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ベルリン在住のシュペーアがドイツ南部で開催される映画祭に足が悪いのを押して参加しその晴れの舞台に立つ彼女に発砲したのは、四十年以上前のヴィルヘルム・クルーガーとハイディ・クルーガー-当時はハイデマリーという名だった-二人の亡命事件に端を発した怨恨だった。
それが取り調べの結果判明したのだが、事件を起こしたことを後悔している顔ながらも淡々と聞かれたことにシュペーアが答えた為、拍子抜けするほどあっさりと事件の動機が解明されてしまう。
ただシュペーアが総てを告白したとしても昨今の世間的な事情から背後に宗教や政治的な事象が絡んでいないか、本当に単独犯なのか繋がりのある組織は無いか、脅迫状とは無関係で不幸にもターゲットが重なってしまっただけなのかと詰め寄られたが、それに対しては本当に単独犯で彼女を狙う事に決めたのもこの街にやって来た時に偶然街中ですれ違ったときだったとシュペーアは淡々と返していた。
今回の事件は己を苦しめ続けてきた彼らへの積年の恨みが瞬間的に沸点に到達した結果であり、レッドカーペットの上で笑う彼女がスポットライトを浴びている姿と己の人生を比べた時に感じた現実に理不尽な怒りを抱いてしまった故の暴力だと説明をし、政治や宗教、ましてやニュースで話題になるような組織とは全く関係がないと何度も繰り返していた。
「……彼女を撃った事は反省している。彼女が倒れるのを見てとんでもないことをしたと実感した。ハイデマリーとヴィルヘルムの二人には申し訳ないことをした」
取り調べの刑事に淡々と、だが反省していることは十分伝わる態度で何度も謝罪を繰り返し、彼女の容態はどうなのだと己が晴れの舞台で女優となった旧知の女性を狙撃しておきながらも彼女の心配をするシュペーアに、取り調べをしていた刑事達がなんとも言えない顔になる。
そこまで心配するのならどうして凶行に走った、抑えることは出来なかったのかと誰もが疑問に思うことを問われ、自分でも分からない、彼女が晴れがましい顔で立って皆に手を振っているのを見た瞬間に頭の中にあの夜の粉雪が降り、気付いたら名を叫んでいたのだと己の行動を振り返ってみてもそこまで強い恨みがあったのかと呆然としている顔でシュペーアが告白し、それにしてもあれだけの人がいる中で良く彼女だけを狙撃できたなと奇妙な感心をされてしまい、ひょいと肩を竦める。
「きっと……運が良かったんでしょう」
「何だと?」
「私にとっては復讐が達成できて運が良かった。周囲の人にとっては自分が標的にならずに済んで良かった。……彼女にとってはあの日あの時そこにいたのは運が悪かった。ただ、それだけです」
女優という身体が資本の彼女に傷を負わせてしまった事は申し訳ないとは思うが、運が良ければ彼女は負傷していなかっただろうしそもそもセキュリティが拳銃を見逃した時点で彼女の運は存在しなかったのだと、反省している者の口から流れ出した言葉とは到底思えないそれに刑事達が顔を見合わせ、運が良ければ彼女は負傷しなかったというのかと声を低くすると、その通りで運が良かったから自分は今こうしてここにいられる、そうでなければ自分は秘密警察に取り調べをされている時に命を落としていたはずだと小さく肩を揺らすシュペーアの様子に背筋に嫌な汗が流れ落ちるのを感じて眉を潜めてしまうのだった。
病院の許可を取って手術室の前にソファを移動させたノアは、落ち着き無く廊下を右へ左へと歩く父を思うようにさせていたが、病院内の気配が運び込まれた夕方から刑事達の話を聞いた夜を越え、一人また一人と家や宿泊先のホテルに帰るのを見送った頃には深夜の静けさへと変化したのを何と無く感じ取っていた。
その頃になるとヴィルヘルムもかなり落ち着きを取り戻したもののノアの横に腰を下ろして腕組みのまま天井を見上げてはすぐに床を見、左右の廊下を今度は視線で行き来したりするようになっていた。
「……マリーの怪我、酷いのか……?」
