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Side翔太
俺が生まれたこの世界には、はっきりとした“序列”がある。
アルファ、ベータ、オメガ。
言葉にすればそれだけだ。
でも実際には、そのラベルひとつで人生が決まる。
自由の重さも、未来の形も、呼吸の仕方すらも。
俺は“ベータ”として生きている。
少なくとも、周囲にはそう見せている。
本当は違う。俺は、オメガだ。
わかってる。
“恥”だなんて思いたくはない。
だけど、この国ではオメガはまだまだ不自由で、選択肢が限られる。
将来を決める大事な時期に、性別のせいで道が閉ざされるなんて、そんなの納得できなかった。
俺は、ただの学生だ。
優等生で、奨学生で、特別扱いされるほどでもない“普通”のベータ。
そうやって、静かに、目立たずに生きていければいい。
……それが、俺の望んだ平穏だった。
抑制剤は毎朝欠かさない。
体調にも、感情にも、気を配って、誰にも異変を悟られないように。
「そういうもの」として生きていくことに、もう慣れたつもりだった。
でも。
時々思うんだ。
――このままで、いいのか?って。
誰にも見つからず、誰にも踏み込まれず。
俺の“本当”は、ずっと奥底で眠ったまま。
それで本当に、俺は生きてるって言えるんだろうか。
そんな疑問を口に出すほど、俺は弱くない。
だけど、心のどこかでずっと――
あの時の“声”だけが、消えないまま残ってる。
『大丈夫、俺が守るから』
もう何年も前の記憶。
顔は思い出せない。でも、あの声だけは、ずっと俺の檻の鍵みたいに残っている。
……くだらないよな。
そんな約束、とうに忘れられてる。
あの日助けてくれた“王子様”が、今この学校にいるなんて――思ってもいなかった。
そして、この再会が、俺の平穏を壊すなんて――
あのときの俺には、想像もできなかったんだ。
――――――――――
――話の流れってやつは、時々本気で悪趣味だと思う。
俺はただ、目立たずに過ごしたかっただけだ。
成績を保って、規則を守って、適度に波風立てずにいれば、それでいい。
“ベータ”として、静かに生きることが、俺の中での最善ルートだった。
それなのに。
「渡辺くん、生徒会の補佐、やってくれない?」
「前任が突然抜けちゃって、困ってるの。お願い、ね?」
断りきれない空気。
善意の押し付け。
俺がベータで、優等生だからって、便利に使うなっての。
……なのに、俺は、断れなかった。
気づけば、放課後の生徒会室で資料をまとめる毎日。
地味で面倒くさい作業だらけの裏方仕事。
誰も感謝なんてしないし、目立ちたくない俺にはむしろ好都合――
だったはずなのに。
「これ、確認お願い。来週の会議に出すやつ」
声をかけてきたのは、“会長”――宮舘・涼太。
この学校で知らない奴はいない。
成績優秀、品行方正、家柄も申し分ない、完璧なアルファ様。
……最悪だ。
見た目も中身も、まるで作られたように整っていて、近寄るだけで気後れする。
それだけじゃない。
アルファってだけで、俺は警戒する。無意識に、身体が硬くなる。
本能的に“敵”として認識してるのかもしれない。
「ありがとう。丁寧なまとめ方だね」
そう言って、微笑むその顔さえも、俺にはどこか――不気味に見えた。
あの余裕、あの隙のなさ。
まるで全部見透かされてるみたいで、ぞっとする。
俺は関わりたくないんだよ。
アルファとも、生徒会とも。
こんな場所にいれば、いずれバレる。
“俺がベータじゃない”ってことに。
ヒートは抑えてる。
薬も欠かさず飲んでる。
なのに、最近はタイミングがズレることもある。
鼓動が早くなる時がある。匂いが、薄くなる時がある。
……あいつにだけは、絶対、知られたくない。
だけど、視線を逸らそうとするたびに、なぜか宮舘は俺に声をかけてくる。
距離を詰めてくる。
俺は、逃げたかった。
でも、生徒会って檻の中に、一歩踏み込んでしまった俺は――
もう、簡単には抜け出せない場所にいたんだ。
――――――――
その日も、生徒会室は静かだった。
カーテン越しの夕陽が、机の上の書類を赤く染める。
他の役員たちは早々に帰り、今この部屋にいるのは、俺と――
「……宮舘会長、これ、次の予算案です。確認お願いします」
「うん。ありがとう。印刷の部数、これで問題なさそう?」
「はい、クラス委員の報告と数、揃ってます。三年だけ、念のため予備つけてます」
「さすが。気が利くね」
さらりと、そう言って微笑む。
それだけのことなのに、俺はどこか肩がこわばる。
この人の言葉って、やけに滑らかなんだよな。
無理がなくて、柔らかくて、まるで傷つける気なんか微塵もないような話し方。
けど――それが余計に怖い。
「こういう作業、嫌いじゃないの?」
「嫌いです。正直、面倒くさいですし」
「……はっきりしてるね、渡辺くんは」
「そういう性格なんで」
皮肉っぽく返してみせても、宮舘はまったく動じない。
むしろ、少し笑ってる。
何なんだよ、この余裕。何考えてるか全然読めない。
「でも、やってくれてるんだ」
「断れなかっただけです。空気ってやつに」
「……そういうの、読むの得意そうだもんね」
それ、褒めてるのか?
