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その後、千代は自室に案内される。まだ半分思考が停止してはいたものの、広い和室に通されると千代は声を上げて喜んだ。
「旦那様が千代様のためにって、色々用意してくださったんですよ」
箪笥や鏡面台等、必要なものは一通りそろっている。どれも、天海の家にいた時よりも大きなものばかりで、本当に継人は経済的に余裕があるのだと千代は感心してしまう。
箪笥の中には、予め運んでもらっておいて着物の他に数着新しいものが用意してあり、トミによるとそれらも継人が用意したものとのことだった。
「気に入っていただけましたか?」
「……はい! それはもう……! 本当にこんな素敵な部屋、使ってもいいんですか!?」
「勿論ですとも! 旦那様ったら、顔には出にくいんですけど千代様が来る一週間も前からそわそわしてらしたんですよ」
「まあ!」
想像は出来なかったが、歓迎されているとわかって千代の気分は高揚する。確かに継人は千代からすればおじさんだし、今でもそれを考えると少し落ち込む。それでも、継人が喜んで千代を嫁として迎えようとしてくれているのは嬉しかった。
夫婦のように思えるまで時間はかかるかも知れないが、それはこれから育んでいけば良いことだ。
「何か他に必要なものがありましたら、何でも申し付けてくださいね」
「ありがとう。でももう十分です!」
嬉しそうにそう答えてから、千代はふと気になったことをトミへ問う。
「そういえば、旦那様はお忙しいのでしょうか? 先程も途中で患者の様子を見に行くとおっしゃっていたのだけど……」
「そうですねぇ……ちょっと今は大変そうですが……。その時々によってまちまちですので何とも……」
「そうなんですね……」
龍之介の話によると照れ屋だという話だし、トミの言う通り今忙しいのであれば途中で出て行ってしまったのも仕方ないのかも知れない。むしろ、忙しいのに何とか千代に会う時間を作ってくれていたのかも知れない。
「……私、何かお手伝い出来ませんか?」
「あら、千代様がですか?」
「ええ、こんなに良くしてもらっているのに、何もしないでいるなんて出来ませんわ」
「それは……旦那様もお喜びになるかも知れませんねぇ」
そんなことを言いながらトミが穏やかに笑うので、千代はすっかりその気になってしまう。出会い方はあまり良くなかったが、これから仲良くなっていけば良い。仕事を手伝うのがそのきっかけになるんじゃないかと思い、千代は少し微笑んだ。
「……そういえば千代様、龍之介さんとは……」
ふとトミがそう言いかけ、千代がトミの方を視線を向けた瞬間、遮るように襖が開く。
「あ、旦那様……」
少しだけ萎縮しつつも、千代は継人の方へ向き直る。相変わらず継人は笑み一つこぼさない。
「あの、お部屋……ありがとうございます。他にも、色々……」
やや照れながら礼を言う千代だったが、継人はすぐに顔を背けてしまう。
「そうか……」
短い一言だったが、どこか安堵したかのような声音だ。それを感じた千代は、顔を背けたのは照れているだけなのだろうと感じて笑みをこぼす。
「お仕事……大変、なんですか?」
「……ああ」
顔は未だにこちらへ向けてくれなかったが、継人は小さな声でそう答えた。
「えっと……良かったら、お手伝い……させてもらえませんか? 何か出来ることがあれば良いんですけど……」
おずおずと千代が申し出ると、急に継人は千代の方へ顔を向ける。その眉間にしわが寄っていることに気がついて、千代は思わず声を上げそうになる。
「……ない」
「いや、あの……」
「何も、ない……。何もしなくていい」
にべもなくそう言われて、千代は言葉を詰まらせる。何か迷惑だったのかと思うと、途端に不安な気持ちが募り始めた。
「今日は患者が一晩診療所に泊まる……。絶対に近づかないでくれ」
千代に背を向け、それだけ言い終わると継人は部屋を後にする。心なしか強い力で閉められた襖が、必要以上に千代と継人を隔てた。
今にも膝から崩れそうになるのを何とかこらえつつ、千代は肩を震わせる。天海家でのことを思えば拒絶されることには慣れているつもりだったが、それでもどうしようもないくらい悲しい。拒絶そのものよりも、好意を突っぱねられたことが辛かったのかも知れない。
「あの……千代様? 申し訳ありません、旦那様は少々口下手でして……別に怒っているわけではないのだと思いますが……」
「そ、そうですよね……。とりあえず今日は、大人しくお部屋の整理でもしようかと思います」
「それが良いかも知れませんねぇ。それでは、私は仕事に戻りますので、何かありましたらいつでもお呼びください」
親切なトミに礼を言うと、トミは笑顔で部屋を去って行く。
「……そうよね。旦那様のお仕事、邪魔しちゃ悪いわよね」
一人そう呟いて、千代はなんとか立ち直る。まだ新生活は始まったばかりだ。きっとどこかでタイミングを掴んで、継人とうまく話せる時が来るハズだ。
そう言い聞かせて、千代は部屋の整理を始めた。
とは言っても、千代の荷物はそう多くない。少しの着物と雑誌や、趣味で集めた切手、後は日用品ばかりである。風呂敷を広げてそれらを整理するのに、それほど時間はかからなかった。
