俺は、慌てて続けた。
「でも、信じたいんだよ」
声が震えた。
「お前が俺を好きだって言ってくれることも、俺と一緒にいたいって思ってくれることも、ちゃんと信じたい」
湊は、何も言わなかった。
俺は、手を握りしめた。
「俺、お前のことが好きなんだ」
言ってしまった。
ずっと言えなかった言葉だった。
「好きだよ。ずっと。お前が思ってるより、ずっと好きだった」
湊の表情が変わった。
「……相沢」
「でも、怖かった。好きだって言ったら、お前が俺を嫌いになるんじゃないかって。俺がどれだけ面倒な人間か分かったら、いなくなるんじゃないかって」
俺は、笑った。
「だから、先に嫌なことばっか言った。お前が俺を嫌いになっても、仕方ないって思えるように。俺が傷ついたとき、お前のせいにできるように」
湊は、唇を噛んだ。
俺は続けた。
「最低だよな」
「……うん」
思わず顔を上げた。
湊は、泣きそうな顔で笑っていた。
「最低だと思う」
「……おい」
「でも、俺も同じくらい最低だった」
湊は、テーブルの上で両手を組んだ。
「俺も、きみが離れていくのが怖かった。だから、きみが何を言っても平気なふりをした。きみが帰りたいと言えば、引き止めなかった。嫌われたくなくて、何も言えなかった」
「……」
「本当は、もっと一緒にいたかった。帰らないでほしかった。俺のことを好きだって言ってほしかった」
湊の声が、少しずつ震えていく。
「でも、きみが俺を好きじゃないなら、仕方ないと思おうとしてた。身体を重ねられるだけでも、そばにいられるだけでも、十分だって」
俺は、胸が痛くなった。
「そんなわけないのにね」
湊は笑った。
「俺も、欲張りだったんだよ」
俺は、何も言えなかった。
俺たちは、同じことを考えていた。
同じように怖がり、同じように傷つき、同じように相手を求めていた。
なのに、それを伝えようとしなかった。
お互いが何を望んでいるのか、分かっているつもりで、何ひとつ分かっていなかった。
「……湊」
俺は、初めて名前を呼んだ。
湊は、驚いたように顔を上げた。
俺は、手を伸ばした。
「俺と、付き合ってほしい」
湊は、すぐには答えなかった。
俺は、その沈黙に耐えた。
今までなら、何か言っていたと思う。
冗談だと言ったかもしれない。
やっぱり忘れてくれと、逃げたかもしれない。
でも、今は待とうと思った。
湊が何を考えているのか、ちゃんと聞きたかった。
やがて、湊は口を開いた。
「……本当に?」
「うん」
「俺のこと、好き?」
「好きだよ」
「面倒くさいところも?」
「……それは、これから何とかする」
湊は、笑った。
「そこは否定してほしかったな」
「うるせえ」
「ごめん」
「謝んなよ」
湊は、目元を指で拭った。
俺は、その仕草を見て、ようやく理解した。
湊は、ずっと我慢していたのだ。
俺が見せないようにしていたものを、湊も隠していた。
俺が泣きたくても泣けなかったように、湊も泣きたくても泣けなかった。
「……俺でいいの?」
湊が聞いた。
俺は、頷いた。
「お前がいい」
「本当に?」
「何回聞くんだよ」
「だって、嬉しいから」
その言葉を聞いて、俺は笑った。
泣きそうになりながら、笑った。
「……俺も、嬉しいよ」
湊は、立ち上がって俺の隣に来た。
そして、そっと俺を抱きしめた。
俺も、湊を抱きしめ返した。
今まで何度も抱きしめられてきた。
でも、その夜の抱擁は、今までとは違っていた。
何かを隠す必要がなかった。
何かを確かめるために、身体を重ねる必要もなかった。
俺たちは、互いに好きだと言った。
一緒にいたいと言った。
それだけで、十分だった。
……と言えたら、どれだけよかっただろう。
実際には、付き合い始めてからも、俺たちは何度も喧嘩をした。
俺は、相変わらず嫉妬深かった。
湊が誰かと楽しそうに話していると、胸の奥がざわついた。
湊は、相変わらず言いたいことを飲み込む癖があった。
俺が機嫌を悪くすると、すぐに謝ろうとした。
俺たちは、長い間続けてきた習慣を、すぐには変えられなかった。
ある日、俺は仕事で大きなミスをした。
