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昼食は千代の予想に反して洋食で、少し大きめのオムレツが主食だった。昨晩は和食で、屋敷も和風だったのでてっきり和食ばかりが出るのだと思っていたが、どうやらそういうわけではないらしい。
「天海様は何でも、洋風を好んでいらしたそうじゃないですか。ですから、千代様も向こうでは洋食ばかり食べていたのではないかと思いまして……どうでしょう、お口に合いますか?」
嬉しそうに問うてくるトミに、千代は大きく頷いて見せる。
「私は洋食も和食も好きですよ。だけどオムレツは洋食の中では一番好きなんです!」
ふわりとした卵の食感がなんともたまらない。トミの想像とは違い、天海の家ではそんなに食べる機会はなかったのだ。千代の食事は、厨房で使用人達と一緒に賄を食べていることが多かったためである。
「ありがとうございます。とってもおいしいです!」
「気に入っていただけて何よりです。後で厨房のものにも伝えておきますよ、千代様が大変喜んでいらっしゃったと」
妙な会話を立ち聞きしてしまったせいで、あまり良い気分ではなかった千代にとって、こういう心遣いは本当に嬉しい。疑念は晴れないけれど、おいしいものは食べている間嫌なことを忘れさせてくれる。
昼食を堪能した後、千代は居間を出る。すると、数秒遅れて食べ終えた継人が追いかけるようにして居間を出てきた。
「あ……」
何か言おうとは思ったが、言葉がうまく出て来ない。継人は継人で、黙って千代を見つめるだけだ。
しばらく沈黙が流れたが、千代は耐え切れずに自分から口を開く。
「あの……何か……?」
「…………ああ」
重たい、鉛のような声だ。
継人は少しだけ間を置いた後、千代から目をそらしつつもう一度口を開く。
「……ここは、嫌か……?」
「えっ? いや、その……」
継人の思いがけない質問に、千代はうまく答えられない。
「……いつでも、出て良い……。君を、縛るつもりはない」
「え、そんな――――」
千代の返答を待たずに、継人は千代へ背を向ける。その背中を呼び止めようとしたが、新たな疑念が胸の内で絡まってしまって解けない。それでつっかえてしまって、声が出せなくなったかのようだった。
遠くなっていく継人の背中を見つめながら、千代はそんなことばかり考えた。
***
昼食の後、しばらく考え込んだ千代は、とにかく事実を確認しようと思い至る。しかし継人本人は診療所に行ったまま帰って来なかったし、トミも何だか忙しそうで声をかけそびれたまま部屋に戻ってきてしまった。トミの様子を見る限り、ここの人達はみんな継人のことを慕っているように見えた。そんな人達に「継人は本当に医者なのか? 危ない人なんじゃないか?」などとは聞きにくい。
それに――――
「……いつでも出て行って良いって……どういう意味だったの……?」
自室で座り込んだまま、千代はひとりごちる。継人の真意が、千代には全くわからなかった。
どうにも、龍之介やトミの話と、千代自身が感じた継人の印象が食い違っている。龍之介は継人を良い奴だと言っていたし、トミは継人が、千代が来るのを楽しみにしていたと言っていた。しかし千代から継人は、良い人かどうかもわからなかったし、本当に千代を歓迎してくれているのかもよくわからない。
悪い方向にばかり考えてしまうのは悪い癖だと自覚していたが、どうしても心細さがそうさせてしまう。トミとは仲良くやれそうだとは思ったが、まだ会って二日目であることに変わりはない。亡くなった義父や、天海の家で仲の良かった使用人達、そしてやめさせられてしまった女学校にいた友人達を思うとまた泣き出しそうになってしまう。
「なら……出て……行っちゃおうかな」
うつむいて小声で呟いて、誰にも聞こえないように畳に染み込ませる。こうしておけば、ただの独り言で現実味を持たなくなる。出て行ったところで行き場はない。これ以上、龍之介に迷惑をかけるわけにもいかなかった。
そんな風に考えていると、不意に戸が叩かれる。現れたのは、皿に乗ったおにぎりを持ったトミだ。
「千代様……その……旦那様と、何か……? あまり気分が優れないようですが……」
おにぎりは気を遣って持ってきてくれたのだろうか。時計を見るともう夕方前で、丁度小腹が空いてくる頃合いだ。しかし流石に三つは千代には多過ぎるように感じた。
「……ごめんなさい、気を遣わせてしまって」
「いえいえ。丁度手が空いたところでした。お昼のご飯が少し余っていたので、作ってみたんですよ」
皿を差し出され、千代はおにぎりを一つ受け取る。食べてみると、塩加減が丁度良くておいしい。
「……私、やっぱり旦那様に歓迎されていないんじゃないでしょうか……」
独り言のように不安を吐露すると、トミはまあ、と口元に手を添える。
「そんなハズはありませんよ」
「……でも旦那様、私にいつでも出て行って良い、って……」
思わず千代がそのことを口にすると、トミは目を丸くして驚いて見せる。そして少しだけ間をあけてから、納得したように息をついた。
「旦那様は……千代様を縛り付けたくないのでしょう……」
確かに継人はそうも言っていた。だけどどう答えて良いのかわからずに千代が黙っていると、トミはそのまま言葉を続ける。