言外の意味を探ってしまう自分が面倒くさい。
「宮舘会長こそ、俺なんかに話しかけるの、時間の無駄じゃないですか?もっと他に、有能な人いっぱいいるでしょう」
俺は、無意識に牽制してたのかもしれない。
これ以上、距離を詰められたくなかった。
でも――
「無駄だなんて思ってないよ。俺は、話してみたいと思ったから話してるだけ」
さらっと返されたその一言が、やけに静かに胸の奥に落ちた。
「……はあ」
俺は視線を逸らしながら、手元のペンを握り直した。
話しかけないでくれよ。
そう思ってるはずなのに、心の奥で微かに響いてる。
――俺は、話してみたいと思ったから話してるだけ。
そのまっすぐな言葉が、どうしようもなく、俺の檻の内側をノックしてくるんだ。
カリカリとペンを走らせていた手が、ふと止まる。
……あれ?
視界の端が、少し滲んで見えた。
気のせいだろうか。
でも、呼吸が、浅くなっている気がする。
背中の奥がじわりと熱を持ち始めて、喉の奥に、うっすらとした渇きが広がっていく。
嫌な予感がした。
ヒートの前兆――。
いや、そんなはずはない。
ちゃんと薬は飲んでる。朝も、いつも通り。
周期もまだ数日早いはず。ズレたことなんて、これまでなかった。
「……くそ」
小さく、誰にも聞こえない声で毒づく。
ペンを持った手が、じんわりと汗ばんでいた。
頭が少し重い。
耳の奥で、自分の心音がじん、と反響してる。
「……渡辺くん?」
不意に、宮舘の声が落ちた。
顔を上げると、数歩先の席からこちらを見ている。
まっすぐな、鋭すぎない、けれど逃げ道のない視線。
「顔色、あまりよくない。大丈夫?」
「……ちょっと疲れてるだけです。寝不足なんで」
とっさに答えた声が、自分でもわかるほど乾いていた。
落ち着け。動揺するな。
ベータとして生きてる以上、こんな場所で崩れるわけにはいかない。
「無理しなくていいよ。今日はもう、上がってもいい」
「……まだ仕事、残ってますし」
「残りは引き継げる。大丈夫」
優しい声。
なのに、それがどうしようもなく怖かった。
この人は、もしかして、少し気づいているんじゃないか。
俺の“異常”を。俺が“普通のベータ”じゃないことを。
「……すみません。じゃあ、先に帰ります」
とにかく、この部屋から出なきゃ。
逃げるように立ち上がって、資料を整える手が震えそうになるのを、必死で抑えた。
背を向けた瞬間、背中にじんわりと感じる視線。
怖い。
ばれたら終わる。
この平穏が、壊れる。
……でも、どこかで、もう“気づかれてしまっている”気がしてならなかった。
下校時間を過ぎた校舎は、驚くほど静かだった。
階段を降りる足音が、やけに響く。
かすかに開いた窓から入り込む夕方の風が、体温と交わって気持ち悪いほど生ぬるい。
……まずい。
背中から首筋にかけて、じっとりと汗がにじんでいた。
薬が効いてない。そんな馬鹿な。
周期はズレたことがなかった。
いや、あっても数時間のズレでこんなふうに体が反応するはずが――