腕の時計はすでに深夜を示していて、手術が始まってから何時間が経過したのかを数えようとするが、救急車に同乗してやって来た時間を覚えていないとヴィルヘルムが廊下に零し、確かにそうだとノアも小さく苦笑する。
「リオンって男が止血してくれてたけど……かなり出血が酷かったよな」
「そう、だね……何とか無事に手術が終われば良いが……」
それにしてもまだ掛かるのかと家族の容態を案じる二人が当時に呟いたとき手術中を示すランプが消え、ドアの向こうが騒がしくなった為につられるように二人同時にソファから立ち上がり、ドアが開いて彼女がストレッチャーで出てくるのを待つが、疲労の滲んだ顔で二人の前にやって来たのはたった今まで手術をしていた医師で、二人に向けて重苦しい口調で経過を伝えてくれる。
「……弾丸は無事に摘出出来ました。運良く脳内には深く入っていなかったですが、損傷を受けた箇所の関係で何らかの後遺症が出る可能性が高いです」
執刀医の言葉にヴィルヘルムが力なくソファに座ってしまい、しっかりしてくれと内心で舌打ちしつつノアがそれでマリーの容態はと問いかける。
「出血が思っていた以上に酷くて輸血をしました。これからの事は意識が戻るのを待ってから決めましょう」
ひとまず今日はこのまま集中治療室に運びます、家族の付き添いは時間を制限した上でならば可能ですと、医師独特の冷たく聞こえる声に今度はノアがめまいを覚えそうになるが、蒼白な顔で見上げてくる父が何も出来ない様子だと思いだし、今度は音にして舌打ちをしてしまう。
「……では、私はこれで」
「先生、母の手術をありがとうございました」
先ほどの舌打ちはあなたに対してでは無いと慌てて謝罪をしそれを受け入れてくれた医師に会釈をした後、点滴の管を何本も腕に刺したまま生気の無い顔で目を閉じている母がベッドに寝かされたまま出てきた事に気付いて駆け寄ると、看護師の顔に気の毒そうな色が浮かぶ。
「マリー」
呼びかけても返事がない事は分かっているがそれでも母を呼ばずにいられなかったノアは、24時間誰かの目がある集中治療室に運ばれていく母と医師を見送るが、立ち上がることの出来ない父の横に力なく座り込み、同じように頭を抱えてはいけないと思いつつも抱えてしまいたくなる。
「……マリー、集中治療室にいるから。面会は出来るけどずっと傍にはいられないって」
「……仕方ない、な」
「ああ」
明日-と言っても正確には今日-彼女が立つはずであった晴れの舞台の事、入院している間の事、警察へ出向いての事情聴取など負傷した彼女に代わってしなければならない事が文字通り山ほどあったが、父の様子からどれも頼めないと腹を括ったノアは、ICUに入る事は出来ないがここにいる事については誰にも文句は言われないはずだからあんたはここにいてくれと落ち着きなさげに足を揺する父の肩を掴むが、ああ、また見知らぬ父を見いだしてしまったと脳内で響く声を振り払い、マリーの傍についていてやれ、後のことは俺とアルノーやマネジャー達と何とかするとも告げ、父の蒼い目に映り込む己の顔すらも他人に思える乖離感に背筋を震わせる。
今までの人生の中、見慣れた人が見知らぬ人に見えた事など無かったために得体の知れない恐怖に囚われそうになるが、己よりもしっかりしていて欲しい父を励ますように肩を揺すり、しっかりしてくれと声に出して懇願する。
「マリーは大丈夫だ。だけど傍にいてやってくれ」
俺たち家族は三人揃ってこそなんだ、だから彼女が最も信頼しているあんたが傍にいてやってくれとも言い募り、漸く父の目に浮かんだ靄が晴れたことに気付き、安堵に胸を撫で下ろす。
「ああ、そうだ。そうだな」
「ああ」
「マリー一人じゃ可哀想だ。ノア、僕はここにいるから後は頼んだ」
お前に負担を掛けてしまうが頼むと漸く立ち上がってくれた父に大きく頷いたノアは、大丈夫だから三人力を合わせてこれを乗り越えようと己の不安を解消するために父の背中に腕を回すと、幼い頃からずっと感じていた強さと温もりを伝えてくれる腕が同じように背中に回される。
その安心感に堪えていたものが込み上げてくるのを全力で押さえ込んだノアは、とにかく一度ホテルに戻るがホテルが騒々しい様子だったら刑事に教えて貰った場所に避難すると伝え、それは何処だと問われて先ほど書いて貰ったメモを探すが、ポケットに入れたはずのそれが見つからずに肩を竦める。
