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映画祭のメインイベントである授賞式を盛り上げる為の前夜祭で起きたノミネート女優の狙撃事件はテレビでの中継をしていたこともあり、その夜から各テレビ局で大々的に取り上げられていた。
彼女が救急搬送された病院の前は駆けつけたカメラマンやリポーターらが警察の規制のぎりぎりの場所で取材を行っていて、本来ならば静かなはずの病院の周辺が騒然としていることから、病院周辺に暮らしている人達も何事かと顔を出してはテレビで流れている場面と同じ場面を目の当たりにし、被害者の彼女が近所の病院に搬送された事実を知って家族や友人達と声を潜めつつも盛り上がっていた。
外部の喧噪はさすがに病院内にまでは響いてこないが、手術室の周辺では刑事や彼女の仕事仲間や駆けつけたマネージャーなどが声を潜めて現状や今後の事について話し合う声が信じたくはない現実を見せつけていた。
それを少し離れた場所から見守っていたノアは、マネージャーに呼ばれて今は席を外している父が亡命してきた自分たちを厄介者扱いし、被害者であるはずの母を犯罪者扱いしたと滅多にない強い口調で刑事を詰っていた言葉を脳内で反芻するが、初めて知った両親の過去の断片と父の様子にただ驚いてしまう。
両親ともに旧東ドイツの出身で西ドイツに旧知の人がいた訳でもないのに学生だった二人が東から西へと奇跡的に亡命を果たした後、父はフォトグラファーの仕事を求め、母は女優としてのステップアップを図るためにウィーンへと居を移したこと、ウィーンで血の滲む様な努力を重ねて今の地位を得てきたのかは二人が酒を飲んでほろ酔いになっている時に聞かされていたためにノアもその場面を想像できるが、その二人が過去に警察の世話になっていた光景は想像できなかった。
今まで多少過保護な面もあるがそれでも最高の両親だと思いまた実際そうだった二人が一体何をしたのか、誰に何をされたのかと考えると、意識することなく見てきた両親が不意に見ず知らずの男女に思えて眩暈を覚えてしまう。
政治家や実業家――両親が亡命した当時の東ドイツにいたかどうかは不明だが――が、己の人脈を利用して亡命することはもしかすると比較的簡単だったかもしれないし、親戚が西ドイツにいる場合や、年金生活に入った人達は厄介払いの意味も込めて西ドイツに移住しやすかったと聞いたこともあったが、だがそれもノアにとっては己が生まれる前の話であり、東ドイツでの話題を口にするなと先日も母に忠告されたように、父に対して話を聞かせてくれと切り出すこともできないことだった。
だから己の両親の事なのに何も知らないと、鈍器で頭を殴られた時の様な衝撃にノアがロイヤルブルーの双眸を見開いてしまう。
本当に己は両親のことについて何も知らないのではないか。
クリスマス休暇や誕生日祝いに贈られてくるプレゼントやメッセージカードは全て両親や両親の仕事仲間のものであり、本来ならばいるであろう祖父母からのものは一度たりとももらったことはなかった。
ヴィルヘルム・クルーガーとハイデマリー・クルーガーの係累は本当に自分一人だけなのだろうか。
今まで考えることの無かった己の親族について思いを馳せたノアは先ほどよりも強い衝撃を受けた様に肩を揺らし、咄嗟にソファの背もたれを握りしめてしまう。
座り心地の悪いソファであろうが座っていて良かったと胸を撫で下ろし、背もたれに寄りかかって高い天井に向けて溜息を吐いたノアは、それが再度顔に落ちる寸前に名を呼ばれてそちらへと顔を向ける。
「ノア、大変だったな」
「……アルノー?」
「遅くなって悪かった」