自分の確認不足が原因だった。
上司に叱られ、関係者に謝罪し、後処理に追われた。
帰宅したときには、何も考えたくなかった。
湊の部屋に行き、ソファに座る。
湊は、俺の顔を見てすぐに気づいた。
「何かあった?」
「別に」
「……そっか」
湊は、それ以上聞かなかった。
俺は、しばらく黙っていた。
本当は、話を聞いてほしかった。
でも、失敗した自分を知られるのが嫌だった。
湊に失望されたくなかった。
俺は、黙ってスマートフォンを見ていた。
やがて、湊が隣に座った。
「話したくなったら、聞くよ」
その言葉に、俺は苛立った。
「……何で聞かないんだよ」
湊は驚いた。
「え?」
「何かあったって分かってんだろ。だったら聞けよ」
言ってから、俺は自分の愚かさに気づいた。
湊は、俺が話したくないのだと思って、待ってくれていた。
それなのに、俺は責めた。
湊は、少しだけ困ったように笑った。
「ごめん。どうしたらいいのか、分からなかった」
その言葉を聞いて、俺はようやく落ち着いた。
「……俺が仕事でミスした」
湊は頷いた。
「そっか」
「上司に怒られた。俺の確認不足だった。関係者にも迷惑かけた」
「うん」
「……最悪だ」
湊は、俺の手に触れた。
「つらかったね」
その一言で、俺は泣きそうになった。
慰めてほしかった。
失敗をなかったことにしてほしかったわけではない。
俺が悪かったことは、分かっている。
ただ、失敗した自分を、全部否定したくなかった。
湊は、俺の手を握った。
「今日は、ゆっくりしよう」
俺は頷いた。
その夜、俺たちは一緒に食事をした。
湊は、俺の話を最後まで聞いてくれた。
途中で助言をしたり、無理に励ましたりはしなかった。
俺が話し終えると、湊は言った。
「明日、また対応しなきゃいけないんだよね」
「うん」
「じゃあ、今日はちゃんと寝よう」
「……うん」
俺は、湊の肩に寄りかかった。
身体を重ねたいとは思わなかった。
ただ、そばにいたかった。
湊は、何も言わずに俺の頭を撫でた。
俺は、その手を握った。
少しずつ、変わっていける気がした。
俺たちは、何度も間違えるだろう。
これからも、嫉妬することはある。
不安になることもある。
相手の言葉を信じられなくなる夜もあるかもしれない。
でも、もう、何も言わずに離れることだけはしたくなかった。
好きだという気持ちを、相手を縛るために使いたくなかった。
好きだからこそ、ちゃんと話をしたかった。
そのことを、俺は少しずつ学んでいた。
付き合い始めて半年が過ぎた頃、湊が言った。
「一緒に住まない?」
俺は、飲んでいた水を吹き出しそうになった。
「……は?」
「一緒に住もうよ」
「何で急に」
「急じゃないよ。ずっと考えてた」
俺は、コップを置いた。
湊は、少し緊張した様子で俺を見ていた。
「もちろん、今すぐじゃなくてもいい。きみが嫌なら、無理にとは言わない」
その言い方に、俺は苦笑した。
「お前、またそれかよ」
「え?」
「俺が嫌ならって。毎回それ言うじゃん」
湊は、困ったように笑った。
「……癖なんだよ」
「知ってる」
俺は、湊の手を握った。
「俺も、一緒に住みたい」
湊は、目を見開いた。
「本当に?」
「だから、何回聞くんだよ」
「嬉しいから」
「……俺も嬉しい」
俺たちは、しばらく手をつないでいた。
その後、二人で部屋を探した。
家賃や通勤時間、間取り、生活費。
現実的な話を、何度もした。
湊は駅に近い物件を希望し、俺は少し広い部屋がいいと言った。
意見が合わないこともあった。
そのたびに、俺たちは話し合った。
最初は、話し合うこと自体が怖かった。
意見が合わないと、相手に嫌われる気がした。
自分の希望を伝えると、わがままだと思われる気がした。
でも、湊は違った。
俺が希望を言うと、きちんと聞いてくれた。
俺も、湊の希望を聞くようにした。
そうやって決めた部屋は、駅から少し離れた、築年数の古いマンションだった。
広さは十分で、日当たりも悪くなかった。
何より、二人で無理なく家賃を払える。
契約を済ませ、鍵を受け取った日、俺は部屋の真ん中に立っていた。