「確か聖母教会って名前の小さな教会」
「聖母教会……?」
「そう。困ってる人は絶対に見捨てない教会だって」
小さな古い教会らしいが警察とも良好な関係を築いているのか、警察が証人や重要参考人を保護する際に預かって貰ったりもしているらしいと告げ、尻ポケットからメモを発見したノアはこれが住所だと告げてメモを見せようとするが、父の意識がすでに母の元へと向かっている事に気付きメモをポケットに戻す。
「持ってきてほしいものがあればメールをくれ、ウィル」
「ああ、そうだね。マネジャーにもメールをしておくけど、ノア、お前も大変だっただろう? 少しでも休みなさい」
「ああ」
病院の外ではマスコミが待機している様子だったが、さすがに深夜とも言える時間にまで待機はしていないだろうと苦笑しあった父と息子は、仮眠を取ってまたここに戻ってくると伝えながら父の肩を再度抱き、抱き返されることで今回の事件を悲嘆に暮れずに乗り越えていく同志のような力強さを互いに分け合い、絶対に三人で前のように笑おうと誓い合うのだった。
仮眠を取って入院に必要な手続きをする為にホテルに戻って行くノアを妻が寝かされているICU前の廊下から見送ったヴィルヘルムは、静かな廊下で一人ベンチに腰を下ろし、生命維持装置や酸素マスクをする事で何とか命を繋いでいる妻の姿にきつく目を閉じ、息子も堪えていた感情を必死に押し殺す。
彼女をこんな目に遭わせたのが心の奥底で頑丈な扉で封印を施してあったはずの過去で親友と呼べる存在だと教わり、やり場のない怒りを拳に込めてソファの座面を殴る。
自分たちの亡命で秘密警察から拷問じみた聴取を受けて体を壊した為に再会できれば復讐したいと思っていたとも伝えられたが、その機会が今日だったのだろうか。
彼女の手を取り灰色の街から亡命し、自由を謳歌するために訪れたこの街で己はフォトグラファーとして、彼女は女優として働きながら夢に向かって突き進んでいたが、地道な努力の集大成が明日の映画祭での授賞式だったのにそれを壊したのが己の親友で、その遠因となったのが自分達二人の亡命だと教えられてしまうと犯人に対して振り上げた拳をどこに落とせばいいのかが分からなくなってしまう。
粉雪が降っていたクリスマスイブの夜、亡命を止めれば彼女は命を狙われずに済んだのだろうか。
あの時、亡命すると伝えなかった親友に事情を説明しておけば、彼は秘密警察の取り調べを受けずに済んだのだろうか。
そんな今更考えても仕方のない事が脳裏をぐるぐると渦を巻いて駆け巡り、思わず握りしめた拳を壁に叩きつけてしまう。
自分達が亡命した後、時を経てまでも復讐を果たしたいと思うような出来事が彼の身に降りかかったのだろうか。
一体何があったのかは分からないが、それこそ血の滲む様な努力を続け漸く栄冠に手が届きそうになった今、それを阻止するような旧友の行動が腹立たしくて、亡命することもせずにあの国で理不尽な周囲の目に負けて暮らしていた為に彼女の成功が羨ましくて妬ましいのだろうと、旧友が何故今になって事件を起こしたのかの正確なところまで読み取れずに怒りを目に浮かべたヴィルヘルムは、とにかくあいつが悪いと脳裏に思い浮かぶ過去の旧友の顔に吐き捨てるように告げるが、今ここで恨みつらみを並べ立てても彼女は戻ってこないと気付き、今度は祈るように両手を組んで最愛の妻が治療を受けている部屋をじっと見つめる。
「……神よ、どうか彼女をお助けください」
他の俳優たちのように役が欲しいからとあの手この手を使ったりせずに演技力に磨きをかけてきた己の妻であり貴重な俳優である彼女をどうかお救いくださいと自分の時以上に真剣に祈った彼は、夜が明けて医師の診察が終わり今後の治療方針について話を聞かされるまでの永遠にも感じる長い時間をただ祈りながらICUのガラス越しに見守っているのだった。
初めて見るような顔の父を一人残して大丈夫だったのかとマスコミも誰もいなくなって静寂さを取り戻している病院のドアの横でタクシーを待っていたノアは、ぼんやりと思案しつつ初夏の星が煌めく空を見上げる。