会場入りしたのが遅れていたが、やっとここに運ばれたことを教えてもらって駆け付けたとノアの肩に手を載せて隣に腰を下ろしたのは、今回母がノミネートされた映画のスタッフでもあり、長年一緒に仕事をしてきていることから家族ぐるみの付き合いもある男だった。
彼の言葉から己が置かれている状況を冷静に見ることが出来たノアは、さっきは足下が覚束無くなる感覚を覚えた身体が小刻みに震えだしたことに己でも驚き、震えが止まらないと泣き笑いの顔でアルノーと呼んだ男の顔を見つめる。
「……アルノー、マリーは……」
大丈夫だよなという漸く出すことの出来た不安と希望の入り混じった声にアルノーが強く頷き、もちろん大丈夫に決まっている、手術も無事に終わって出てくると慰めよりも強い感情でノアの肩を撫でて安心させるようにその肩を抱くと、誰かにそういって欲しかったのかノアのロイヤルブルーの双眸が風に揺れる水面のように揺らぎ出す。
「……しっかりしろ、ノア。マリーは必ずきみとウィルの元に帰ってくる」
新進気鋭のフォトグラファーとして、また負傷した女優の息子として病院内外に好奇に満ちた目がお前に注がれているのだから涙を見せるんじゃないと、その涙は両親と三人の時に見せなさいと諭され、天井を再び振り仰いだノアが腕で目元を拭った後、もう大丈夫だと知らせるように小さく頷く。
「……早く手術終わらないかな」
「そうだな、まだ掛かりそうだな」
旧知のアルノーが隣にいてくれる安堵感にノアの顔に疲労感が浮かび目頭を指で揉み解していた時、長年母と一緒に仕事をしているアルノーならば先程の疑問の解答を持っていないかと閃き、聞きたいことがあると己と似たり寄ったりの疲労感を浮かべる顔を見る。
「どうした?」
「……ウィルとマリーの家族の話って聞いたことあるか?」
「家族ってお前だろう、ノア」
「いや、そうじゃない。両親、つまり、俺の祖父母についてだ」
祖父母だけではなくいるかもしれないおじやおば、そしてその子供たちについて何か知らないかと問いかけるノアの前、アルノーの顔に疑問が浮かび上がるが、そう言えば家族の写真など見せてもらったことがないと先程のノアと同じ様な表情を浮かべて逆にお前は聞いたことがないのかと問い返してくる。
「……聞いたことも写真を見たこともない。今まで疑問にも思わなかった」
「そうか……二人とも亡命してきたからな」
亡命する時に荷物など何も持ってこなかったのだろうと二人が歩んできた道が遥か遠くのものである様な目でアルノーが呟き、ノアもため息をひとつ落とす。
知っていると思っていた人のことを実は何も知らなかったかもしれない、その事実に二人が思わず口を閉ざしてしまった時、先程父に詰られていた強面の刑事がその部下と一緒に二人の前にやってくる。
「……署の方で確保した犯人の取調べを始めている様です」
「そうですか……」
「ええ。名前はベンヤミン・シュペーア。お父さんと同級生でベルリン在住だそうです」
強面の刑事ではなく柔和な雰囲気の刑事が手帳を見ながら教えてくれるが、ベルリン在住の父と同級生の男とノアが何気無く呟き、そんな男がベルリンからわざわざこの街にやってきて母を狙撃したのかとも呟くと、その刑事の目がきらりと光る。
「その辺りの事情を今聞き出しているでしょう」
「……亡命する前に何かあったのかな」
刑事の呟きにノアが自然と呟いてしまうが、強面の刑事の顔に信じられない程優しい色が浮かび、思わずそのギャップに彼の目が見開かれる。
「さっきお父さんが亡命してきたと言ってましたね」