「はぁ……っ、ちょっと……待って……」
踊り場で足を止めて、壁に手をついた。
喉が熱い。
心臓の鼓動が早い。
腰の奥が疼いて、足元がふらつく。
これが、本格的なヒートの前兆だってことは、自分が一番わかってた。
けれど、信じたくなかった。
ここで起こるなんて、あり得ない。
「……くそ……っ」
情けない声が、思わず漏れた。
なんで、こんなタイミングで。
よりにもよって、あいつの前で気配を感じ始めるなんて。
いやだ。
誰にも知られたくない。
俺が“ベータじゃない”ってことが、バレるわけにはいかない。
一歩、また一歩と足を動かすたびに、身体が重くなる。
足元が霞んで、視界がゆらゆらと揺れる。
「あと少し、外に出れば……」
そう思って、昇降口のドアに手をかけようとしたその瞬間。
「……っ!」
腹の奥に、鋭い熱が走った。
腰が抜けそうになるのを必死に堪えて、ロッカーの陰に身を滑らせる。
息が荒い。喉が焼ける。
身体が勝手にアルファを求め始める、この感覚――
これがヒートじゃなければ、何だっていうんだよ。
誰も来ないでくれ。
お願いだから、誰にも見つからないでくれ。
「……っ……!」
歯を食いしばりながら、俺は一人、静まり返った昇降口で膝を抱えた。
無意識に制服の襟を引き寄せ、匂いを閉じ込める。
誰にも気づかれないように。
俺の中にある、この“声”の存在を――誰にも知られないように。
……でも。
遠くで、誰かの足音が聞こえた気がした。
──誰か、いる。
とっさに立ち上がることもできず、俺はしゃがんだままロッカーの陰に身体を押し込んだ。
荒い息を必死に噛み殺し、制服の袖で口元を覆う。
音を立てるな。気配を消せ。
革靴の底が、昇降口のタイルを叩く乾いた音。
それが一歩一歩、確実に俺の方へ向かってくる気がして、心臓がひどく暴れた。
見つかるな。
絶対に、見つかるな。
「……あれ、誰かいる?」
女子の声だった。
聞き覚えのあるクラスメイト。どうやら忘れ物を取りに来たらしい。
心臓が喉元までせり上がってきて、吐きそうになる。
頼む、帰ってくれ。
何も気づかず、通り過ぎてくれ。
「……気のせいか。まいっか、早く帰ろ」
足音が遠ざかる。
ドアの開閉音。
静寂。
ふう、と肺の奥から細く息が抜けていった。
見つからなかった。まだ、バレてない。
でも、その安堵も束の間だった。
──別の足音が、響いた。
今度は、重く、ゆっくりと、確実な足取り。
俺の背筋が凍る。
この歩き方を、俺は知っている。
「……渡辺くん」
低く、落ち着いた声が、すぐそこに届いた。
宮舘涼太。
なんで――
なんで、あいつがここに。
「……大丈夫?」
声は穏やかで、抑揚は少ない。
けれど、その一歩ごとの動きが、明らかに“俺を探している”と告げていた。
まさか、匂いで気づいたのか?
そんなはずはない。薬を飲んでいたんだ。隠せていたはずなんだ。
「……ここにいるんだろ?」
息が止まった。
もう、バレてる――?