この街にやって来た時などは星があるとはわかっていても意識することのなかったそれに目を細め、きっとこの星々は自分や自分と同じような境遇の人たちを数多と見降ろしながらも残酷なほど綺麗に光っていたのだろうと如何ともし難い自然の摂理に毒突きたくなるが、感傷的になりすぎていると自嘲する声が聞こえてくる。
確かに感傷的にも悲観的にもなっている、何しろこんなことは初めてだからと己の声に言い訳をしながら遣る瀬無い溜息を零したノアは、電話で呼んだタクシーがやって来て眠そうな顔のドライバーがぞんざいに降りて来たことに気づいて片手を上げる。
ホテル名を告げて助手席に座って安堵のため息をついた彼は、運転手が静かに流しているラジオからアヴェ・マリアが流れ出したことに気付いて、シートに深く凭れかかって再度溜息を零してしまう。
タクシーは静かにホテルに向けて走っていくがサラサラと音が聞こえてそちらに目を向けたノアは、イグニッションキーから短く下がっている十字架に気付き、クリスチャンかと呟いてしまう。
「……あなたは、聖母教会を知ってますか?」
キーからぶら下がりシャラシャラと耳に心地よい音を立てるロザリオを遠くを見る目つきで見つめたノアの呟きにドライバーが一瞬考え込むが、尖塔を二つ持つ教会かと返されて苦笑する。
「いや、困った人には門を閉ざさない教会らしい」
「残念ながら聞いた事はないな」
「そうだよな」
でも今日教えてもらった事は嘘じゃないだろうから行ってみるよと独り言のように呟いたノアは、誰か入院しているのかと問われ、夕方の出来事を知らないのかと聞き返したくなるのを堪えつつ仕事でこちらに来ている母が緊急入院をしたから仮眠を取ってまた病院に戻ると、一気に十歳も歳を取った顔で呟くノアにドライバーが口の中で短く母のために祈ってくれる。
その言葉にホッとしホテルのエントランス前に止まったタクシーから降りると、チップを倍以上にもらって感謝と困惑を浮かべるドライバーに礼を言うと、人が全くいない深夜のフロントを足を引きずるように通り過ぎて部屋へと向かう。
部屋の中は出て行った時の慌しさが残されていて、まだ数時間前の過去が随分と遠くの幸せな光景だったと感じ、血の付いたタキシードや靴をその場に脱ぎ、考えることに疲れたと呟いてベッドに横になるがなかなか眠りが訪れるはずもなく、起き上がって深く溜息を零した彼は備え付けの冷蔵庫から水よりも安いビールを取り出し、グラスを使わずにボトルのまま口をつける。
ここを出る前は母の晴れ舞台に浮かれ映画祭を楽しむ為に準備をしていたが、その晴れ舞台でまさか彼女が狙撃されるなど誰にも予想できなかった。
その後の記憶はあやふやではっきりと覚えているのが倒れた母の前で何も出来ずにオロオロとしている父と、母の負傷に気付いて誰よりも真っ先に駆けつけて手当をしてくれたリオンと言う己より十歳ほど年上の男の顔だった。
その顔は己も驚くほど似通っていて、父も随分と驚いていたが、彼は一体誰なのか。
リオンと言う名前は刑事に教えてもらったが、自分達家族と関係があるのか、それとも世界には三人はいるとされる己にそっくりな他人なのか。
考えても答えが出ないことをビールを飲みながら考え込んだノアは飲み干したボトルをテーブルに置くと今まで見ることも忘れていたスマホを取り出し、メールや着信が経験したことがないほど入っている事に驚くが、一つ一つに返事をする気力などなくビールの力を借りて今度こそ眠りに就くのだった。
年に一度の映画祭、それを盛り上げる前夜祭で主役の一人であった女優が狙撃された事件が映画界に与えた衝撃は大きかったが、それ以上に、その事件の渦中に放り込まれてしまった者達の関係を大きく変化させる事になるのだが、当事者たちにはぼんやりとした予感を抱く程度で先を見通せるはずもなく、ただ目の前の非現実的な事態に対処することしかできないのだった。
事件現場となった会場を後にし、それぞれの眠りに就く場所に戻った彼らの頭上、幾千幾億と見守り続けて来た星々が今もまた静かに煌めいているのだった。