旧東ドイツでの暮らしぶりについて自分は当時のニュースや後に自由を得た人々が受けたインタビューなどを通してしか知らないが、亡命してきた人達の暮らしについては多少なりとも知っている、口に出さないがかなり苦労をしてきたのではないかと顔に浮かんだ優しさが苦労をしてきた両親へのいたわりだと気付いたノアが呆然とその顔を見上げると、己の感情に気付かれた気恥ずかしさに強面が僅かに赤面する。
「……クランプスが赤くなっても気持ち悪いだけだから止めろってリオンなら言いそうですね」
己の隣で顔を赤くする上司など滅多に見ることが出来ない為か柔和な顔の刑事が声に出して笑った事にアルノーとノアが鳩が豆鉄砲を食らったような顔で二人を交互に見るが、聞こえてきた名前にノアが反応し、その彼についてだがと切り出すと刑事が一瞬で表情を切り替えてしまう。
「その、リオンという彼の事だが……」
「彼がどうか?」
「いや、実は先日も初めて会った人に彼と間違われたんだ」
柔和な刑事が元同僚だと紹介したリオンの話題を口にする時、その顔に浮かぶのが懐かしさとそれ以上のものに感じ、ノアが余程親しい人物だったのだろうと思いつつ、母の身体を挟んで向かい合った時に確かに間違えられても仕方が無いほど似ていると思ったこと、若い頃の父に似ていると父も言っていたが、父と彼の間に血縁関係があるのかと思えるほど似ていたので気になったから彼の事を教えて欲しいと肩を竦めると、刑事二人が顔を見合わせるものの二人の間に漂ったのは話すことへの躊躇いだった。
「もし、プライバシーに係わることなら無理には……」
「ああ、いえ、そうではないのですが……彼はリオン・H・ケーニヒと言い、あなたより10歳ほど年上になります」
「ケーニヒ? またご大層な名前だな。どこかの貴族の係累か?」
ノア自身に出身や家柄で人を判断し差別するつもりなどは無かったが、世界各国を仕事で飛び回るようになり否が応でも目の当たりにするそれらに多少毒されていたからか、または事件のショックからか、己が知りたいと思った相手の名前に思わず皮肉な笑みを浮かべると刑事の顔が困惑に歪む。
「……あなたの言うように本当に貴族の係累だったとしても不思議は無いですね」
「どういうことだ?」
「彼は、コーヒー豆などを入れて運ぶ麻袋にへその緒がついたまま入れられて、クリスマスイブの夜に教会の礼拝堂に捨てられていたそうです」
「!?」
穏やかな表情から聞かされる壮絶な過去にノアが思わず絶句し隣のアルノーも聞いてはいけないのではないかと言いたげな顔になるが、これは本人が良く話している事なので大丈夫だと思いますと苦笑しつつ続けられる言葉を遮ることも出来ずにノアがゴクリと息を飲む。
「そのまま教会の児童福祉施設で育ちました。彼の名前はその教会のシスターらによって付けられたそうです」
なので出生時に彼を産んだ親の名前も正確な出生日時も分からないと苦笑されて刑事が少し離れた場所で仲間たちと今後の事について話し合っているらしい父の背中へ視線を流したことに気付き、己も同じようのその背中を見る。
「あなたのお父さんが生まれたばかりの子どもを捨てた経験があるのならばともかく、血縁関係についてはなんとも言えないですね」
そう肩を竦めた刑事が、ノアが偽悪的な表情で呟いた言葉に対し冷酷に聞こえる事実を淡々と伝える。
「もしも本当に知りたいとの事であればDNA鑑定でもすればどうですか?」
DNAという親子かどうかの判断基準になり得る検査を行いその結果が出れば分かることだが、彼とあなたが似ているという事象はあくまでも他人の空似である可能性が高いともう一度肩を竦められ、確かにそうかも知れないなと返すだけが精一杯だった。