まだ何もない部屋だった。
家具も、家電も、生活の跡もない。
ただ、ここに俺たちが住むのだと思うと、不思議な気持ちになった。
「……本当に、住むんだな」
俺が言うと、湊は笑った。
「そうだね」
「何か、変な感じ」
「俺も」
湊は、窓の近くに立った。
「ここで朝ご飯を食べて、仕事に行って、帰ってきて、一緒に寝るんだね」
俺は、湊を見た。
その言葉が、あまりにも普通だったからだ。
特別なことではない。
映画のような約束でもない。
ただ、一緒に生活する。
それだけのことが、俺には夢みたいだった。
「……湊」
「何?」
「俺、ちゃんとやれるかな」
湊は、少し考えてから答えた。
「最初から、ちゃんとできなくてもいいんじゃない?」
俺は眉を寄せた。
「何だよ、それ」
「一緒に住んでみないと分からないこともあるし。合わないところがあったら、そのときに考えればいいよ」
「……お前、適当だな」
「そうかな」
「そうだよ」
湊は笑った。
「でも、きみと一緒に住みたいと思ったのは本当だよ」
俺は、何も言えなくなった。
昔の俺なら、その言葉を疑っていたと思う。
本当に?
いつまで?
俺が嫌な人間だと分かっても?
俺が何度も失敗しても?
そうやって、いくつもの質問を重ねていたはずだ。
でも、今は少し違った。
湊がそう言ってくれたことを、そのまま受け取ってみようと思えた。
「……俺も、お前と住みたい」
そう言うと、湊は俺を抱きしめた。
何もない部屋で、俺たちはしばらく抱き合っていた。
引っ越しの日は、思ったより大変だった。
段ボールは多いし、家具の組み立てはうまくいかないし、必要なものを買いに行くだけで一日が終わった。
俺は途中で機嫌が悪くなった。
湊は、そんな俺を見て笑った。
「疲れた?」
「疲れた」
「休もうか」
「……そうする」
二人で床に座り、コンビニで買った弁当を食べた。
まだテーブルもない。
段ボールを椅子代わりにして、適当に食べる。
湊は、楽しそうだった。
「何笑ってんの」
「いや。こういうのも、いいなと思って」
「何が」
「きみと生活してる感じがする」
俺は、箸を止めた。
「……今までだって、一緒にいたじゃん」
「うん。でも、こういうのは初めてだから」
湊は、部屋を見回した。
「きみの荷物があって、俺の荷物があって。これから、もっと増えていくんだろうね」
俺は、少しだけ笑った。
「お前、物少ないじゃん」
「きみが多いんだよ」
「うるせえ」
湊は笑った。
俺も笑った。
その夜、俺たちは新しいベッドで眠った。
部屋にはまだ段ボールが積まれていた。
カーテンも、間に合わせのものだった。
それでも、隣には湊がいた。
俺は、眠る前に湊の手を握った。
「……なあ」
「何?」
「俺、たぶん、これからも面倒くさいと思う」
「うん」
「嫉妬もするし、不安にもなる」
「うん」
「……そのたびに、ちゃんと話すようにする」
湊は、俺の手を握り返した。
「俺も、ちゃんと話すよ」
「……約束な」
「うん。約束」
俺は目を閉じた。
初めて、明日の朝が来ることを楽しみに思った。
一緒に暮らし始めてから、俺たちは少しずつ変わっていった。
湊は、以前よりも自分の気持ちを話すようになった。
嫌なことがあれば、嫌だと言う。
疲れているときは、今日は一人で休みたいと言う。
俺が何かを言いすぎたときは、ちゃんと傷ついたと伝える。
最初は、そのたびに俺も傷ついた。
自分が否定されたような気持ちになった。
でも、湊が俺を嫌いになったわけではないと、少しずつ理解できるようになった。
嫌なことを嫌だと言えるのは、関係を続けたいからなのかもしれない。
我慢を重ねて、いつか限界を迎えるより、ずっといい。
俺も、少しずつ本音を話せるようになった。
仕事で嫌なことがあった日。
昔のことを思い出して、気分が落ち込んだ日。
湊が誰かと楽しそうに話していて、少し嫉妬した日。
最初は、言葉にするのが難しかった。
でも、湊は俺の話を聞いてくれた。
「そう思ったんだね」
「うん」
「教えてくれてありがとう」