咄嗟に息を潜め、目を閉じる。
ドクン、ドクン、と脈打つ音が耳の奥で炸裂している。
足音が、ロッカーのすぐ横で止まった。
「……開けない。君が出てくるまで、ここで待つからね」
やめろ。来るな。
俺は、こんな姿、見せたくないんだ。
でも、ドアの隙間から漏れる視線の気配が、俺の存在を確かに捉えていた。
“見つかった”。
そう、理解した瞬間、全身が震え出した。
宮舘の声が、すぐそこから聞こえる。
低く、やわらかい。けれど、逃げ場がない。
俺は、必死に呼吸を整えながら、ロッカーの陰で膝を抱えていた。
汗で濡れた制服が肌に張りついて、気持ち悪い。
それ以上に、腹の奥からせり上がってくる熱が――怖い。
「……っ……来るな……」
喉から搾り出した声は、ひどく情けなく震えていた。
恥ずかしい。情けない。
けど、それ以上に、“これ以上見られたくない”って感情が、頭を支配していた。
「頼むから……来ないで……っ」
声に出すたびに、息が詰まって、視界がにじむ。
鼻腔の奥を、甘い匂いがくすぐる。
それが自分のものだってことに気づいて、ぞっとした。
──俺は、もう隠せてない。
薬も、抑えも、すべて効いていない。
“ベータ”として守ってきたはずの仮面が、いとも簡単に崩れていく。
何より、こんなふうに誰かを欲しがるように身体が疼いてることが、何より怖い。
「熱が……止まんねぇ……っ」
震える指先を、制服の布地に押し込んだ。
かすかに湿った香りが立ち昇って、自分の吐息に混じる。
いやだ。
こんな姿、誰にも見られたくない。
ましてや――あいつなんかに、知られたくない。
「渡辺くん」
静かな声。
そしてすぐ後ろ、影が差す。
振り返る余裕なんて、もうなかった。
自分の体を抱きしめるように丸めて、必死に声を殺す。
「大丈夫。……俺は、何もしない。だから、安心して」
そう言われても、安心なんてできるわけがない。
身体の奥で渦巻く熱と、本能と、理性の境界線が曖昧になっていく。
「……おまえに……嗅がれたくなかった……」
たった一言が、喉からこぼれた。
それがどれだけ重い言葉だったか、自分が一番よく知っている。
「俺が、ベータじゃないって……知られたくなかったんだよ……っ」
声が途切れる。
その瞬間、涙がこぼれ落ちた。
止まらない。
熱と、屈辱と、恐怖とが入り混じって、もう自分が自分じゃなくなる。
……限界だった。
指先から、肩から、力が抜けていく。
意識の端が、じわりと薄れていく中で――
誰かの手が、そっと俺の背中に触れた。
それが、優しさなのか、それとも支配の始まりなのか――
俺には、もう判断する力なんて残ってなかった。
―――――――――
……冷たい、空気。
目が覚めたわけじゃない。
でも、どこか現実じゃない感覚の中で、俺は何か柔らかいものに包まれてる気がした。
背中が温かくて、胸の奥がずっとジリジリしてた熱が、少しだけ引いてた。
けど、だるい。重い。
身体が、自分のものじゃないみたいだった。
「……っ」
かすかに指が動いた。
何か、掴んでた。布の感触。
それが誰のものか理解した瞬間、背筋が凍った。
──宮舘。
思い出す。
昇降口のロッカーの陰で、限界まで耐えて、情けなく崩れ落ちたこと。
足音。声。
そして、あいつの腕の中に抱き上げられた感覚。
「……うそ、だろ……」
声にならない声が漏れる。
ここは、どこだ。
天井は見慣れた教室のそれじゃない。
窓のカーテンが引かれて、外の光はほとんど届いていない。
でも、遠くに夕方の気配があった。
身体を起こそうとするけど、力が入らない。
腹の奥がまだ少し熱くて、ほんの少し動いただけで息が上がる。
「動かない方がいいよ」
その声に、全身がびくっと跳ねた。
いた。まだ、ここにいた。
視線を横に向けると、すぐそばの椅子に座って、宮舘が俺を見ていた。
落ち着いた目。
何も詮索しない、けど全部わかってるような目。
「なんで……」
なんで、そこにいる。
なんで、助けた。
なんで、俺の“嘘”を壊すような真似をする。
「……誰にも言ってない。言わないよ」
先回りするように、宮舘が言った。