意外なところからもたらされた事実に助けを求めるように隣のアルノーを見たノアだったが、そこに同じような困惑を見いだし、彼も本当に両親の係累について知らなかったことを改めて思い知った彼は、一つ溜息を吐いて非礼な態度を詫びると意外そうな顔で二人に見下ろされて居心地の悪さに眉を寄せる。
「何か変なことを言ったか?」
「いえ……素直なリオンを見ているようでなんとも言えない気持ちになっただけです」
リオンが素直に詫びたことなど今まで一度も無かったと言外に伝える二人にノアが目を瞬かせるが、さっきは他人の空似と言ったが本当に血縁関係があるのではと思うぐらいあなたと似ていると返されて肩を竦め、人生で初めて訪れた街で己に良く似た人と遭遇する確率はどれぐらいだろうと笑い、二人の刑事の顔にも微苦笑を浮かべさせてしまう。
「……マリーの手術が終わるまでまだかかるだろうな」
その間当然ながらここにいるつもりだと腕を組んで天井を見上げると、捜査の関係上この街を離れないで頂きたい、もし離れるのであれば警察に一報して欲しいと威圧的でも事務的でもない声で頼まれ、携帯の番号を名刺がわりにしているポストカードに走り書きをしたノアは、それを受け取った農家のハーロルトと同じ様に矯めつ眇めつする刑事に肩を竦め、自分がカナリア諸島に行ったときに写したものだ、名刺がわりだと言い慣れた言葉を伝える。
「フォトグラファーでしたね」
「ああ。……ホテルに帰っても良いのか?」
「それは問題ありません」
ただマスコミが追いかけてくる可能性はありますがと病院の敷地外の騒動を感じ取っているらしい刑事の言葉に頭を抱えたくなったノアだが、もし耐えられないほどになった時はこちらの教会を訪れて下さいと声を潜めて教えられ、どこの教会だと顔を上げると刑事が手帳に住所と名前を書き記しその下に己のフルネームを書き加えてそのページを破る。
「……聖母教会?」
「Ja.街の中心にある教会と同じ名前ですが、こちらの教会は困っている人に対して閉ざす門を持っていない教会です」
自分たち刑事とも浅からぬ関係のある教会で、事件に関係した人達を保護する場合に協力してもらっている教会でもある。なのでその教会に出向きこのメモを見せれば絶対にあなたにとって悪い様にはしないと力強い声で刑事に断言されたノアは、隣のアルノーの顔を見て信じてもいい話だと判断をすると、明日以降もしもの時には教会を頼らせてもらうと頷き、立ち上がって二人の刑事に向けて若干の照れが入った様な笑みを浮かべる。
「色々失礼なことを言ったが……母を撃った犯人の取調べ、よろしくお願いします」
どうぞ父と己の為だけではなく彼女が全身全霊をかけて取り組んできた映画界の為にも今回の凶行がなぜ起こってしまったのか、犯人の狙いは何だったのかを解明してくれとようやく穏やかな顔で手を差し出したノアに二人の刑事が目を瞬かせるが、もちろんです、あなたの期待に応えられるよう全力を尽くしますと返しノアの手をしっかりと握る。
「本当に失礼だと思うけど、まだ名前を聞いてなかった」
「ああ、私はヒンケル。マルティン・ヒンケル。こちらは私の部下のコニー。コルネリウス・カークランドです」
クランプスと称された厳つい顔に先ほどの様に穏やかな笑みを浮かべた小柄な刑事、ヒンケルがノアの目をまっすぐに見つめて頷いて己の部下を紹介し、柔和な顔で会釈されてそれにつられる様にノアも目元を緩めてしまう。
「先ほどは失礼しました」
「いいえ」
父の警察を怨嗟しているような態度の理由は不明だが大人として良い態度ではなかったと詫びる彼にコニーと呼ばれた刑事が穏やかな顔で同じくノアの手を握った後、病院を出てからの方が何かと大変かと思いますが手に負えないと思えばすぐに連絡を下さいと、隣の国からやってきた新進気鋭のフォトグラファーの置かれた状況に心底同情している顔で囁かれ、ありがとう、本当に困れば先ほど教えてもらった教会に行ってみようと思いますとも返し、マザー・カタリーナは本当に良くしてくれる人ですよ、何しろあのリオンを育てた人なのですからと教えられて蒼い目を限界まで瞠る。