その言葉を聞くたび、俺は少しずつ安心できるようになった。
自分の気持ちを話しても、必ずしも関係が壊れるわけではない。
嫌な感情を抱いたからといって、相手を責めなければならないわけでもない。
俺は、湊と暮らすようになって初めて、そういうことを知った。
もちろん、何もかもがうまくいったわけではない。
俺たちは、何度も喧嘩をした。
洗濯物の干し方で言い合いになったこともある。
食事の予定を伝え忘れて、互いに気まずくなったこともある。
湊が仕事で疲れているとき、俺が気づかずに話しかけすぎて、怒らせたこともあった。
そのたびに、俺たちは話をした。
すぐには仲直りできないこともあった。
一晩、別々に眠ったこともある。
でも、翌朝にはどちらかがコーヒーを淹れた。
もう一方が、それを受け取った。
それだけで、少しだけ話しやすくなった。
以前の俺たちは、喧嘩をすると、すぐに関係そのものを疑っていた。
嫌われたのではないか。
もう終わりなのではないか。
そう考えると、素直に謝ることもできなくなった。
でも、今は違った。
喧嘩をしても、すぐに別れるわけではない。
意見が合わなくても、好きではなくなったわけではない。
そう思えるようになったのは、湊が何度も、言葉と行動で伝えてくれたからだ。
俺も、少しずつそれに応えられるようになった。
ある夜、俺は湊より先に帰宅した。
冷蔵庫を開けると、食材がいくつか残っていた。
俺は、適当に夕食を作った。
料理は得意ではない。
味付けも、いつも目分量だった。
それでも、湊が帰ってくる時間に合わせて、二人分の食事を用意した。
玄関のドアが開く。
「ただいま」
「おかえり」
湊は、キッチンを見て驚いた。
「え、作ってくれたの?」
「……何だよ。悪いかよ」
「ううん。嬉しい」
俺は、顔が熱くなるのを感じた。
「別に、大したもんじゃねえし」
「うん。でも、きみが作ってくれたんでしょう?」
「……そうだけど」
湊は、俺を抱きしめた。
「ありがとう」
その言葉が、妙に嬉しかった。
俺は、湊の背中に腕を回した。
「……また作るよ」
「本当?」
「たまにな」
「うん。楽しみにしてる」
湊は、俺の頬に軽くキスをした。
俺は、笑ってしまった。
こんなことで嬉しくなるなんて、昔の俺には想像もできなかった。
身体を重ねることだけが、俺たちのつながりだった頃。
俺は、湊の気持ちを確かめるために、何度も身体を求めていた。
触れられている間だけは、安心できた。
自分が必要とされていると、思えたからだ。
でも、今は違う。
湊が俺の作った料理を食べてくれること。
疲れて帰ってきた湊に、おかえりと言えること。
何でもない話をしながら、同じ部屋で過ごすこと。
そういうことの一つひとつが、俺たちの関係を作っている。
俺は、それを知った。
ある休日、湊が昔の写真を見せてきた。
「これ、覚えてる?」
スマートフォンの画面には、数年前の俺たちが写っていた。
会社の飲み会で撮った写真だった。
俺は少し不機嫌そうな顔をしていて、湊は笑っていた。
「……何だこれ」
「懐かしいね」
「俺、こんな顔してた?」
「してたよ」
「お前、楽しそうだな」
「きみが隣にいたから」
俺は、湊を見た。
「……昔から、そうだったの?」
「うん」
湊は、写真を見つめたまま答えた。
「きみと一緒にいると、楽しかったよ」
「俺、めちゃくちゃ感じ悪かったと思うけど」
「そうだね」
「否定しろよ」
「でも、そういうところも含めて、好きだったんだと思う」
俺は、何も言えなかった。
湊は、写真を閉じた。
「……今だから言えるけど、きみに告白したあと、結構つらかったんだよ」
俺は、息を止めた。
「毎日、普通に話してくれるでしょう。だから、嫌われてはいないんだと思った。でも、俺のことをどう思っているのかは、全然分からなかった」
「……」
「それでも、きみと一緒にいたかったんだよね。仕事で話せるだけでも嬉しかったし、休日に会えると、もっと嬉しかった」
湊は、少し笑った。
「だから、きみが俺の部屋に来るようになったとき、すごく嬉しかった」
「……何で、何も言わなかったんだよ」