「旦那様は、千代様のしたいようにして欲しいと思っていらっしゃるのではないでしょうか。何分口下手な方ですので、少々言い方が悪くなってしまっているようですが……」
「私の……したい、ように……?」
継人はもしかすると、千代がこの家を出たがっていると考えているのかも知れない。確かに初日は動揺してしまって態度が良くなかったように思う。それに千代の事情を知っているのなら、望んで来たわけじゃないことを継人は知っているハズだ。
千代は継人に、気を遣わせてしまっているのかも知れない。
「……私、旦那様とちゃんと話したいです。考えてみたら、私ここに来てからちゃんとお話出来ていない気がするので……」
千代がそう言うと、トミは咲くように笑った。
「でしたら、そのおにぎりを旦那様の元へ届けていただけませんか? お仕事そのものを手伝うことが出来なくても、そのくらいのことは許してくださるのではないでしょうか」
「……行ってみます! ありがとうございます、トミさん」
そう言われて、持ってきたおにぎりの数が多かった理由に千代は気づく。元々トミはこうするつもりでおにぎりを用意してくれたのだ。
トミの気遣いが嬉しくて、千代は笑みをこぼす。それを見たトミも、満足そうに微笑んで見せた。
***
早速千代は診療所の場所をトミから聞き、おにぎりをもって継人の診療所へ向かった。離れにあるとは聞いていたが、屋敷からの距離はそれ程遠くない。少し歩けばすぐに小さな建物に辿り着く。
扉の前で少し躊躇してしまったが、流石におにぎりを持ってきただけで怒られはしないだろう。それに、継人とちゃんと話をしなければいけない以上、どこかで一度必ず勇気を出さなければならないのだ。
診療所の作りは洋風で下駄箱がなく、千代は履物を脱がずに中へ入る。入ってすぐに狭い待合室があり、そのまま真っすぐ進むとすぐ左手に診察室と書かれたドアがあった。
「あの、旦那様?」
ドアをノックしてから声をかけたが、返事はない。不思議に思って何度かノックしても、継人からの返事はなかった。
入れ違ってしまったのか、と千代がドアへ背を向けると、ふいにドアの向こうからうめき声が聞こえてくる。不気味に思って一瞬怯えたが、今診療所には患者が一人泊まっていると継人が言っていたことを思い出す。
「だ、大丈夫ですか……?」
思わずドアの向こうへそう声をかけたが、聞こえてくるのはうめき声だけだ。少し逡巡したものの、千代は心配になってドアを開けて中へと入っていく。
中に入ってすぐに目についたのは継人がいつも使っているのであろうデスクだ。そしてその反対側はカーテンで仕切られており、その中からうめき声が聞こえてくるのだ。
「あの、大丈夫ですか? 何か出来ることありますか?」
千代の声に、カーテンの向こうのうめき声は更に強くなる。その声があまりにも苦しそうで、千代は胸を痛めてしまう。
この苦しそうな患者に、千代が中途半端に何かして良い方向へ向かうとはあまり思えない。とにかく何とかしてやりたい気持ちをどうにか抑え、ひとまず皿をデスクの上に置いて、すぐに継人へ報告しようと背を向けた――その時だった。
「えっ……?」
カーテンが勢い良く開かれ、中から一人の女性が千代の方へうつ伏せに倒れ込む。そして千代の足首を掴むと、女性はゆっくりと顔を上げる。
「……っ!?」
彼女の顔を見た瞬間、千代は声を上げそうになったのを何とかこらえた。いや、正確には恐怖で声も出なかった、と言った方が正しいのかも知れない。
彼女の顔は、醜く焼けただれていた。
最早元の顔がどういう顔だったのかもわからない。ぐちゃぐちゃに焼けただれた顔が、苦しそうに千代のことを見つめている。
飲み込んだ悲鳴が這い上がる。
全身を怖気が走り回り、抑え込むのに必死で身体を動かせない。
しかしどうにか飲み込んだ悲鳴は、結局数秒後に吐き出すことになる。
「いやあああああああああっ!」
彼女の顔の中から煙のように湧き出した黒い靄が、人の形を成す。そしてそれはそっと千代の頬に両手で触れた。
そしてその瞬間、耐え難い激痛が千代の顔中をのたうち回る。顔に超好熱の鉄板を押し付けられたかのような感覚に襲われながら、千代は悲鳴を上げてその場でもがいた。
苦痛に呻く千代の脳裏に、ぼんやりと覚えのない記憶が蘇る。
大柄な男性に痛めつけられ、やがて火の灯った行灯に顔を強引に突っ込まれていた。
「やめ、て……お父さん……」
千代の実の父も義父も、決してそんなことはしていない。けれども、千代の口から思わず出たのはそんな言葉だった。
千代ではない誰かの意識や記憶が、ずるりと千代の中に溶けていった。
***
入れ違いで診療所から屋敷へ戻った継人が、トミから話を聞いて慌てて診療所に戻る頃には既に遅かった。患者はベッドから抜け出して倒れており、千代は既にその場にはいない。
デスクの上に置かれたおにぎりをチラリと見てから、継人は倒れている患者を抱き起こす。
「……黒鵜……さん……」
患者の女性は、抱き起こすとすぐに目を覚ます。
「大丈夫ですか?」
「……ええ、むしろ楽になったくらいで……」
継人は彼女の頬へ恐る恐る触れて、一瞬だけ顔をしかめた。
「あ、あの……」
「恐らく問題はないでしょう……。もう少し休んでいてください」
継人はそう言って彼女をベッドで休むように促すと、すぐに背を向けて診療所を後にする。最初は早歩きだったが、診療所を数歩離れた途端継人は全速力で屋敷へ向かって駆け出した。