静かに。でも、揺るぎない口調で。
「君が、ベータじゃないことも。今、何が起きてるかも。俺は、誰にも言わない」
頭ではわかってた。
宮舘ってのは、言葉通りのことしか言わない男だってこと。
でも――
「見た、じゃん……俺が……あんな……」
途中で言葉が詰まる。
喉がつまって、言葉にならない。
あのときの自分が、情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて。
「大丈夫」
そう言って、宮舘はそっとジャケットの裾を俺の肩にかけ直した。
「誰も君を笑わない。俺は、君を守る」
その言葉が、胸の奥にゆっくりと染み込んできた。
信じたくないのに。
信じたら、終わりな気がしてたのに。
それでも、俺は――あいつの声に、どこか救われてしまっていた。
―――――――――――
日常ってやつは、容赦がない。
どれだけ壊れかけてても、何食わぬ顔で「おはよう」って言わなきゃいけないし、
昨日どんな目に遭っても、チャイムは勝手に鳴りやがる。
俺は――今日も、何事もなかったように教室のドアを開けた。
「おはよ、なべしょー!」
「うるせえ……朝からテンション高すぎ」
いつもの悪態。
いつもの席。
いつもの景色。
俺はちゃんと、元通りに戻ってる。
──戻ってる、はずなのに。
黒板の文字が滲んで見える。
クラスメイトの声がやけに遠く感じる。
自分の中で“なにか”がズレたのを、ちゃんとわかってた。
あの日。
あの夜。
自分がベータじゃないって事実を、身体の奥から突きつけられて。
その姿を――よりによって、あいつに見られて。
(……宮舘)
顔を見ないようにしてる。
生徒会室にも極力行かない。
話しかけられても、必要最低限の言葉しか返さない。
けど。
どこかで、ずっと意識してる。
不意に廊下ですれ違うと、胸がざわつく。
生徒会で名前を呼ばれると、指先が震える。
あの夜の“記憶”が、勝手に思い出されて、身体のどこかが疼く。
──最低だろ。
ほんとに、最低だ。
なのに。
「渡辺くん、今日の書類……」
その声に、ビクリと肩が跳ねた。
やめろ。近づくな。
あの声。あの呼び方。
冷静で、落ち着いてて、でも奥に熱を含んだあの声が――
「……俺がやっときます。会長には任せられないし」
無理やり言葉を挟んで、その場を逃げた。
顔も見ずに。書類も奪うようにして。
「……はあ」
生徒会室を出た廊下で、息をつく。
喉がひりつく。
胸の奥が、妙に熱い。
なんで、こんなに反応してんだよ。
俺は“本能”になんて、負ける気なかったはずなのに。
けど──
あの夜、一度崩れた“ベータの仮面”は、完全には戻ってこない。
今の俺は、まるで檻の中に入れられた獣みたいだった。
知られたくないのに、気づかれたい。
避けたいのに、見てほしい。
拒絶してるのに、近づきたい。
矛盾の塊みたいな感情が、俺の中で渦巻いてる。
それでも、俺は日常の中に立っていた。
平気なふりをして、いつも通りに呼吸しながら。
……いつまで持つかな、このままで。
そんな不安を胸に隠して、また次のチャイムが鳴った。
教室の空気が、やけに重たく感じた。
誰かが窓を閉めたせいか? いや、それだけじゃない。
「……くそ……」
今日一日、ずっとおかしかった。
授業にも集中できない。視界はチカチカするし、背中に汗が滲む。
喉が乾く。
けど、水を飲んでも潤わない。
何かが、違う。根本からズレてる感覚。
(……まさか、また……?)
頭に浮かんだ最悪の予感に、無意識に唇を噛んだ。
そんなはず、ない。
この前の“あれ”から、まだ日も浅い。
あれはただの体調不良で――
いや、違う。あの夜、確かに“本能”は顔を出していた。
ガタ、と机の脚が鳴った。
「なべしょ、顔色悪ぃぞ? マジで保健室行ったほうが……」
「大丈夫。ほっとけよ」
思わずきつく返してしまって、相手が黙り込む。
わかってる。八つ当たりだ。
でも、今は誰の声もまともに聞ける状態じゃなかった。
熱があるような、ないような。
でも、身体の芯が妙に火照ってる。
制服の襟がやけに鬱陶しくて、何度も首をかいてしまう。