「言ったら、きみが来なくなると思ったから」
俺は、胸が痛くなった。
「身体を重ねるようになってからも、嬉しかったよ。でも、きみが帰るたびに、これでよかったのかなって思ってた」
「……」
「俺は、きみと恋人になりたかった。でも、きみがそれを望んでいないなら、無理に求めることはできないと思ってた」
湊は、俺の手を握った。
「今だから言えるけど、あの頃の俺は、きみに嫌われないことばかり考えてたんだと思う」
俺は、湊の手を握り返した。
「……ごめん」
「うん」
「本当に、ごめん」
湊は首を横に振った。
「もう、謝らなくていいよ」
「でも」
「謝ってくれるのは嬉しい。でも、これから一緒にいる時間のほうが、もっと大事だから」
俺は、湊を見つめた。
その言葉は、優しかった。
過去をなかったことにするわけではない。
俺がしたことを、許さなければならないわけでもない。
ただ、これからを大事にしたいと言ってくれている。
俺は、その気持ちを受け取りたかった。
「……俺も、お前と一緒にいたい」
湊は笑った。
「知ってる」
「何だよ」
「毎日、一緒にいるから」
俺は、思わず笑った。
「……そうだな」
その夜、俺たちは久しぶりに、昔のように長い時間をかけて身体を重ねた。
でも、昔とは違った。
相手の気持ちを確かめるためではない。
離れていかないように縛るためでもない。
ただ、好きだから触れたかった。
抱きしめたかった。
近くにいたかった。
湊が俺の名前を呼ぶ。
俺も、湊の名前を呼ぶ。
それだけで、十分だった。
身体を重ねたあと、俺たちはベッドの中で話をした。
昔のこと。
今のこと。
これからのこと。
途中で眠くなり、話が途切れることもあった。
湊が寝返りを打ち、俺の肩に頬を寄せる。
俺は、その髪を撫でた。
「……なあ、湊」
「ん?」
「俺、お前のこと、ずっと嫌いだったんだよ」
湊は、目を閉じたまま笑った。
「知ってる」
「……でも、好きだった」
「うん」
「嫌いだったのに、好きだった」
俺は、言葉を探した。
「お前のことが好きだって認めたら、何か負けた気がしてた。お前がいないと駄目だって認めるのが、怖かった」
湊は、ゆっくりと目を開けた。
「うん」
「でも、今は……」
俺は、湊の手を握った。
「お前がいないと寂しいって、ちゃんと言える」
湊は、少しだけ目を細めた。
「……うん」
「会いたいときは、会いたいって言う。寂しいときは、寂しいって言う」
「うん」
「だから、お前も言えよ」
湊は、笑った。
「分かった」
俺は、湊を抱きしめた。
「……好きだよ」
湊は、すぐに返事をした。
「俺も、好きだよ」
その声を聞いて、俺は目を閉じた。
もう、何度も聞いた言葉だった。
それでも、何度聞いても嬉しかった。
俺たちの関係は、最初からきれいなものではなかった。
好きなのに憎んでいた。
そばにいたいのに、傷つけた。
身体を重ねることでしか、互いの気持ちを確かめられなかった。
相手を必要とすることが怖くて、必要としていることを隠し続けた。
そんな時間が、何年もあった。
その時間を、なかったことにはできない。
俺たちが傷つけ合ったことも、失いかけたことも、きっと忘れない。
でも、今は違う。
俺たちは、好きだと言える。
寂しいと言える。
嫌なことは嫌だと言える。
相手の気持ちが分からないときは、聞くことができる。
それでも分からないときは、分からないまま、少しずつ考えていけばいい。
俺は、湊の手を握った。
湊も、握り返してくれた。
「……おやすみ」
俺が言うと、湊は笑った。
「おやすみ」
翌朝、目が覚めると、湊が隣にいた。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいた。
俺は、しばらく湊の寝顔を見ていた。
少しだけ口が開いている。
髪は乱れていて、枕を抱きしめている。
会社で見せる、あの余裕のある顔とは全然違う。
俺だけが知っている顔だった。
そう思うと、少し嬉しくなった。
俺は、湊の頬に触れた。
湊が目を覚ました。
「……何?」
「別に」