***
黒鵜家に来てから二日目になった。トミや他の使用人達はとても良くしてくれたし、夕飯もおいしかった。しかしあれから、継人とは一言も口を聞いていない。継人から声をかけてくることは全くなく、千代もなんとなく声がかけづらいまま、いつの間にか診療所へと戻ってしまっていた。
トミは随分と気を遣ってくれたようだが、どうしても千代の緊張感は拭えない。龍之介やトミの話と、実際の継人の態度にはどうにもズレがある。どうにかして仲良く出来たらとは思いながらも、実はそんなに歓迎されていないのでは? などという思いも脳裏をよぎり始めていた。
継人は朝食の時は同席していたものの、やはり千代との会話はない。それどころか、トミ達とも必要最低限しか話をしていなかった。何とか勇気を振り絞って昨日の真意を問いたかったが、結局何も言えないまま時間は過ぎていく。そして継人は食べ終わるとすぐに仕事だと言ってどこかへ行ってしまうのだった。
「……あの、トミさん」
朝食の後、千代はすぐにトミの元へ向かう。
「はい、なんでございましょう?」
「私は……この後何をすれば良いでしょう? 旦那様のお手伝いは……出来ないみたいだけど、何か手伝うことがあれば……」
「まあ、千代様に手伝わせるだなんてとんでもありませんよ! お気持ちだけいただいておきます……。はぁ、なんて優しい奥様がいらっしゃったのでしょう……」
感極まったかのように打ち震えるトミに苦笑しつつも、千代は内心ため息をついてしまいそうになる。
天海の家では、半分くらい使用人扱いで、よく使用人に混じって家事をやったものだ。千代はそれを特に気に留めていなかったし、何もしないでいるよりは良いと思っていた。
特に何もすることがない、と言うのは千代にとってあまり嬉しいことではない。
「わかりました。何かあったら遠慮なく言ってください。喜んで手伝います!」
そう言い残して、千代はそのまま自室へと戻った。
***
自室へ戻っても、特に何もすることがないので、千代は何となく継人のことを考える。
「……やっぱり、このままじゃダメだと思う」
このままわだかまりが残ったままでは一緒に生活していくのは難しい。出来ることなら、円満な夫婦関係を築きたいというのが千代の本音だ。
やはりもう一度改めて話をした方がいい。そう思った時にはもう、千代は立ち上がって部屋を出ていた。
部屋を出てすぐトミに聞いてみると、継人は丁度屋敷に戻って来ているとのことだった。この屋敷の離れには診療所があり、そこが継人の仕事場なのである。
決意が揺らいでしまわない内に話してしまおうと思い、千代はすぐに継人の自室へと向かう。戸の前に立った段階で少し躊躇ってしまったが、千代は意を決してノックする。
「……あれ?」
しかし、返事はなかった。それに対して拍子抜けしてしまうのと同時に、少し安心してしまう自分に千代は呆れる。
「あの、旦那様?」
試しに声をかけてみたが、返事はない。いないのか、それとも何かに集中していて気づいていないのか。ひとまず確かめるために、ちょっぴりの好奇心を伴って千代は戸を開ける。
結論から言うと、部屋の中に継人はいなかった。しかし千代は、部屋の中に広がる光景を見て目を丸くする。
「……何、これ……」
部屋の中はきちんと整頓されてはいたが、何やら部屋の四方に御札のようなものが貼ってある。壁には不気味な能面等がかけられており、これまた御札の貼り付けられた鞘に収められた日本刀等も置いてある。他にも、千代には何なのかよくわからないものが置いてあり、理解出来ずに千代は表情を引きつらせた。
「これ……本当にお医者様の部屋なのかしら……」
どちらかと言わずとも、千代からすればただの危ない人の部屋だ。慌てて千代は戸を閉じて背を向ける。これは見なかったことにしておいた方が良いだろう。
逃げるように部屋から離れていくと、玄関の方から話し声が聞こえてくることに気づく。立ち止まって耳をすますと、どうやら継人がどこかに電話しているのだということがわかった。
「……はい、そうです。はい……早く決めていただかなければならないのですが……」
行儀の悪いことだとわかっていながら、千代はそのまま耳をすましてしまう。
「……では、お宅のお嬢さんがどうなっても構わない、と」
「…………え?」
継人の物騒な言葉に、千代は思わず耳を疑う。
しかし言葉の意味を考えるような余裕は与えられず、継人は話し続けた。
「……本当にお嬢さんを大切に思うのなら……はい、ですからこれ以上は譲れないと……こちらも生活がありますので……」
この男は、本当に医者なのだろうか。
吹き出した疑問がもう止められない。放っておくと全身を満たしてしまいそうだったが、止める術を千代は持たない。それくらい、千代は継人のことを知らなかった。
「……千代様?」
「ぅひゃぁっ!?」
いつの間にか近寄ってきていたトミに背後から声をかけられ、千代は思わず悲鳴じみた声を上げてしまう。
「あ、ああ……申し訳ありません千代様! お、驚かせてしまったようで……」
「い、いいえ……気にしないでください……私が勝手に驚いただけなので……」
ひとまずそのまま気分を有耶無耶にして、トミの用事を聞くことにする。どうやら、もう昼食の用意が出来ているようだった。