「え……?」
「その教会はさっき少し説明しましたが、リオンが育った教会です」
素直になったところなどついぞ見たことのないあの男を立派な一人前の男に育てたのはそこの教会の人々の山よりも高い愛情のなせる技ですと、どこまでが冗談なのかが分からない事を囁かれて困惑したノアだったが、今日だけで何度耳にしたか分からないリオンという名前が心の中に突き刺さった何かのように思え、腿の横でキュッと手を握る。
「……今日は無理ですが、時間を作って教会に行ってみたいと思います」
四半世紀と少しの人生を送ってきた内で、己に良く似た男の名前を何度も聞かされるだけではなくその男と間違われた挙句、張本人と緊迫下で顔を合わせる事など奇跡としか言いようがなかった。
奇跡でないとすれば悪魔の悪戯か運命の女神の出来心としか思えなかったが、それから逃げるなど許せるはずもなく、悪魔か女神のどちらの抱擁が待ち受けているか分からない未来に飛び込んでみようと腹を括ったノアは、己の顔にその決意が表れていたのか表情を変えて見つめてくるヒンケルとコニーの二人の刑事が懐かしさと驚きを感じるような太い笑みを浮かべ、しばらく母の事件で世話になるがよろしくと伝えると、ソファから見守っていたアルノーでさえも初めて見たノアのその顔に驚いて呆然と見つめてしまうのだった。
その決意が両親との関係に変化をもたらす事になるなど外界の喧騒と同じくこの時のノアに理解できるはずもなかったが、今は好奇心とリオンという名前に突き動かされるような気持だけが胸に満ちているのだった。
ノアが病院で密かな決意をし周囲が何かを感じ取りながらも声をかけずに手術が終わるのを待っていた頃、警察署でクソがつくほど真面目な男の取り調べを何とか終え、コールタール一歩手前のコーヒーをそれでも何とか飲み終えて待っていたウーヴェと一緒に帰路についていたリオンだったが、ヘクターが警察署にわざわざ届けてくれた車に乗り込むと同時に助手席でグチグチと文句を垂れていた。
「……しつこいぞ、リオン」
「俺のキスを床に投げつけたオーヴェさん、何か言いましたかー?」
リオンが聴取を受けていた部屋からウーヴェに向けて投げられたキスを受け取った後、床に叩きつけるように手を振った事をまだ根に持っているのか、ジロリと横目で睨んでくるリオンに深くため息を吐いたウーヴェは、どうするこのまま家に帰るかそれとも何か食べて帰るかと問いかけるが返事がないため、流石にいつまで拗ねているんだと信号が変わったタイミングで顔を右に向けると、真剣な表情で考え込むリオンの横顔を見出して眼鏡の下で目を瞠る。
「リオン……?」
その横顔は滅多に見ない真剣なもので直近で見たのはいつだったかと思い出そうとしたウーヴェは、後続の車から苛立たしげにクラクションを鳴らされて我に返り、急発進気味に車を走らせる。
「……何が引っかかっているんだ?」
「んー? ……ノア・クルーガーがさ、マジで俺に似てたなぁって」
あれならばお前やリアが間違えても仕方がないと肩を竦めたリオンの様子を視界の端に納め、先日来の俺の不機嫌さもあながち間違ったものではないだろうと囁くと、それはそれこれはこれと返されてしまうが、ただ自分でも驚いてしまう程似ていたなぁと呟くリオンに頷こうとしたウーヴェは、車内に突如響き渡った大声に危うくハンドル操作を誤りそうになる。
「!?」
「オーヴェ、会場に戻ってくれ!」
「な、何だ?」