(落ち着け……大丈夫、まだ、ギリギリ……)
ギリギリ。
そんな綱渡りの上に自分が立ってること自体が、もうおかしいのに。
それでも、俺は平静を装って下校の準備を始めた。
このまま真っすぐ帰って、シャワー浴びて、薬を飲んで、何事もなかったように眠って――
そうやってまた、明日を迎えればいい。
そう思っていたのに。
「渡辺くん、これ、今日中に確認しておいてくれる?」
その声に、動きが止まった。
……宮舘。
息を呑む。
それだけで、体温が上がる気がした。
「……あとで、いいっすか。今ちょっと……急いでるんで」
なんとか言葉を繋ぐけど、自分でも声が掠れてるのがわかった。
宮舘は一瞬だけ視線を細めて、俺を見つめた。
やばい。
あの目は、気づいてる。
「わかった。じゃあ、無理はしないように」
その言葉に、なんでか胸が痛くなった。
優しすぎる。静かすぎる。
だから余計に、自分の乱れた心が浮き彫りになる。
逃げるように生徒会室を出た。
廊下の空気が冷たくて、少しだけまともに息ができた気がした。
──だけど、宮舘の声が、温度が、香りが。
皮膚の裏にまだ残ってた。
やばい。本当に、やばい。
足早に昇降口へ向かいながら、俺は確信した。
これは前兆じゃない。
“本番”が、もうすぐそこまで来てる。
そしてそれを──俺の身体は、あいつで迎えようとしてる。
理性が、警告してる。
けど、本能はすでに、それを甘く嘲笑っていた。
足が、ふらつく。
見慣れた下校の道が、ぐにゃりと歪んで見えた。
夕方の空はオレンジ色に染まって、風が冷たいはずなのに、俺の身体は熱に包まれていた。
制服の下、シャツが肌に貼りついて気持ち悪い。
呼吸をするたびに、胸が苦しくて、喉が焼ける。
なにより──下腹部が、疼いて仕方ない。
(……嘘だろ、今じゃない……)
分かってた。
今日が限界だってこと。
教室で、廊下で、宮舘と目が合っただけで、心臓が跳ねていた。
でも、こんな……何の準備もしてない道端で、いきなりくるなんて。
「っ、くそ……っ」
ガードレールに手をついた瞬間、膝が砕けた。
頭がガンガンする。
熱がどんどん上がって、指先が痺れる。
視界の端がぼやけていく。
吐息が熱くて、もう何も考えられなかった。
「……っあ……」
声にならない声が漏れる。
制服の襟元を掻きむしって、背中を丸めた。
足元がふらついて、ついに地面に手をついた。
アスファルトが冷たいのに、それすら心地よく感じるくらい、俺の身体は異常だった。
「……やべぇ、やべぇよ……っ」
本能が暴れてる。
何かを求めて叫んでる。
けど、俺は──
「渡辺」
その声が聞こえた瞬間、全身に戦慄が走った。
来るな。
来ないでくれ。
今の俺を、見ないでくれ。
「触んなっ……来るなっ……!」
俺の声は、もはや懇願だった。
けど、足音は止まらない。
ゆっくりと、でも確実に近づいてくる。
「大丈夫、もう俺しかいない」
その一言で、何かが決壊した。
視界が滲んで、目の奥が熱くなった。
止められない。自分じゃ、もう無理だ。
抑え込んでた感情も、本能も、全部が――
「……っあ、あぁ……ッ!」
耐えきれず、俺は地面に崩れ落ちた。
声が漏れた。
自分でも信じられないほど甘く、情けない声が。
次の瞬間、熱を含んだ腕が俺の身体を包んだ。
宮舘の匂いが、全身を貫いた。
「もう、我慢しなくていい」
その囁きが、最後の引き金になった。
俺は、理性を手放した。
目を閉じて、彼の胸に縋るように倒れ込む。
その温度が、いまはただ、心地よかった。
俺は――気づいたら、宮舘の腕の中にいた。
どこをどう運ばれたのか分からない。
熱と匂いと、彼の腕の感触しか記憶にない。
気づけば、扉の閉まった静かな部屋にいた。
薄暗くて、静かで、人気のない場所。
誰にも見られない、二人だけの檻の中。
(ここ、前に使われてた物置部屋か……)
床に座らせられた瞬間、また波のような熱が押し寄せた。
喉が鳴る。
震える指先で、宮舘の服の裾を握ってしまう。
「……っ、ごめ、俺……」
「謝ることじゃない。君は悪くない」
低くて落ち着いた声。