「何かした?」
「何もしてない」
湊は眠そうに目をこすった。
「……お腹すいた」
俺は、笑った。
「起きて飯食えよ」
「作ってくれる?」
「……自分で作れ」
「えー」
「えー、じゃねえよ」
湊は笑いながら、俺の肩に顔を埋めた。
「あと五分」
「昨日もそれ言ってた」
「今日も言う」
「……馬鹿」
俺は、湊を抱きしめた。
「……五分だけな」
「うん」
湊は、嬉しそうに笑った。
俺は、その笑顔を見て思った。
こいつを一生好きでいるのは、きっと簡単ではない。
これからも、腹が立つことはあるだろう。
嫉妬することもある。
相手の言葉を疑ってしまう夜も、きっとある。
それでも、もう逃げたくなかった。
湊を好きな自分を、否定したくなかった。
湊が俺を好きでいてくれることを、疑うだけで終わらせたくなかった。
俺たちは、何度も間違えた。
何度も傷つけ合った。
それでも、ここまで来た。
だったら、これからも、何度でもやり直せばいい。
俺は、湊の髪を撫でた。
「……なあ」
「ん?」
「今日、どっか行く?」
湊は顔を上げた。
「出かけるの?」
「うん。買い物とか」
「いいね」
「そのあと、飯でも食って」
「うん」
湊は、少し考えてから言った。
「帰りに、ケーキ買って帰ろうよ」
「何で?」
「食べたいから」
「……お前、甘いもん好きだな」
「きみも好きでしょう」
俺は、笑った。
「まあな」
湊は、また俺の肩に顔を埋めた。
「楽しみだね」
俺は、その言葉を聞きながら、目を閉じた。
特別なことは何もない。
ただ、一緒に出かけて、食事をして、ケーキを買って帰る。
それだけだ。
でも、俺はその一日が楽しみだった。
明日も、明後日も、その先も。
湊と一緒に過ごす時間が、楽しみだった。
昔の俺なら、そんなことを考える自分を笑っていたと思う。
誰かを好きになることは、弱さだと思っていた。
誰かを必要とすることは、負けることだと思っていた。
だから、先に傷つけた。
先に拒絶した。
そうすれば、自分だけは傷つかずに済むと思っていた。
でも、実際には違った。
俺はずっと、湊に傷つけられることを恐れながら、自分で自分を傷つけていた。
湊の優しさを疑い、湊の気持ちを試し、湊が離れていく理由を自分で作っていた。
好きなのに、好きだと言えなかった。
そばにいたいのに、帰ることばかり考えていた。
そんな俺を、湊はずっと好きでいてくれた。
その事実を、俺はこれからも忘れないと思う。
忘れたくない。
湊が俺を好きでいてくれたことも。
俺が湊を好きだったことも。
二人で何度も間違えたことも。
それでも、最後には手を伸ばしたことも。
全部、俺たちのことだから。
「……湊」
「何?」
「好きだよ」
湊は、少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「俺も、好きだよ」
俺は、湊を抱きしめた。
今度は、確かめるためではなかった。
離れていかないようにするためでもなかった。
ただ、抱きしめたかったからだ。
湊が俺の腕の中で笑う。
俺も笑った。
この先、何があっても、俺たちはきっと完璧にはなれない。
互いの気持ちを全部理解することも、傷つけ合わずに生きることも、できないかもしれない。
それでも、好きだと言うことはできる。
会いたいと言うことはできる。
一緒にいたいと、何度でも伝えることができる。
俺は、湊の手を握った。
湊も、握り返した。
もう、身体を重ねることでしか繋がれないわけではない。
でも、身体を重ねることが嫌になったわけでもない。
好きだから触れたい。
好きだから抱きしめたい。
好きだから、何度でも名前を呼びたい。
その気持ちを、もう隠さなくていい。
俺は、湊の頬にキスをした。
「……そろそろ起きろよ」
「あと五分」
「長えよ」
「じゃあ、三分」
「変わんねえだろ」
湊は笑った。
俺も笑った。
結局、俺たちは三分どころか、十分以上もベッドの中にいた。
それからようやく起き上がり、朝食を作り、洗濯機を回した。
湊が食器を洗い、俺が洗濯物を干した。
どちらが何をするかで、少しだけ言い合いになった。