「ジャケット! 俺のタキシードのジャケット、会場に忘れて来た!」
あの時彼女の頭を覆うようにジャケットで包んだリオンだったが、救急車に乗せられた彼女の身体にはジャケットは被せられておらず、隊員がその場に置いた可能性があると告げた後、持って帰っても血塗れでごみ箱行きかも知れないが思い出のあるタキシードだから何とかならないかなと、殊勝な気持ちとは裏腹な態度でダッシュボードに行儀悪く足を乗せて組む。
いつもはそれを咎めるウーヴェだったが今日はリオンが外見では判断できないが実は密かに疲労困憊していることに気付いているから何も言わずに溜息一つでそれをやり過ごすと、会場に戻る道へと車の進路変更をする。
「ヘクターが持って帰ってくれている可能性はないか?」
「どうだろう。電話してみる」
ウーヴェが会場に向かう前に確認してみればどうだと提案をし、それを素直に受け入れたリオンが取り出したスマホでヘクターを呼び出すと、どうやらあちらはギュンター・ノルベルトを自宅に送り届けた所らしく、背後で彼が心配そうにもう聴取は終わったのかと問いかける声も聞こえてくる。
ウーヴェとの付き合いを当初は認めないの一点張りだったギュンター・ノルベルトだったが、その後誘拐事件を経て二人が結婚をした頃には弟の伴侶にふさわしいとリオンを認めつつもそれを素直に出すような男ではなかった。
だがこうして事件に巻き込まれて二人が大変な目に遭った時には日頃の態度など忘れたように気遣うことのできる男で、今もまたそれをしてくれたことに内心感謝の思いを抱いたリオンは、聴取はいま終わってこれから家に帰る所だが彼女に被せていた俺のジャケットをピックアップしてくれていないかと問いかけると、奥様が持って帰ったと教えられて目を瞬かせる。
「へ?」
『奥様がクリーニングに出すから持って帰ると言っていたぞ』
奥様、つまりはイングリッドが自宅に持ち帰ってくれたと教えられて安堵に目元を細めたリオンは、運転しながらも様子を窺っているウーヴェに伝えるようにムッティが持って帰ってくれたのかと問い返し、そうだと苦笑されて小さく頷く。
「親父の家にあるって、オーヴェ」
「そうか……じゃあ家に帰ろう」
進路変更をしたがもう一度変更をし自宅に帰ろうと笑ったウーヴェに頷いたリオンは、今から家に帰るが親父とムッティには家に帰ってから連絡をする事をヘクターとその後ろで心配している義兄に伝え、通話を終えたスマホをダッシュボードに投げ出す。
「……オーヴェ」
「どうした?」
「うん……あいつ、なんで俺を見て謝ってくれって言ったんだろうな」
聴取の間実はずっとその言葉が脳裏をぐるぐる回っていたと後頭部で手を組んで狭い車内で出来る限りの伸びをしたリオンは、何気ない振りを装って問いを発して同じく何気ない声が返ってくると思っていたが、返って来たのは何故か緊張感を帯びた声で、気になってウーヴェの横顔を見るように顔を向けるとウィンカーを出した車が路肩に静かに停止する。
「オーヴェ?」
「……リーオ、リオン……お前は、血の繋がった兄弟や肉親はいないと言っていたが……」
彼がお前をあの二人の子供だと思ったとの言葉だが、もしもそれが本当の事だとすればどうだと躊躇いながらも己の胸に芽生えた疑問を握り潰すことが出来なかったウーヴェが視線を頬に受けつつ問いかけると、一瞬で肌が粟立つような緊張感が車内に満ちる。
「……俺に親兄弟はいねぇって言っただろ、オーヴェ」
「……ああ」
「晴れの舞台に立つ女優に発砲した頭のイカれた男の言葉を真に受けてんじゃねぇよ」
「……」