その声だけで、また身体が反応する。
もう何も考えられない。
いや、考えたくない。
「俺……止めらんない……」
情けない声が口からこぼれた。
それでも、宮舘は顔色一つ変えず、優しく微笑んだ。
「じゃあ、俺が代わりに止めてやるよ。限界になる前に」
そう言って、ゆっくりと俺の頬に手を添える。
指先が熱い。
でも、それよりも心が先にとろけそうだった。
「……ふざけんな、止めんのは俺の方だろ……っ」
言葉とは裏腹に、俺はあいつの手を拒めなかった。
その指が髪に触れて、頬を撫でて、首筋に触れるたび――
理性が一枚ずつ剥がれていくみたいだった。
「翔太」
名前を呼ばれた瞬間、胸が跳ねた。
もうダメだと思った。
俺の中で“俺”が保てるのは、たぶんここまでだ。
静かな部屋の中、彼の体温と呼吸だけが、妙に鮮明に聞こえる。
制服のボタンを外される音が、鼓膜を震わせた。
首筋に唇が触れる気配に、全身がびくりと震える。
「……ん、ぁ……っ」
抑えきれず漏れた声を、自分の手で押し殺す。
けど、もう止まらなかった。
熱と欲求が交差する中で、ただ一つの安息がそこにあった。
宮舘の手が、背を撫で、腰を引き寄せ、俺を抱き締める。
「苦しいなら、言ってくれ。やめることもできる」
その囁きが優しすぎて、余計に涙が出そうだった。
俺は首を振るしかできなかった。
やめてほしくない。
今だけは、この熱を――
この渇きを、癒してほしい。
「……会長、お願い……」
そう呟いた瞬間、あいつの手が俺の背に回り、そっと俺を寝かせる。
制服の布が軋む音、肌に触れる掌、火照る身体が擦れ合う感覚。
部屋の隅で落ちたネクタイが、静かに揺れていた。
あとは、もう――何も、抗えなかった。
「ん……ぁ……っ、やば、熱……っ」
喉の奥から漏れる声が、自分のものじゃないみたいだった。
額から、首筋から、汗がつたう。
宮舘の手が、それをすくうように撫でるたび、身体の芯まで溶かされる。
「翔太……苦しい?」
低くて、震えない声。
けど、その指先は明らかに、俺の震えを確かめているようだった。
「っ、やばい……んの、っ……触られんのに、慣れたくないのに……っ」
「慣れなくていい。今だけでいい」
宮舘の言葉は、どうしようもないくらい甘かった。
まるで最初から、こうなることが決まってたみたいに。
けど、俺の中には、まだ少しだけ「拒絶」が残っていた。
それでも、制服越しに触れる掌が、俺の背に這うたびに――
心臓の音が、うるさくて、うるさくて、
何かを断ち切るように息を吐いた。
「……脱がすなよ……制服、俺、脱がれんの、嫌い……っ」
「わかってる。無理はさせない」
それでも、指は器用に、俺の襟を緩めていく。
シャツの第一ボタンが外れただけで、肌に冷気が触れてぞくりとした。
でもそれ以上に、宮舘の息が近づいて――
「っ、ふぁ……っ!」
首筋に触れた唇に、跳ねた。
なのに、逃げられなかった。
身体が、勝手に宮舘の方へ縋る。
目を閉じれば、彼の匂いと熱と、優しすぎる手が、すぐそこにある。
「……ここ、弱いんだな」
「言うなっ……バカ……っ」
耳元に囁かれた声が、下腹に火をつけたみたいに痺れる。
腰が勝手に浮いて、制服の布越しにあいつの身体が当たって、
ぞっとするほど鮮明に、そこだけが“合って”いた。
「……もう、無理……っ、俺……っ」
自分から口にしてしまったことに、胸がきしんだ。
だけどもう、嘘をつける余裕なんてなかった。
「じゃあ、預けて。最後まで俺に」
その言葉と同時に、宮舘はそっと俺の手を取った。
強く握らず、優しく包むみたいに。
熱と鼓動が、指先から繋がっていくのがわかる。
「……絶対、忘れんなよ。俺、ベータだからな……っ」
「うん。お前は渡辺・翔太、それだけだ」
抱き締められた。
何もかもがほどけて、気づけば俺は、彼の胸の中に沈んでいった。
指が、唇が、肌が、交わる寸前――
部屋の中には、呼吸と布の擦れる音だけが静かに響いていた。
やがて、熱に溶かされるように、世界が緩やかに色を失っていった。
続きはnoteで作者名『木結』(雪だるまのアイコン)で検索して下さい。