それでも、最後には二人で笑った。
俺たちの生活は、そんなふうに続いていく。
きれいではない。
完璧でもない。
それでも、俺は今の生活が好きだった。
湊がいて、俺がいる。
ただそれだけのことが、こんなにも嬉しい。
俺は、洗濯物を干し終えて、リビングに戻った。
湊がソファに座っていた。
俺に気づくと、手を伸ばしてきた。
「おいで」
俺は、その手を取った。
隣に座ると、湊が俺の肩に寄りかかった。
俺も、湊の肩に頭を預けた。
テレビから、どうでもいい番組の音が聞こえていた。
冷蔵庫には、夕食の食材が入っている。
玄関には、二人分の靴が並んでいる。
洗面所には、同じ色の歯ブラシが二本ある。
それらを見て、俺は思った。
俺は、ようやく帰る場所を手に入れたのかもしれない。
湊も、そう思ってくれていたらいい。
「……なあ、湊」
「何?」
「これからも、一緒にいてくれる?」
湊は、少しだけ身体を起こした。
そして、俺の顔を見た。
「うん。一緒にいるよ」
「……ずっと?」
「ずっと、って約束するのは難しいけど」
俺は、少しだけ胸が痛くなった。
でも、湊は続けた。
「これからも、きみと一緒にいたい。明日も、来週も、その先も。そう思ってるよ」
俺は、笑った。
「……そっか」
「うん」
「じゃあ、いい」
湊は、俺の手を握った。
「俺も、きみに聞いていい?」
「何を?」
「これからも、一緒にいてくれる?」
俺は、湊を見つめた。
昔の俺なら、きっとすぐには答えられなかったと思う。
約束することが怖かった。
相手を大切にすることが怖かった。
いつか失うかもしれないものを、手に入れることが怖かった。
でも、今は違う。
俺は、湊の手を握り返した。
「うん。一緒にいるよ」
湊は、嬉しそうに笑った。
俺も笑った。
「……好きだよ、湊」
「俺も、好きだよ」
俺たちは、もう一度抱きしめ合った。
憎んでいた時間が消えるわけではない。
傷つけたことが、なかったことになるわけでもない。
それでも、今の俺たちは、互いに好きだと言える。
そばにいたいと伝えられる。
明日のことを、一緒に考えられる。
それだけで、十分だった。
俺は、湊の肩に顔を埋めた。
「……なあ」
「ん?」
「今日、ケーキ二個買っていい?」
湊は笑った。
「いいよ」
「お前の分も食うかもしれない」
「それは駄目」
「何でだよ」
「俺も食べたいから」
俺は、思わず吹き出した。
「……ケチ」
「きみが食べすぎなんだよ」
「うるせえ」
湊は笑いながら、俺の手を握った。
俺も、握り返した。
窓の外では、いつも通りの休日が過ぎていた。
特別なことは何も起こらない。
誰かが俺たちを祝福してくれるわけでもない。
過去の傷が、きれいに消えてくれるわけでもない。
それでも、俺たちは一緒にいる。
好きだと言い合いながら。
時々、喧嘩をしながら。
相手のことが分からなくなったら、もう一度聞きながら。
俺は、湊の手を握ったまま、目を閉じた。
もう、帰りたくない理由を探さなくていい。
ここが、俺の帰る場所だから。
そして、湊がいるこの場所に、俺もいていいのだと、ようやく思えるようになったから。
コメント
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ああ、読了しました……。長かったですね、この5年。もう、息が苦しくなるくらいだったけど、最後にちゃんと「おかえり」と「ただいま」が言えて、本当に良かった。 このお話、湊くんが「俺も同じくらい最低だった」って言ったところで、もう胸がギュッてなりました。ずっと一方通行だと思ってた憎しみとか依存が、実は二人とも同じ形で苦しんでたんだなって。それで最後、洗面所に歯ブラシが二本並んでる描写、あれがもう言葉にならないくらい好きです。日常の中にしっかりと「居場所」があるんだなって。 不器用同士がようやく辿り着いた、穏やかな朝。心から「お疲れさま」って伝えたいです。素敵な作品をありがとうございました。
5
ムメイ
56
KLm🌹
40
#異世界転移
花月夜れん
3,093