リオンの根源にして気安く触れてはいけない傷に手を掛けた事をこれもまた滅多に耳にしない冷酷な声から察したウーヴェは、力の入らない左脚に無意識の力を込めようとするが上手くいかず、一瞬覚えた恐怖感を払拭するために薄く目を閉じる。
聞こえてくる嘲笑まじりの声を脳内でリフレインして真意を探った時、聴取を受けている間ずっとその言葉の意味を考えていたのだろうかとの疑問が芽生えてくる。
リオンが聴取を受けている間ウーヴェの脳裏にはもしもの世界が広がっていたのだが、もしもリオンも同じ世界を感じていて、その中でその言葉は今の様に嘲笑う対象ではなかったのではないかと瞬間的に思案した時、薄い世界にキラリと光るリングが飛び込んで来て逆に軽く目を瞠る。
リオンの本心が何処にあるのかを見抜くのは最近では慣れて来たとはいえまだまだ不安な事が多かった。
だが本心を聞きださないままでいると、付き合いだしてから密かにウーヴェが恐れつつも考えるのをやめる事ができないでいた二人の距離が離れるだけではなく、神と愛する人たちの前で誓った一緒に幸せになるとの言葉がただの薄っぺらい紙切れの様に思える事態へと発展するのではないかとの不安が自然と湧き起こり、小さく息を吸って腹に力を込めると、その勢いで顔を助手席のリオンへと正対させるように向ける。
意外なほどの至近距離にあるリオンの顔、一対の至宝のようなロイヤルブルーの双眸が強く光って思いを伝えてくるが、相反する思いを伝えるように嫌な角度に持ち上がった口角を見たくなくて咄嗟に腕を伸ばしてくすんだ金髪を抱きしめる。
「……ダンケ、オーヴェ」
「……何が、だ」
俺の事を思っての言葉だということは理解している、だがあの男の言葉はただの戯言で今まで何度も言って来たがやはり己には血の繋がった家族はいないのだと、ウーヴェの薄い胸に告白するように両足をダッシュボードから戻し姿勢を正して囁くリオンの頭に頬を宛てがい、確かにそうかも知れないがお前の家族ならここにいるとそれだけを何とか返したウーヴェは、逆にリオンに抱きしめられて眼鏡が当たる痛さに顔を顰める。
「リオン、眼鏡が痛い……」
「……ダンケ、優しいオーヴェ」
血の繋がりはないが他でもない俺の家族はお前のいう通りここにいてくれると、ウーヴェの両頬を両手で挟んで額を重ね合わせてくるリオンの言葉にウーヴェが眼鏡を自ら外してダッシュボードに投げると、リオンに相応しくない笑みが浮かぶ唇を見たくない一心でキスをする。
「……家に帰ろう、リーオ」
俺とお前と俺達が愛する文物が待っている家に帰ろうとキスの後に囁くと、返事の代わりのキスが返ってくる。
「今日は色々あって疲れただろう? 何か好きなものを買って帰ろうか」
「……要らない。家に帰ろうぜ、オーヴェ」
スラックスが黒で目立たないが実はかなり血が染み付いているそれを着替えて気分を切り替えたいと苦笑するリオンに頷いたウーヴェだったが、眼鏡をかけて車を後続車の邪魔にならないタイミングで車列に紛れ込ませるがシフトレバーに載せた手をリオンがずっと握っていた為、己の言葉が意外なほどリオンの心を打ったことに気付き、安全運転を心がけつつも何よりも大切だと伝える代わりにその手を口元に引き寄せて何度もキスをする。
手の甲や指へのキスから伝わる想いにリオンの心が徐々に平穏さを取り戻したのか、自宅に帰り着くまでの間リオンはウーヴェの手を頬に宛てがったりキスを返したりと、まるで子供がお気に入りのおもちゃを手にした時の様に離すことはないのだった。
ウーヴェが発した問いとリオンが口に出す事の出来なかった思いは喉に刺さった小骨のような不快感で二人の間にひっそりと、だが確実に存在し、いずれはそれが少しずつ大きくなって大々的な外科手術が必要になってしまうのではないかとの不安を感じさせるのだった。